上 下
2 / 4

1. 覚醒

しおりを挟む
 ゆっくりと、深く、深く沈んでいく感覚がする。
 一切の光も音もない、ただ自分がそこにある事だけがわかる奇妙な世界で、〝それ〟は目覚めた。

 瞼を開くものの、視界は暗いまま。墨を何度も塗り重ねたような黒の世界が広がるばかり。
 そんな世界を凝視したそれは、何度も自身の正気を確かめるように目を瞬かせた。

(……何だ、これは?)

 最初に抱いた感想はそれで、続いて自身の違和感に気付く。

 腕は、ある。正確には、腕に該当する器官の感覚がある。
 しかし、足や腰といった部分の感覚が酷く曖昧になっている。さらには、以前にはなかった知らない器官が増えているような気がする。

(尻に何か生えて……いや、尻かこれ? 足もうまく動かない……ん? 増えている?)

 違和感のある個所に集中し、動かそうとしてみるものの、なかなかいうことを聞かない。
 まるで自分の肉体が一度ぐちゃぐちゃに溶かされて、全く異なる形状の器に固め直されたような、そんな気持ち悪さだ。

(ああ、いかん……そうこうしているうちにどんどん沈んでいく。……沈むということは、ここは水中か? いやしかし、全く息苦しくないな。ん? ならばこの空間は、何だ……?)

 考えても考えても、自分の身体は未だに上手く動かせず、視界に映る景色も変化がない。
 状況を理解するにも、得られる情報が全くない。

 バタバタと手足を動かしているうちに、今の身体の感覚に精神が順応し始めたようだ。
 視界の方は相変わらずだが、腕の感覚が戻ってきている。

(……動けた、いや、泳げたな。やはりここは水中か? 全く見えんが、前に進んでいるというのは何となくわかってきた。……おお、意識すると結構早く動けるな)

 徐々に徐々に、それは自分の肉体をものにし始める。痺れた手足が徐々に治ってくるのと似た感覚だ。

(さて……動けたはいいが、全く状況は理解できないままだな。なぜ俺は、こんな場所にいる? ここは何だ? さっきまで何が起こっていた?)

 それは黒の空間を泳ぎながら、悶々と考え込む。

 自分が目覚めるまでに何があったのか、何もかも綺麗さっぱり消失してしまっている。
 俗にいう記憶喪失というものであろうか。ならば、そのような大事になぜ至ったのか。

 その時、それはある重要な事に気がついた。
 なぜこうなったのか以前に―――自分とは、何なのだろうか。

(……俺は、誰だ?)

 ぴたっ、とそれの動きが止まる。
 自身の中にぽっかりとあいた、あまりに大きすぎる穴を自覚し、愕然と硬直していた。

(俺は……何だ? 何という名前だ? 何という生物だ? 何処に住んでいた? 何をする存在だ? 何故ここにいる?)

 疑問が次々に浮かび、積み重なっていく。
 わからない、わからない。
 募るだけの疑問符を解き明かせず、それはまた黒の世界の奥底に沈み始める。

(まぁ、いいか)

 だがしばらくして、それはまた何事も無かったかのように泳ぎだしていた。
 まったく見えない答え、ならば考えるだけ無駄だ。自分の事だが、それほど興味はない。

(別に何も困らんし、何かが変わるとも思えん。取り敢えずは、動いてみる他にやる事もなさそうだな……)

 せっかくこの肉体の扱いにも慣れてきたのだし。
 ここが何なのか、自分が何なのかなど微塵も気にせず、気の向くままに前を目指して泳ぐ。

 しかしそのうち、動きが鈍くなってきた……身体に力が入らない。
 腹の辺りがしくしくと痛み始めた。

(ああ……何にしても腹が減ってきたな。随分と泳いできたものだが、呼吸は必要なくとも食事は必要なのか? よくわからん身体だな、これは……)

 空腹を訴え、悲しく哭く自分の腹。

 次なる目標―――食事の為の獲物探しを始めるが、やはり辺りは一面黒の無の世界。他の生物など見当たらない。
 泳いでも泳いでも何も見つからず、腹の危険信号は強くなるばかりだ。

 もう、自分以外に食う物もないのか。頭も働かず、奇妙な事を考え始めた頃合だった。

 何かいる。
 頭上に、黒の世界の遥か上に何かがいて、移動している。

(……これは、気配か? 俺にこんな事ができたとは……)

 まったくもって初めての感覚で困惑しつつも、すぐさま行動に映る。
 腹の奥は今も哭き叫び、早く獲物をよこせと促している。本能のまま懸命に体を動かし、獲物に向かって一直線に浮上する。

 泳ぐほどに、この黒の世界における境界を感じる。やはりここは水中のような場所であったのだ。
 だが、そんな事実よりも、この衝動を叶える方が大事だ。

(いただきます)

 境界が目の前に迫った瞬間、大きく口を開き、無数の鋭い牙を剥き出しにする。

 ごばっ!

 自分の身体が新たな世界に飛び出すのと同時に、口の中に獲物が―――何故か角の生えた兎が入り込んだことを確認した。

「ピキィィッ―――」

 真下から襲い掛かられた角兎は悲鳴をあげ、勢いよく閉じた口に強制的に黙らされる。
 口の中でバキゴキボギンッと鈍い音が鳴るのを感じながら、黒の世界の外側を目に映す。

 外は、夜だった。
 見たことがないくらいに大きな月が三つ、鬱蒼と茂る木々が広大な森を構成している。
 森の向こう側には高くそびえたつ山が連なっており、まるで巨大な壁が続いているようだ

 ようやく視界に映った黒以外の色彩を横目に、飛び出したときと同じく勢いよく、影の中へと落ちていく。
 我に返った時には、視界はまた黒一色に変わっていた。

(今のは……影? 俺は今まで……影の中を泳いでいたのか!?)

 まさか、そんな馬鹿な、と。
 異常な現象に動揺しながら、口の中の獲物を一度呑み込み、再び境界まで浮上する。

 ゆっくりと、今度は慎重に上がってみれば、目に映るのは先程と同じ光景。
 顔だけを浮上させ、真下を見れば、やはり月光が生み出す影の中に、自分の半身が浸かっている。

(まるで魚だ……だが、魚が影の中に入り込めるか。それにこの鰭……魚類というより爬虫類の様だな)

 自分の腕と思っていた身体の一部を外に持ち上げ、まじまじと見つめる。

 黒の世界で、何かを掻き分け前進させていたその部分、それはびっしりと鋭い鱗に覆われた蜥蜴の腕だった。
 小指が変形し、腕に生えた棘との間に皮膜が存在しているのを見るに、この部分で泳いでいたのだろう。

 さらにもう少し頑張って影の中を泳ぎ、上まで浮くと、より一層蜥蜴に似た上半身が見えた。

(……どうやら、俺は普通の生物ではなくなっているようだな)

 道理で違和感があるわけだ。思わず空を仰ぐ。

 一体どこの世界に、影に入り込める生物が存在するものか。
 そんなもの、空想上の生物でもいたかどうか。

(まぁ、いいか)

 考えるのも億劫になるほどに、再び自分の腹が飢えを訴えてきて、すぐに影の中に潜り込む。

 自分が何者なのか、そんなことはもうどうでもいい。考えられるほどの知識も……余裕もない。

(俺が何者であろうとどうでも良い……とにかく今は、腹が減った)

 何か、重要なものが自分の中から抜け落ちていることを自覚しながら―――再び、黒の世界を泳ぎ続けた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

セクスカリバーをヌキました!

ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。 国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。 ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……

僕の秘密を知った自称勇者が聖剣を寄越せと言ってきたので渡してみた

黒木メイ
ファンタジー
世界に一人しかいないと言われている『勇者』。 その『勇者』は今、ワグナー王国にいるらしい。 曖昧なのには理由があった。 『勇者』だと思わしき少年、レンが頑なに「僕は勇者じゃない」と言っているからだ。 どんなに周りが勇者だと持て囃してもレンは認めようとしない。 ※小説家になろうにも随時転載中。 レンはただ、ある目的のついでに人々を助けただけだと言う。 それでも皆はレンが勇者だと思っていた。 突如日本という国から彼らが転移してくるまでは。 はたして、レンは本当に勇者ではないのか……。 ざまぁあり・友情あり・謎ありな作品です。 ※小説家になろう、カクヨム、ネオページにも掲載。

特殊部隊の俺が転生すると、目の前で絶世の美人母娘が犯されそうで助けたら、とんでもないヤンデレ貴族だった

なるとし
ファンタジー
 鷹取晴翔(たかとりはると)は陸上自衛隊のとある特殊部隊に所属している。だが、ある日、訓練の途中、不慮の事故に遭い、異世界に転生することとなる。  特殊部隊で使っていた武器や防具などを召喚できる特殊能力を謎の存在から授かり、目を開けたら、絶世の美女とも呼ばれる母娘が男たちによって犯されそうになっていた。  武装状態の鷹取晴翔は、持ち前の優秀な身体能力と武器を使い、その母娘と敷地にいる使用人たちを救う。  だけど、その母と娘二人は、    とおおおおんでもないヤンデレだった…… 第3回次世代ファンタジーカップに出すために一部を修正して投稿したものです。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

元剣聖のスケルトンが追放された最弱美少女テイマーのテイムモンスターになって成り上がる

ゆる弥
ファンタジー
転生した体はなんと骨だった。 モンスターに転生してしまった俺は、たまたま助けたテイマーにテイムされる。 実は前世が剣聖の俺。 剣を持てば最強だ。 最弱テイマーにテイムされた最強のスケルトンとの成り上がり物語。

日本列島、時震により転移す!

黄昏人
ファンタジー
2023年(現在)、日本列島が後に時震と呼ばれる現象により、500年以上の時を超え1492年(過去)の世界に転移した。移転したのは本州、四国、九州とその周辺の島々であり、現在の日本は過去の時代に飛ばされ、過去の日本は現在の世界に飛ばされた。飛ばされた現在の日本はその文明を支え、国民を食わせるためには早急に莫大な資源と食料が必要である。過去の日本は現在の世界を意識できないが、取り残された北海道と沖縄は国富の大部分を失い、戦国日本を抱え途方にくれる。人々は、政府は何を思いどうふるまうのか。

処理中です...