糸ノ神様

春風駘蕩

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第2章 現世と常世の狭間

十一、いとまきまき いときりきり

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「……な、ん、だった、の……?」


 誰にともなく呟き、呆ける。
 助かった、と安堵する暇もない。強姦未遂やらお化けやら、人生に一度あるかないかという異常な事態に遭遇した直後。
 それを凌駕する光景に遭遇し、頭がまるで働かない。

 その時、傍で沈黙していたサラリーマンの男が、呻き声と共に身体を起こした。


「……!?」
「う…こ、ここは……!? そ、そうだ、僕は……僕は…!」


 咄嗟に警戒し、身構える深月の前で、男は苦悶の表情で辺りを見渡し、やがて顔面を蒼白にさせていく。
 がたがたと震えながら頭を抱え、深月を視界に入れると「うわぁぁ!」と悲鳴を上げた。


「あぁ…! あぁあぁぁぁあ…! ぼ、僕は……僕はなんて事を……ぃ、いや、違う! 違うんだ! こんな、こんな事をするつもりじゃ……ぼ、僕の意思じゃない、違うんだ!!」
「……なに、を」
「許してくれ……許し、許してくれ! 僕は、僕は違う! 僕じゃないんだ! 僕はそんな事してないんだ! 違う、違うんだ! あぁ……あぁあぁぁああぁあ…!!」


 男は深月を凝視したまま涙を流し、頭を振り回す。
 先程とは雰囲気がまるで異なる。鬼のような形相は消え去り、本気で怯えているのがわかる。

 深月は困惑し、男を見つめ返す以外にない。襲われたばかりだというのに、何故だかこの男に怒る気になれなかった。

 どうしたらいいのか、どうなっているのか。
 恐怖は消え去り、代わりに思考を埋め尽くす混乱で動けなくなった深月の前で……唐突に男の声が途切れた。


「はい、うるさいから大人しくしててくださいねー」


 深月の前で、少年が男の頭部を掴み、何か……糸のような半透明の物を引き出した。

 しゅるしゅると頭蓋の中から抜け出したそれを、少年は左手で手繰り寄せ、輪っかにして纏めて。
 丸めた糸を右手の人差し指と中指で挟んだかと思うと…………ちょきん。

 丸めた糸を切り、それを懐に入れると、少年は残った糸を結んで繋ぎ、男の頭の中に押し戻す。

 どさっ、と男は倒れ込み……今度は白目を剥かず、安らかな表情で寝息を立て始めた。


「はーもー、どうして死人の残滓ってのは生者にちょっかいかけずにいられないんだろう。僕の苦労も考えて欲しいね……まぁ、言っても無駄だけど」


 深い溜息をつき、少年は肩を回しながらぼやく。
 虚ろな目で夜空を見上げ、億劫そうに関節を鳴らし……そして何事もなかったかのように歩き出した。

 深月と擦れ違いながら、一瞥もくれる事なく。


「……! え……ま、まって、待って!」
「やだ」


 放置された深月は、少し経ってから我に返り、慌てて少年を……同級生の御堂環を呼び止める。

 明らかに異様な、非科学的な光景を見せつけられたというのに、一切気を遣われる事なくほったらかしにされるなどあり得ない。

 しかし環は歩みを止めず……くるくると左手の人差し指を回して、声を発した。


「……君もさっさと帰んなよ。次は君が連中の被害に遭うかもだし、僕にこれ以上手間をかけさせないでよね」
「ちょ、ちょっと待って。こ、このおじさんはど、どう……!?」
「そのうち勝手に起きて勝手に帰るよ……記憶は切っておいたから、困惑はするだろうけど普通に帰るでしょ。じゃ、そういう事で」


 ひらひらと手を振る環の背を凝視して、深月は途方に暮れる。
 襲った者と襲われた者を一緒に置き去りにするなど、無神経にも程がある。再度気絶しているとはいえ、性犯罪未遂者を押し付けられては堪らない。

 何より、下着まで露わにされかけた格好で家に帰れるものか……確実に騒ぎになる。


「帰れって……こんな格好で帰れるわけーーーあれ?」


 制服を見せつけ、抗議の声を上げかけた深月だったが……自分の格好を見下ろして、目を丸くする。

 制服は無傷だった。釦も外れておらず、しわくちゃにもなっていない。それどころか新品のように整っている。
 わたわたと全身を見回すも、解れ一つ見当たらず、本当に何事もなかったかのようだ。

 またも呆然としていた深月は、やがて「あっ…」と声を漏らして視線を上げる。

 環の姿は、もう何処にも見当たらなかった。
 後ろ姿すらもう見つけられない。完全に夜の闇の中に消え去ってしまった。


「……結局、何だったのよ……さっきの」


 もやもやと疑問で頭がいっぱいになったまま、深月は独り立ち尽くす。

 豹変した男、それに取り憑く黒い靄、謎の同級生、歩く肉塊……そして糸と鋏の音。
 わけがわからなさ過ぎて、頭痛がしてくる。

 しかし不意に、深月は背後から……倒れたサラリーマンから呻き声が漏れたのを聞き、その場から急ぎ立ち去る。

 数々の疑問を抱えたまま……漠然とした不安に苛まれたまま、母のいる店へと懸命に走るのだった。



 ーーー脳裏に焼き付いて離れない、少年の姿を思い出しながら。
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