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第三話
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まだ、信じられない……。
あの日から数日後の休憩時間、一人こっそり北館前の庭園に出たカチュアは、ベンチに座ってため息をつく。
──本当の理由は君をデインから奪うことだったんだ。
あんな言われ方をしたら、疑いようがない。セドルはカチュアのことを、恋愛対象として好きなのだ。
告白されて迫られて、正直セドルのことを初めて怖いと思った。でも、だからといって嫌いになったわけじゃない。嫌いじゃないし今でも好きだから、「もう君しかいないんだ」と言われてしまっては、どうしたらいいのかわからなくなってしまう。
壁際まで追い詰めてきた強引なセドルと、今にも崩れ落ちてしまいそうな儚げなセドル。
どっちも同じセドルなのに、イメージが違いすぎて混乱する。
強引なセドルからは逃げ出したくなる。けれど儚げなセドルから手を離すことなんてできない。
うー……頭が煮えちゃいそう……。
何度目になるかわからない盛大なため息をついた時、小さく区切られたこの庭園に、ひとが入ってくる気配がする。何気なく顔を上げたカチュアは、相手の顔を見た瞬間、立ち上がってもう一方の入り口に走った。
相手もすかさず動いて、カチュアの腕を取る。
「離して!」
振り向きざま叫んだ瞬間、顔を肩口に押し付けられて、息をするのもままならなくなる。
「静かにして。これ以上カチュアを醜聞にさらしたくないんだ」
逃れようと暴れていたカチュアは、覚えていたより低いその声に、一瞬動きを止めた。
初めて会った時。
家族に会いたいと言ったシュエラの希望が叶えられ、家族と一緒に訪れた時は、まだカチュアより背が低かったように思う。
それが再会した時には、同じくらいかもうちょっと高いくらいで。
でもいつの間にか、立っているカチュアの顔を肩口に押し付けられるほどに。
──いつの間に、こんなに大きくなったの?
声も低く男らしくなって、まるで別人のよう。カチュアはにわかにパニックに陥って、一層激しく暴れ出した。
そんなカチュアを、デインはさらに強く抱きしめてくる。
「お願いだから逃げないでくれよ! ──それとも、オレには謝ることも許してくれないのか?」
泣きそうに震える懇願の声に、カチュアは我に返って抵抗を弱めた。ふさがれた口を何とか横を向いて解放する。
「わ、わかったから、離して」
カチュアの声に、デインも我に返ったのだろうか。びくっと体を震わせる。
「ごめん……」
殊勝に謝るけど、デインはなかなかカチュアを離そうとしない。頭の後ろと背中に回した手をそろそろと下に滑らせ、右手でカチュアの左腕を掴む。
その間、いやその後もカチュアはどきどきしっぱなしだった。
デインの手って、こんなに大きかった……?
こんなデイン、知らない。
彼は年下で、半年ほど前最後に会った時でもカチュアと同じくらいの背丈で。──半年でこんなに背丈の差が出るわけないから、もしかして気付かなかっただけ?
そして真新しくて青がまばゆい、近衛隊士の制服。この国の女性の憧れの的である、エリート中のエリートである証。彼らに縁がないと思っていたカチュアでも、この制服を見るとときめいてしまう。
前にデインが無試験で入隊した時はまだ見習いだったため、制服の支給はなかった。けれど試験に合格して入隊した隊士は、見習い期間を置かず一足飛びに正隊員になれる。
見違えてしまったのは、きっとこの制服のせい──。
そればかりではないことはわかり切っているけれど、本当の気持ちをごまかすためにそう自分に言い聞かせる。
カチュアはうつむいて顔を隠しつつ、わざと不機嫌そうに言った。
「……掴んでなくたって、逃げないわよ。ところであんた、何でこんなところにいるの? 近衛隊士になって忙しくなったんじゃないの?」
どう切り出そうかと迷っていたらしいデインは、ほっとしたように返事する。
「オレが近衛隊士になったの、姉ちゃんから聞いた? 今は休憩中で、カチュアが北館の裏口から一人で出てきたのを見かけたから、それで」
「それで後をつけてきたっていうの?」
軽蔑の目を向けると、デインはむっとして睨みつけてくる。
「仕方ないだろ? 他人の目につくところで会えば、またカチュアに迷惑がかかるかもしれないから……」
一応、気を遣ってくれたわけね……?
ふてくされてそっぽを向いたデインに、カチュアは思わず苦笑する。それを横目に見たデインは、空いている左手でズボンのポケットをさぐりだした。そして掴んでいたカチュアの左手を持ち上げると、取り出したものを手首に巻き付けてちょうちょ結びにする。
明るくて、色鮮やかな黄色のリボン。
「……しわくちゃなんだけど」
胸の奥から湧きあがってきた気持ちを隠すために、カチュアは憎まれ口を叩く。すると、デインはむっとして言い返してきた。
「仕方ないだろ? いつ渡せるチャンスがあるかわからないから、ずっとポケットにしまってたんだ。──好きな色だろ? カチュアの赤毛には似合わないかもしれないけど、こんな風に使うなら、似合うとか似合わないとか考えなくていいかなと思って」
何で知ったんだろう……?
デインにこの色が好きだなんて言った覚えはない。ましてや、この色が自分に似合わないことを残念に思ってるなんて。きっとシュエラから聞き出して、どういう風にしたらカチュアでも身につけられるか考えてくれたのだろう。
何だか、嬉しい……。
口元をついつい緩めながら手首をひねったりして眺めていると、不意に温かい重みが肩にかかる。
「なあ……許してくれるんなら、そろそろ結婚もOKしてくれよ」
その言葉に、カチュアは一気に夢見心地から冷めた。肩にかかったデインの腕を、とっさに振りほどく。
「あんたはまだそれを言うか!」
「ちょっ! カチュア、声が大きい」
デインは手のひらでまたカチュアの口をふさぐ。それをもぎ離して、今度は小声で叫んだ。
「ぜっっったいに嫌! あんたとなんか、結婚できるわけないでしょ!」
「そうやって決めつけるのは、トラウマのせいか?」
「え?」
カチュアがぎくっとして体を強張らせると、デインは気まずそうに目を逸らす。
「──セシールから聞いたんだ。貴族の男に侮辱されたことがあって、それでオレとの結婚も考えられないんじゃないかって」
あの話を、聞いた、の……?
一旦引いた血の気が、一気に上昇する。
カチュアは身をひるがえして逃げようとした。そんなカチュアを逃すまいとして、デインは再びカチュアを抱きしめる。
お腹と肩口を包む腕。
背中から抱きしめられ、デインの胸がぴったりと添ってくる感触に、動悸が激しくなってくる。
デインの腕から逃れようと暴れながらも、拒絶の声はか細く震えた。
「離して……嫌……っ」
「カチュア、落ち着いて。カチュアが恥じることじゃない。恥じるべきはカチュアをそんな風に扱った男のほうで、カチュアは何も」
泣きたくないのに、視界が涙で滲んでくる。
「あんたにはわからないのよ! 平民出身ってだけで、あたしは遊び女みたいに扱われたの! 後腐れなく遊べる、好きなだけ汚していいって思われてたのよ! ──そんな目で見られてたなんて思うと、ぞっとしたわ。貴族の男は皆あたしをそういう目で見てるって気付いてからは、貴族を結婚相手に考えることなんてできなくなったの。もう弄ばれたくなんかなかったのよ……!」
わかってほしい。でもわかってくれるわけがない。
案の定、デインは否定の言葉をぶつけてきた。
「オレは弄ぶつもりなんかない! ちゃんとカチュアと結婚するつもりで」
「ほら! やっぱりわかってない! 現実を見なさいよ! 下級貴族ならともかく、上級貴族のあんたが平民と結婚するなんて許されるわけないでしょ! ましてや、あんたは王妃陛下の弟なの!? 自分の立場をもっとよく理解しなさいよ!」
カチュアが後ろに蹴り上げた足が、デインのすねに当たる。痛みに耐えかねてデインがその場にしゃがみ込むと、拘束から解放されたカチュアは飛び退くようにしてデインから距離を置いた。
「セドル様はね、あんたより誠実なの。公爵家の人間が平民を正式な妻にできないことをわかっていて、その上で正式な妻を持たないから、あたしに内縁の妻になってほしいって言ってくださったのよ」
何故セドルの話をしてしまったのかわからない。
デインはそれを聞いて、すねの痛みを忘れたように勢いよく立ち上がった。
「おまえ、愛人になるつもりなのか!? おまえを日陰の身に置こうとしてる奴の、どこが誠実だって言うんだよ!?」
「できもしないことを繰り返し言うあんたより、よっぽどか誠実よ! だいたい、あんたはプロポーズするばっかで、理由も何にも言わないじゃない! 何であたしと結婚したいの!? あたしのどこをそんなに好きになったの!?」
「そんなこと聞かれたって、オレにもわからないよ! 気付いたら、いつの間にか好きになってたんだ!」
片足を庇いながら懸命に言い募るデインを、カチュアは鼻で笑う。
「あんたの“好き”は同情でしょ? あたしが嫌がらせされてるのを見て、かわいそうだからプロポーズなんて騒ぎを起こして、あたしを嫌がらせから守ろうとしただけよ。……今はもう、セドル様が守ってくれてるから、あんたが守る必要はないのよ」
ずっと思っていたことなのに、改めて口にすると胸が痛い。
何で胸が痛いの?
考えちゃダメ。
考えたらもっと辛い思いをすることになる──。
「同情なんかじゃない!」
ひとに聞かれないよう小さくではあったが、心を引き裂くような叫びがカチュアの物思いを打ち砕く。
気付けば、デインは再び触れ合いそうなそうなほどまで距離を詰めていた。
泣きそうな目が、カチュアを見下ろす。
「何でこんなにおまえのことが好きなのか、俺にもわかんないよ。ただ、好きで好きで、どうしようもないんだ──」
肩にデインの両手がかかって、デインの顔が傾き近付いてくる。
その瞬間、カチュアはデインを突き飛ばしていた。
「嫌っ!」
「カチュア!」
デインが呼び止める声を無視して、カチュアは一目散に逃げ出した。
──・──・──
オレ、今何しようとした……?
思ってもいなかった自分の行動に驚いて、デインはカチュアを追いかけることもできず、呆然と彼女が姿を消した生垣の合間を見つめ続ける。
脛の痛みがぶり返してきた。カチュアは相当強く蹴ったらしく、今もずきんずきんと余韻が残る。
痣になってるかもしれない。そのことが、カチュアの拒絶がどれだけ大きかったかを物語っている。
カチュアにも言わないでとセシールに口止めされてたのに、カチュアがあんまり頑なだから、ついつい口走ってしまった。
カチュアの抵抗ぶりと、泣きそうになりながら吐き出された彼女の苦悩。
他の男の話を持ちだされてかっとなって、気付けば、顔を傾けてカチュアの唇を求め──。
頭が沸騰し、足の痛みも相まって、デインはその場にうずくまった。
あんなこと、するつもりなかった。
逃げる直前のカチュアの怯えた表情に、デインは罪悪感を覚える。あんな顔をさせるつもりなかった。ただ、自分の気持ちをわかってもらえなくてイラついて、気持ちが溢れて止まらなくて。
──って浸ってる場合じゃないだろ!
頭を抱え、顔の火照りを冷ましながら考える。
内縁の妻にすると言われたほうが、よっぽどか誠実だなんてことあるか……?
カチュアの言葉を笑い飛ばすつもりはない。ただ、カチュアがそんな風に思ってしまうほど傷ついていることを知って、ショックを受けただけだ。
デインだって、平民と上級貴族との結婚が正式に認められないことはわかってる。
でも、カチュアこそわかっていない。“内縁の妻”なんて話にしなくても、他に結婚できる方法があるってことを。
顔から赤みが引く頃、すねの痛みを和らいで、デインはゆっくりと立ちあがる。
その瞳には、一つの決意が宿っていた。
あの日から数日後の休憩時間、一人こっそり北館前の庭園に出たカチュアは、ベンチに座ってため息をつく。
──本当の理由は君をデインから奪うことだったんだ。
あんな言われ方をしたら、疑いようがない。セドルはカチュアのことを、恋愛対象として好きなのだ。
告白されて迫られて、正直セドルのことを初めて怖いと思った。でも、だからといって嫌いになったわけじゃない。嫌いじゃないし今でも好きだから、「もう君しかいないんだ」と言われてしまっては、どうしたらいいのかわからなくなってしまう。
壁際まで追い詰めてきた強引なセドルと、今にも崩れ落ちてしまいそうな儚げなセドル。
どっちも同じセドルなのに、イメージが違いすぎて混乱する。
強引なセドルからは逃げ出したくなる。けれど儚げなセドルから手を離すことなんてできない。
うー……頭が煮えちゃいそう……。
何度目になるかわからない盛大なため息をついた時、小さく区切られたこの庭園に、ひとが入ってくる気配がする。何気なく顔を上げたカチュアは、相手の顔を見た瞬間、立ち上がってもう一方の入り口に走った。
相手もすかさず動いて、カチュアの腕を取る。
「離して!」
振り向きざま叫んだ瞬間、顔を肩口に押し付けられて、息をするのもままならなくなる。
「静かにして。これ以上カチュアを醜聞にさらしたくないんだ」
逃れようと暴れていたカチュアは、覚えていたより低いその声に、一瞬動きを止めた。
初めて会った時。
家族に会いたいと言ったシュエラの希望が叶えられ、家族と一緒に訪れた時は、まだカチュアより背が低かったように思う。
それが再会した時には、同じくらいかもうちょっと高いくらいで。
でもいつの間にか、立っているカチュアの顔を肩口に押し付けられるほどに。
──いつの間に、こんなに大きくなったの?
声も低く男らしくなって、まるで別人のよう。カチュアはにわかにパニックに陥って、一層激しく暴れ出した。
そんなカチュアを、デインはさらに強く抱きしめてくる。
「お願いだから逃げないでくれよ! ──それとも、オレには謝ることも許してくれないのか?」
泣きそうに震える懇願の声に、カチュアは我に返って抵抗を弱めた。ふさがれた口を何とか横を向いて解放する。
「わ、わかったから、離して」
カチュアの声に、デインも我に返ったのだろうか。びくっと体を震わせる。
「ごめん……」
殊勝に謝るけど、デインはなかなかカチュアを離そうとしない。頭の後ろと背中に回した手をそろそろと下に滑らせ、右手でカチュアの左腕を掴む。
その間、いやその後もカチュアはどきどきしっぱなしだった。
デインの手って、こんなに大きかった……?
こんなデイン、知らない。
彼は年下で、半年ほど前最後に会った時でもカチュアと同じくらいの背丈で。──半年でこんなに背丈の差が出るわけないから、もしかして気付かなかっただけ?
そして真新しくて青がまばゆい、近衛隊士の制服。この国の女性の憧れの的である、エリート中のエリートである証。彼らに縁がないと思っていたカチュアでも、この制服を見るとときめいてしまう。
前にデインが無試験で入隊した時はまだ見習いだったため、制服の支給はなかった。けれど試験に合格して入隊した隊士は、見習い期間を置かず一足飛びに正隊員になれる。
見違えてしまったのは、きっとこの制服のせい──。
そればかりではないことはわかり切っているけれど、本当の気持ちをごまかすためにそう自分に言い聞かせる。
カチュアはうつむいて顔を隠しつつ、わざと不機嫌そうに言った。
「……掴んでなくたって、逃げないわよ。ところであんた、何でこんなところにいるの? 近衛隊士になって忙しくなったんじゃないの?」
どう切り出そうかと迷っていたらしいデインは、ほっとしたように返事する。
「オレが近衛隊士になったの、姉ちゃんから聞いた? 今は休憩中で、カチュアが北館の裏口から一人で出てきたのを見かけたから、それで」
「それで後をつけてきたっていうの?」
軽蔑の目を向けると、デインはむっとして睨みつけてくる。
「仕方ないだろ? 他人の目につくところで会えば、またカチュアに迷惑がかかるかもしれないから……」
一応、気を遣ってくれたわけね……?
ふてくされてそっぽを向いたデインに、カチュアは思わず苦笑する。それを横目に見たデインは、空いている左手でズボンのポケットをさぐりだした。そして掴んでいたカチュアの左手を持ち上げると、取り出したものを手首に巻き付けてちょうちょ結びにする。
明るくて、色鮮やかな黄色のリボン。
「……しわくちゃなんだけど」
胸の奥から湧きあがってきた気持ちを隠すために、カチュアは憎まれ口を叩く。すると、デインはむっとして言い返してきた。
「仕方ないだろ? いつ渡せるチャンスがあるかわからないから、ずっとポケットにしまってたんだ。──好きな色だろ? カチュアの赤毛には似合わないかもしれないけど、こんな風に使うなら、似合うとか似合わないとか考えなくていいかなと思って」
何で知ったんだろう……?
デインにこの色が好きだなんて言った覚えはない。ましてや、この色が自分に似合わないことを残念に思ってるなんて。きっとシュエラから聞き出して、どういう風にしたらカチュアでも身につけられるか考えてくれたのだろう。
何だか、嬉しい……。
口元をついつい緩めながら手首をひねったりして眺めていると、不意に温かい重みが肩にかかる。
「なあ……許してくれるんなら、そろそろ結婚もOKしてくれよ」
その言葉に、カチュアは一気に夢見心地から冷めた。肩にかかったデインの腕を、とっさに振りほどく。
「あんたはまだそれを言うか!」
「ちょっ! カチュア、声が大きい」
デインは手のひらでまたカチュアの口をふさぐ。それをもぎ離して、今度は小声で叫んだ。
「ぜっっったいに嫌! あんたとなんか、結婚できるわけないでしょ!」
「そうやって決めつけるのは、トラウマのせいか?」
「え?」
カチュアがぎくっとして体を強張らせると、デインは気まずそうに目を逸らす。
「──セシールから聞いたんだ。貴族の男に侮辱されたことがあって、それでオレとの結婚も考えられないんじゃないかって」
あの話を、聞いた、の……?
一旦引いた血の気が、一気に上昇する。
カチュアは身をひるがえして逃げようとした。そんなカチュアを逃すまいとして、デインは再びカチュアを抱きしめる。
お腹と肩口を包む腕。
背中から抱きしめられ、デインの胸がぴったりと添ってくる感触に、動悸が激しくなってくる。
デインの腕から逃れようと暴れながらも、拒絶の声はか細く震えた。
「離して……嫌……っ」
「カチュア、落ち着いて。カチュアが恥じることじゃない。恥じるべきはカチュアをそんな風に扱った男のほうで、カチュアは何も」
泣きたくないのに、視界が涙で滲んでくる。
「あんたにはわからないのよ! 平民出身ってだけで、あたしは遊び女みたいに扱われたの! 後腐れなく遊べる、好きなだけ汚していいって思われてたのよ! ──そんな目で見られてたなんて思うと、ぞっとしたわ。貴族の男は皆あたしをそういう目で見てるって気付いてからは、貴族を結婚相手に考えることなんてできなくなったの。もう弄ばれたくなんかなかったのよ……!」
わかってほしい。でもわかってくれるわけがない。
案の定、デインは否定の言葉をぶつけてきた。
「オレは弄ぶつもりなんかない! ちゃんとカチュアと結婚するつもりで」
「ほら! やっぱりわかってない! 現実を見なさいよ! 下級貴族ならともかく、上級貴族のあんたが平民と結婚するなんて許されるわけないでしょ! ましてや、あんたは王妃陛下の弟なの!? 自分の立場をもっとよく理解しなさいよ!」
カチュアが後ろに蹴り上げた足が、デインのすねに当たる。痛みに耐えかねてデインがその場にしゃがみ込むと、拘束から解放されたカチュアは飛び退くようにしてデインから距離を置いた。
「セドル様はね、あんたより誠実なの。公爵家の人間が平民を正式な妻にできないことをわかっていて、その上で正式な妻を持たないから、あたしに内縁の妻になってほしいって言ってくださったのよ」
何故セドルの話をしてしまったのかわからない。
デインはそれを聞いて、すねの痛みを忘れたように勢いよく立ち上がった。
「おまえ、愛人になるつもりなのか!? おまえを日陰の身に置こうとしてる奴の、どこが誠実だって言うんだよ!?」
「できもしないことを繰り返し言うあんたより、よっぽどか誠実よ! だいたい、あんたはプロポーズするばっかで、理由も何にも言わないじゃない! 何であたしと結婚したいの!? あたしのどこをそんなに好きになったの!?」
「そんなこと聞かれたって、オレにもわからないよ! 気付いたら、いつの間にか好きになってたんだ!」
片足を庇いながら懸命に言い募るデインを、カチュアは鼻で笑う。
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ずっと思っていたことなのに、改めて口にすると胸が痛い。
何で胸が痛いの?
考えちゃダメ。
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「同情なんかじゃない!」
ひとに聞かれないよう小さくではあったが、心を引き裂くような叫びがカチュアの物思いを打ち砕く。
気付けば、デインは再び触れ合いそうなそうなほどまで距離を詰めていた。
泣きそうな目が、カチュアを見下ろす。
「何でこんなにおまえのことが好きなのか、俺にもわかんないよ。ただ、好きで好きで、どうしようもないんだ──」
肩にデインの両手がかかって、デインの顔が傾き近付いてくる。
その瞬間、カチュアはデインを突き飛ばしていた。
「嫌っ!」
「カチュア!」
デインが呼び止める声を無視して、カチュアは一目散に逃げ出した。
──・──・──
オレ、今何しようとした……?
思ってもいなかった自分の行動に驚いて、デインはカチュアを追いかけることもできず、呆然と彼女が姿を消した生垣の合間を見つめ続ける。
脛の痛みがぶり返してきた。カチュアは相当強く蹴ったらしく、今もずきんずきんと余韻が残る。
痣になってるかもしれない。そのことが、カチュアの拒絶がどれだけ大きかったかを物語っている。
カチュアにも言わないでとセシールに口止めされてたのに、カチュアがあんまり頑なだから、ついつい口走ってしまった。
カチュアの抵抗ぶりと、泣きそうになりながら吐き出された彼女の苦悩。
他の男の話を持ちだされてかっとなって、気付けば、顔を傾けてカチュアの唇を求め──。
頭が沸騰し、足の痛みも相まって、デインはその場にうずくまった。
あんなこと、するつもりなかった。
逃げる直前のカチュアの怯えた表情に、デインは罪悪感を覚える。あんな顔をさせるつもりなかった。ただ、自分の気持ちをわかってもらえなくてイラついて、気持ちが溢れて止まらなくて。
──って浸ってる場合じゃないだろ!
頭を抱え、顔の火照りを冷ましながら考える。
内縁の妻にすると言われたほうが、よっぽどか誠実だなんてことあるか……?
カチュアの言葉を笑い飛ばすつもりはない。ただ、カチュアがそんな風に思ってしまうほど傷ついていることを知って、ショックを受けただけだ。
デインだって、平民と上級貴族との結婚が正式に認められないことはわかってる。
でも、カチュアこそわかっていない。“内縁の妻”なんて話にしなくても、他に結婚できる方法があるってことを。
顔から赤みが引く頃、すねの痛みを和らいで、デインはゆっくりと立ちあがる。
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