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第四話
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セドルの父である前ラダム公爵は、妻の造反疑惑の責任を取って、自ら爵位を退くことを願い出た。前国王の妹であるセドルの母親は、その矜持故に妾腹の国王や伯爵家出身の王妃を嫌い、自分に阿る一部の貴族夫人たちを煽って国王や王妃を貶める噂をばらまいた。それが一時謀反騒ぎにまで発展し、事態を重く見たセドルの父はセドルに爵位を譲ることを願い出た。それを知った元ラダム公爵イドリックは憤死。セドルの父は妻を王都から遠ざけるべく、所領の邸に自主的に謹慎する。
十五歳で爵位を継いだセドルはそのまま王城に残り、派閥で最も力があり良き助言者でもあるブレイス侯爵の助けを得て公爵の務めを果たしていた。
セドルが公爵位を継いでからも侍女として付き添ってきたカチュアは、帝国宮殿にもブレイス侯爵とともに同行した。
帝国宮殿では、大広間に帝国の貴族たちが集まっていた。その多くがグレイスと同世代か、それより下だ。彼らはレナードの許可を得てこの国にやってきていることから、グレイスの味方になり得る者たちなのだろう。
しかし今は、彼らがグレイスを追い詰めていた。
「祖国に危機が迫っているというのに、どうして帰国が許されないのですか!?」
「今から我らが帰国したところで、余計な混乱を招くだけ。武力に秀でているわけでも、強力な軍を持つわけでもない我らに、出来ることは何もない。今は祖国に残った親兄弟の気を散らさぬよう、おとなしくこの地で続報を待つのが賢明」
「ですから、レシュテン駐留の帝国軍を国王陛下から返していただき、帰国して反乱を鎮圧すべきだと申し上げているのです!」
「我ら全力で皇女殿下をお支えいたします!」
動揺していても、さすがはレナードに“選ばれた”者たちと言うべきか。祖国を思う心映えだけは立派だ。だが、それに“実”がともなっていない。
グレイスは冷静にそのことを口にする。
「祖国が危機に瀕しているとはいえ、軍を率いて帰国すれば我らも反逆者。新皇帝が反乱軍鎮圧の命をわたくしに出してくれれば大義もできようが、伝聞によれば危機を認識すらしておらぬ様子。この分だと、わたくしが命令を求めても取り合ってはいただけぬ」
ただ軍を起こし反乱勢力を鎮圧していけばいいだけではない。兵を挙げるには正当な理由が必要で、前皇帝の孫娘であっても命令がないのに帝国内で戦いを起こせば、罪に問われることも考えられる。
そのことに気付かされたのだろう。多くの子女たちが沈痛な面持ちで口をつぐんだ。けれど自分の考えの浅さを認められなかったのか、一人の若者が食い下がろうとする。
「ですが、だからといって手をこまねいているわけには」
この言葉を、離れたところで様子を伺っていたセドルの声が遮る。
「グレイス皇女殿下のおっしゃる通りです」
話を遮られた若者は眉をひそめ、不審げに尋ねた。
「君は?」
「セドルといいます。現在ラダム公爵位にある者です」
場がざわめく。帝国の者であっても、ラウシュリッツ王国に滞在するからにはある程度ラウシュの事情に通じている。ラダム公爵にまつわる不穏な話も聞き及んでいるはずだ。質問が飛び出さないうちに、セドルは若者に話し始めた。
「こちらで不用意に行動を起こせば、帝国におられるあなたがたのご家族にいらぬ嫌疑がかかる危険があります。情報も不足していますから、今は続報を待つべきです。シグルド国王陛下は各所に通達して情報収集に当たらせています。集まった情報は、あなたがたにももたらされることでしょう」
セドルの話が終わると、ブレイス侯爵がすかさず解散を促す。
「まだ一報が届いたばかりで、続報の到着は明日以降になるだろう。今から気を張っていたのでは、早晩参ってしまう。本日はレナード皇帝陛下崩御と反乱勃発の報が同時に入りショックも大きいだろうから、早めに休むとよろしい」
わざとだったのかもしれない。レナードの死を再度告げられ、過半数の者たちが気まずげに表情を歪める。彼らは数人ずつグレイスにお悔やみの言葉を述べると、去りがたそうに幾度も立ち止りながら解散していった。
セドルの後ろに控えて帝国貴族の子女たちが広間から出ていくのを見送っていたカチュアは、ふと振り返りグレイスがいないことに気付いた。
「セドル様、ちょっと失礼いたします」
一言断って、部屋の隅に待機している女性使用人に近付く。
「あの、皇女殿下は……」
「皇女殿下は、気分がすぐれないとおっしゃって部屋に下がられました。ご足労いただきましたラダム公爵様、ブレイス侯爵様、そして皇女殿下のご学友であるカチュア様にお詫びと、おもてなしを言い遣っております」
「すみません。皇女殿下のご様子を伺いに行ってもいいでしょうか? 何だか心配で……」
二十歳中ごろと思われるその年若い使用人も、やはりグレイスのことが心配だったのだろう。「お一人になりたいとおっしゃっておいででしたが、ご学友のあなた様ならお会いくださるかもしれません」と言って、カチュアを広間の上階にあるグレイスの私室に案内する。
女性使用人が扉をノックして遠慮がちにカチュアのことを告げると、グレイスは一呼吸置いた後入室を許可した。グレイスの叱責も覚悟していたと思われる女性は、ほっとして表情を緩め、カチュアのために扉を開く。カチュアが中に入ると、背後で静かに閉じられた。
グレイスは窓辺に佇み、窓の外を眺めていた。その小さく頼りなげな背中に、カチュアは泣きたくなるような胸の痛みを覚える。
まだ十七歳なのだ。
帝国皇女としての教育は一通り受けていても、皇帝になるための教育を受けたわけではなく。天真爛漫に育ち、故郷から遠いこの国で恋に落ち、愛する人のためこの国に馴染もうとしていた。
その夢が崩れ去り、若くして突如国の重責を背負わされることになった彼女の心の内は、平民のカチュアには計り知れない。
かけられる言葉も見つからないまま近付いていくと、グレイスがゆっくりと振り返った。その虚ろな瞳に涙が滲む。カチュアは思わず足を止める。するとグレイスは投げやりな笑みを浮かべた。
「おじい様は残酷よ。わたくしにしあわせになれと言いながら、選びようのない選択肢を突き付けてくる」
「それってどういう……」
彼女らしからぬすさんだ様子に心配を募らせながら、おそるおそる尋ねる。
グレイスは泣きそうに表情を歪めて話し出した。
「帝国崩壊に関わったりせず、ここラウシュリッツ王国で静かに暮らしてもよいのだと。国王陛下に頼んであるから、わたくしはここにいてこの国に逃れてきた帝国民の住まいや仕事の世話をしながら終生争い事とは無縁な生活を送ってもよいと。ですが覚悟があるのなら、わたくしが正当な帝国の後継者であることを示す公式文書をレシュテン駐在の総督に預けてあるから、機を見て皇帝の名乗りを挙げるとよい、と」
途方もない話に、カチュアは一言も発せない。
グラデンヴィッツ帝国は、国土も民もラウシュの十倍以上という巨大な国だ。レナード皇帝は四十年以上の長きに渡ってその広大な国を治めてきて、その偉大な皇帝が、グレイスに覚悟があるのなら自分の後を継げと言う。
「覚悟も何も、わたくしが皇帝になるしかないではないか! 大叔父では反乱鎮圧どころか逆に制圧されかねない。この地に逃れてきた者らの家族は、反乱勢力に下れば処罰は免れぬじゃろうし、最悪極刑も有り得る。おじい様に忠誠を尽くしてくれた者を見殺しになど出来ない。わたくしを頼る者たちも、わたくしが責務を逃れることを許さない。選択肢などという下手な逃げ道を作らず、おじい様にはただ一言命じていただきたかった……!」
ああ、この子は……
カチュアはたまらなくなって、こぶしを握りうつむいて、懸命に耐えるグレイスを抱きしめる。
天真爛漫であろうが、恋にうつつを抜かしているように見えようが、グレイスはやはり帝国皇女なのだ。反乱に関わらない平和な暮らしに心惹かれながらも、グレイス自身が帝国のために自らが尽くすことを望んでいる。
カチュアの肩口に顔を埋めながら、グレイスは掠れた声を漏らした。
「何故おじい様は早く報せてくれなんだか。知っておれば、アルベルトを愛したりしなかったものを」
その時急に扉が開き、アルベルトの凛とした声が響いた。
「グレイス、君の僕への想いは、その程度のものだったの?」
グレイスは、カチュアの腕の中でぎくっと身を強張らせる。気まずい雰囲気を感じカチュアも動けないでいると、アルベルトはゆっくり近付いてきながら話を続けた。
「悪いとは思ったけれど、話を聞かせてもらった。グレイス、君はグラデンヴィッツ帝国の皇女だ。帝国に何かあれば、君も皇族の一員として何らかの責務を負うことになる可能性を考えなかった? だとしたら、考えが足りなかったね」
グレイスはこんなにも打ちひしがれているのに、追い打ちをかけるなんて。
咎めようとして振り返ったカチュアは、アルベルトの険しい表情を見て言葉を呑む。アルベルトはカチュアたちの脇に立ち、うつむいてアルベルトから目を逸らすグレイスをひたと見据えた。
「僕は多くのことを考えたよ。君の気持は一過性のものなのか、本気なのか。君と付き合うとなったら遊びでは済まされない。結婚は可能なのかどうか。結婚して君が伯爵夫人になったとしても、君は帝国皇女の責務から逃れられない可能性がある。そんな事態になった時でも、僕は君を“諦めずにいられるかどうか”」
最後の一言に、グレイスははっと顔を上げる。グレイスの見開かれた目から視線を逸らさず、アルベルトは続けた。
「所領での生活に馴染もうとしている姿を見て、君が本気だということはわかった。なら、障害が発生したらすぐ別れを選択できるような生半可な気持ちで付き合うわけにはいかない。君を傷つけることになるから。だから僕らの障害となるありとあらゆる可能性を想像してみた。僕にそれらを乗り越えようと決意できるだけの想いがあるかどうかも。そしてどんな障害があろうと君を手放したりしないと覚悟できたから、君の想いを受け入れた。──今回のことは、言い方が悪いけれど、僕にとって想像したうちの一つに過ぎない。だから、君は僕に遠慮することなく、君が進むべきと思う道を歩むといい。僕は何があろうと、全力で君についていくから」
「アルベルト……」
アルベルトに抱きしめられると、グレイスは胸元に顔を埋めて泣き出す。
すでに一歩後退っていたカチュアは、そろそろと歩いて扉に向かう。
音を立てずにそうっと扉を閉める直前、アルベルトがグレイスの髪をいとおしそうに撫でいるのが見えた。
翌日、グレイスとアルベルトが揃ってシグルドに面会を申し込んだ。
話し合った結果、グレイスは軍の指揮を学ぶため、レシュテンに赴き軍に入ることが決まった。皇帝の名乗りを上げたら、すぐに軍を率いて帝国に戻らなければならない。今は皇帝の名乗りを上げるのには時期尚早だが、だからこそ今の時間を使って出来る限りの準備をすべきだからだ。レシュテンには、シグルド預かりとなったレシュテン駐留の帝国軍指揮官、元ラウシュリッツ王国軍総指揮官前ウォリック侯爵らがいて、歴戦をくぐり抜けてきた彼らに教えを乞うことができる。
また、アルベルト自身の希望で、彼もレシュテンで学ぶことになった。アルベルトには、現在帝国における身分も地位もない。帝国から見れば小国の、しかも伯爵家の出であるアルベルトは、帝国女帝となるグレイスの伴侶になれる可能性が低い。そのためアルベルトは、帝国内でグレイスにふさわしい地位を手に入れる道を選んだ。現在レシュテンに派遣されているヘリオットをはじめ、数々の名参謀たちに師事して軍略を学び、それから帝国軍に配属される予定だ。
グレイスは移動のための諸々の準備に時間がかかるので、アルベルトは一足先に単身レシュテンを目指すのだという。
早ければ、明日にでも。
「でさ? その話し合いの場に、何でオレらが呼び出されたわけ?」
国王夫妻の私室に呼び出され、話し合いの経緯を聞かされたデインは、釈然としない様子でシュエラに尋ねる。デインと一緒に呼び出されたカチュアは、それを聞いてすかさずたしなめた。
「デイン、姉上とはいえ、王妃陛下に対して何て口の利き方するの。──何でしょう?」
シュエラが口元を押さえて笑い出したのを見て、カチュアは眉をしかめて尋ねる。
「ご、ごめんなさい。カチュアがそういう注意をする日が来るなんて思ってもみなかったから」
笑いを収めたシュエラに訳知り顔で微笑まれ、カチュアは居心地悪く肩をすくめる。
「わたくしだって、いつまでも子どもでいるつもりはありません」
恐れを知らず、思っていたことを何でも口に出していたのは三年前、セドル付きの侍女になった時までのこと。
それまでのカチュアは、礼儀もあったものではなかった。後先考えずに自分が正しいと思ったことを口に出していたずらに敵を作り、シュエラや親友のフィーナなど、周囲の人たちを心配させた。そのことがやがて、シュエラ付きの侍女でいられなくなる事態を招くとも思わず。
あの時の悔恨は、三年経った今でもカチュアの胸に突き刺さる。
だからもう失敗したくない。例え、そんな臆病な自分が嘲笑われたり軽蔑されたりしたとしても。
十五歳で爵位を継いだセドルはそのまま王城に残り、派閥で最も力があり良き助言者でもあるブレイス侯爵の助けを得て公爵の務めを果たしていた。
セドルが公爵位を継いでからも侍女として付き添ってきたカチュアは、帝国宮殿にもブレイス侯爵とともに同行した。
帝国宮殿では、大広間に帝国の貴族たちが集まっていた。その多くがグレイスと同世代か、それより下だ。彼らはレナードの許可を得てこの国にやってきていることから、グレイスの味方になり得る者たちなのだろう。
しかし今は、彼らがグレイスを追い詰めていた。
「祖国に危機が迫っているというのに、どうして帰国が許されないのですか!?」
「今から我らが帰国したところで、余計な混乱を招くだけ。武力に秀でているわけでも、強力な軍を持つわけでもない我らに、出来ることは何もない。今は祖国に残った親兄弟の気を散らさぬよう、おとなしくこの地で続報を待つのが賢明」
「ですから、レシュテン駐留の帝国軍を国王陛下から返していただき、帰国して反乱を鎮圧すべきだと申し上げているのです!」
「我ら全力で皇女殿下をお支えいたします!」
動揺していても、さすがはレナードに“選ばれた”者たちと言うべきか。祖国を思う心映えだけは立派だ。だが、それに“実”がともなっていない。
グレイスは冷静にそのことを口にする。
「祖国が危機に瀕しているとはいえ、軍を率いて帰国すれば我らも反逆者。新皇帝が反乱軍鎮圧の命をわたくしに出してくれれば大義もできようが、伝聞によれば危機を認識すらしておらぬ様子。この分だと、わたくしが命令を求めても取り合ってはいただけぬ」
ただ軍を起こし反乱勢力を鎮圧していけばいいだけではない。兵を挙げるには正当な理由が必要で、前皇帝の孫娘であっても命令がないのに帝国内で戦いを起こせば、罪に問われることも考えられる。
そのことに気付かされたのだろう。多くの子女たちが沈痛な面持ちで口をつぐんだ。けれど自分の考えの浅さを認められなかったのか、一人の若者が食い下がろうとする。
「ですが、だからといって手をこまねいているわけには」
この言葉を、離れたところで様子を伺っていたセドルの声が遮る。
「グレイス皇女殿下のおっしゃる通りです」
話を遮られた若者は眉をひそめ、不審げに尋ねた。
「君は?」
「セドルといいます。現在ラダム公爵位にある者です」
場がざわめく。帝国の者であっても、ラウシュリッツ王国に滞在するからにはある程度ラウシュの事情に通じている。ラダム公爵にまつわる不穏な話も聞き及んでいるはずだ。質問が飛び出さないうちに、セドルは若者に話し始めた。
「こちらで不用意に行動を起こせば、帝国におられるあなたがたのご家族にいらぬ嫌疑がかかる危険があります。情報も不足していますから、今は続報を待つべきです。シグルド国王陛下は各所に通達して情報収集に当たらせています。集まった情報は、あなたがたにももたらされることでしょう」
セドルの話が終わると、ブレイス侯爵がすかさず解散を促す。
「まだ一報が届いたばかりで、続報の到着は明日以降になるだろう。今から気を張っていたのでは、早晩参ってしまう。本日はレナード皇帝陛下崩御と反乱勃発の報が同時に入りショックも大きいだろうから、早めに休むとよろしい」
わざとだったのかもしれない。レナードの死を再度告げられ、過半数の者たちが気まずげに表情を歪める。彼らは数人ずつグレイスにお悔やみの言葉を述べると、去りがたそうに幾度も立ち止りながら解散していった。
セドルの後ろに控えて帝国貴族の子女たちが広間から出ていくのを見送っていたカチュアは、ふと振り返りグレイスがいないことに気付いた。
「セドル様、ちょっと失礼いたします」
一言断って、部屋の隅に待機している女性使用人に近付く。
「あの、皇女殿下は……」
「皇女殿下は、気分がすぐれないとおっしゃって部屋に下がられました。ご足労いただきましたラダム公爵様、ブレイス侯爵様、そして皇女殿下のご学友であるカチュア様にお詫びと、おもてなしを言い遣っております」
「すみません。皇女殿下のご様子を伺いに行ってもいいでしょうか? 何だか心配で……」
二十歳中ごろと思われるその年若い使用人も、やはりグレイスのことが心配だったのだろう。「お一人になりたいとおっしゃっておいででしたが、ご学友のあなた様ならお会いくださるかもしれません」と言って、カチュアを広間の上階にあるグレイスの私室に案内する。
女性使用人が扉をノックして遠慮がちにカチュアのことを告げると、グレイスは一呼吸置いた後入室を許可した。グレイスの叱責も覚悟していたと思われる女性は、ほっとして表情を緩め、カチュアのために扉を開く。カチュアが中に入ると、背後で静かに閉じられた。
グレイスは窓辺に佇み、窓の外を眺めていた。その小さく頼りなげな背中に、カチュアは泣きたくなるような胸の痛みを覚える。
まだ十七歳なのだ。
帝国皇女としての教育は一通り受けていても、皇帝になるための教育を受けたわけではなく。天真爛漫に育ち、故郷から遠いこの国で恋に落ち、愛する人のためこの国に馴染もうとしていた。
その夢が崩れ去り、若くして突如国の重責を背負わされることになった彼女の心の内は、平民のカチュアには計り知れない。
かけられる言葉も見つからないまま近付いていくと、グレイスがゆっくりと振り返った。その虚ろな瞳に涙が滲む。カチュアは思わず足を止める。するとグレイスは投げやりな笑みを浮かべた。
「おじい様は残酷よ。わたくしにしあわせになれと言いながら、選びようのない選択肢を突き付けてくる」
「それってどういう……」
彼女らしからぬすさんだ様子に心配を募らせながら、おそるおそる尋ねる。
グレイスは泣きそうに表情を歪めて話し出した。
「帝国崩壊に関わったりせず、ここラウシュリッツ王国で静かに暮らしてもよいのだと。国王陛下に頼んであるから、わたくしはここにいてこの国に逃れてきた帝国民の住まいや仕事の世話をしながら終生争い事とは無縁な生活を送ってもよいと。ですが覚悟があるのなら、わたくしが正当な帝国の後継者であることを示す公式文書をレシュテン駐在の総督に預けてあるから、機を見て皇帝の名乗りを挙げるとよい、と」
途方もない話に、カチュアは一言も発せない。
グラデンヴィッツ帝国は、国土も民もラウシュの十倍以上という巨大な国だ。レナード皇帝は四十年以上の長きに渡ってその広大な国を治めてきて、その偉大な皇帝が、グレイスに覚悟があるのなら自分の後を継げと言う。
「覚悟も何も、わたくしが皇帝になるしかないではないか! 大叔父では反乱鎮圧どころか逆に制圧されかねない。この地に逃れてきた者らの家族は、反乱勢力に下れば処罰は免れぬじゃろうし、最悪極刑も有り得る。おじい様に忠誠を尽くしてくれた者を見殺しになど出来ない。わたくしを頼る者たちも、わたくしが責務を逃れることを許さない。選択肢などという下手な逃げ道を作らず、おじい様にはただ一言命じていただきたかった……!」
ああ、この子は……
カチュアはたまらなくなって、こぶしを握りうつむいて、懸命に耐えるグレイスを抱きしめる。
天真爛漫であろうが、恋にうつつを抜かしているように見えようが、グレイスはやはり帝国皇女なのだ。反乱に関わらない平和な暮らしに心惹かれながらも、グレイス自身が帝国のために自らが尽くすことを望んでいる。
カチュアの肩口に顔を埋めながら、グレイスは掠れた声を漏らした。
「何故おじい様は早く報せてくれなんだか。知っておれば、アルベルトを愛したりしなかったものを」
その時急に扉が開き、アルベルトの凛とした声が響いた。
「グレイス、君の僕への想いは、その程度のものだったの?」
グレイスは、カチュアの腕の中でぎくっと身を強張らせる。気まずい雰囲気を感じカチュアも動けないでいると、アルベルトはゆっくり近付いてきながら話を続けた。
「悪いとは思ったけれど、話を聞かせてもらった。グレイス、君はグラデンヴィッツ帝国の皇女だ。帝国に何かあれば、君も皇族の一員として何らかの責務を負うことになる可能性を考えなかった? だとしたら、考えが足りなかったね」
グレイスはこんなにも打ちひしがれているのに、追い打ちをかけるなんて。
咎めようとして振り返ったカチュアは、アルベルトの険しい表情を見て言葉を呑む。アルベルトはカチュアたちの脇に立ち、うつむいてアルベルトから目を逸らすグレイスをひたと見据えた。
「僕は多くのことを考えたよ。君の気持は一過性のものなのか、本気なのか。君と付き合うとなったら遊びでは済まされない。結婚は可能なのかどうか。結婚して君が伯爵夫人になったとしても、君は帝国皇女の責務から逃れられない可能性がある。そんな事態になった時でも、僕は君を“諦めずにいられるかどうか”」
最後の一言に、グレイスははっと顔を上げる。グレイスの見開かれた目から視線を逸らさず、アルベルトは続けた。
「所領での生活に馴染もうとしている姿を見て、君が本気だということはわかった。なら、障害が発生したらすぐ別れを選択できるような生半可な気持ちで付き合うわけにはいかない。君を傷つけることになるから。だから僕らの障害となるありとあらゆる可能性を想像してみた。僕にそれらを乗り越えようと決意できるだけの想いがあるかどうかも。そしてどんな障害があろうと君を手放したりしないと覚悟できたから、君の想いを受け入れた。──今回のことは、言い方が悪いけれど、僕にとって想像したうちの一つに過ぎない。だから、君は僕に遠慮することなく、君が進むべきと思う道を歩むといい。僕は何があろうと、全力で君についていくから」
「アルベルト……」
アルベルトに抱きしめられると、グレイスは胸元に顔を埋めて泣き出す。
すでに一歩後退っていたカチュアは、そろそろと歩いて扉に向かう。
音を立てずにそうっと扉を閉める直前、アルベルトがグレイスの髪をいとおしそうに撫でいるのが見えた。
翌日、グレイスとアルベルトが揃ってシグルドに面会を申し込んだ。
話し合った結果、グレイスは軍の指揮を学ぶため、レシュテンに赴き軍に入ることが決まった。皇帝の名乗りを上げたら、すぐに軍を率いて帝国に戻らなければならない。今は皇帝の名乗りを上げるのには時期尚早だが、だからこそ今の時間を使って出来る限りの準備をすべきだからだ。レシュテンには、シグルド預かりとなったレシュテン駐留の帝国軍指揮官、元ラウシュリッツ王国軍総指揮官前ウォリック侯爵らがいて、歴戦をくぐり抜けてきた彼らに教えを乞うことができる。
また、アルベルト自身の希望で、彼もレシュテンで学ぶことになった。アルベルトには、現在帝国における身分も地位もない。帝国から見れば小国の、しかも伯爵家の出であるアルベルトは、帝国女帝となるグレイスの伴侶になれる可能性が低い。そのためアルベルトは、帝国内でグレイスにふさわしい地位を手に入れる道を選んだ。現在レシュテンに派遣されているヘリオットをはじめ、数々の名参謀たちに師事して軍略を学び、それから帝国軍に配属される予定だ。
グレイスは移動のための諸々の準備に時間がかかるので、アルベルトは一足先に単身レシュテンを目指すのだという。
早ければ、明日にでも。
「でさ? その話し合いの場に、何でオレらが呼び出されたわけ?」
国王夫妻の私室に呼び出され、話し合いの経緯を聞かされたデインは、釈然としない様子でシュエラに尋ねる。デインと一緒に呼び出されたカチュアは、それを聞いてすかさずたしなめた。
「デイン、姉上とはいえ、王妃陛下に対して何て口の利き方するの。──何でしょう?」
シュエラが口元を押さえて笑い出したのを見て、カチュアは眉をしかめて尋ねる。
「ご、ごめんなさい。カチュアがそういう注意をする日が来るなんて思ってもみなかったから」
笑いを収めたシュエラに訳知り顔で微笑まれ、カチュアは居心地悪く肩をすくめる。
「わたくしだって、いつまでも子どもでいるつもりはありません」
恐れを知らず、思っていたことを何でも口に出していたのは三年前、セドル付きの侍女になった時までのこと。
それまでのカチュアは、礼儀もあったものではなかった。後先考えずに自分が正しいと思ったことを口に出していたずらに敵を作り、シュエラや親友のフィーナなど、周囲の人たちを心配させた。そのことがやがて、シュエラ付きの侍女でいられなくなる事態を招くとも思わず。
あの時の悔恨は、三年経った今でもカチュアの胸に突き刺さる。
だからもう失敗したくない。例え、そんな臆病な自分が嘲笑われたり軽蔑されたりしたとしても。
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「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
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