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人類を継ぐ者

40.損得勘定の毒

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 翌日、マーカス達はマウスの際に使ったルーチンを援用して、シアンのミルク飲みプロセスを立ち上げた。

 これから実際のテストである。
 俺は消毒した哺乳瓶でミルクを作り、人肌にまで冷ました。

「ほーらシアン、ミルクだぞ~」

 口の所にまで持っていくと上手く吸い付いた……が、

 ケホッケホッ!

 あー、気管に入ってしまったようだ。

「咳は自動で出るのにな~。なぜ飲むのは自動にならんのだ」

 すかさず隣に座っていたクリスが癒しの技でシアンをフォローする。
 モニターで見ていたマーカスが

「タイミング カエタ モウイチド!」 と、言ってくるので再度チャレンジ。
 
 息をゆっくりと確認し、落ち着いたのを見計らって再度哺乳瓶をあてがう。
 
 チュウ……

 お、上手く飲み込んだ……かな?
 あれ? 止まっちゃった。
 
 監視カメラに向かって叫ぶ

「Hey! Marcus! The process is stopped! (止まっちゃったよ!)」
「チョット マッテネ!」

 エンジニアチームに何か指示している。
 
 しばらくしてシアンが動き出した。
 
 チュウ、チュウ、チュウ、チュウ……

 ケホッケホッ!

 あー、また気管に入ってしまった。
 クリスは素早く癒しの技を使う。
 
「Oh! チョットマッテ!」

 マーカスがまた何かキーボードをカタカタやっている。
 
 後ろで心配そうに見ている由香ちゃんが

「見ていられないわ……」と、目に涙を浮かべている。
 
 ママを自認する由香ちゃんとしては、自分の子供がいじられているのが耐えられないのだろう。
 おれは由香ちゃんの方を向いて、

「大丈夫、こういういくつかのハードルさえ超えてしまえば、シアンは人類最高性能の天使になるんだから」
「天使?」
「シアンはまさに神の使いだと俺は感じているんだよね」
「天使になんてならなくていい! 元気なかわいい子になってくれるだけでいいの……。目もくりぬかれちゃって……。シアンちゃん……」

 そう言ってうつむいた。
 由香ちゃんはすっかりママの視点になってしまっている。困ったな。
 
 美奈ちゃんがちょっと意地悪な顔で俺に耳打ちする。

「今日はハグしないの?」

 また余計なことを言ってくる。

「そう言う雰囲気じゃないよ」

 俺はそうひそひそ声で答えたが、由香ちゃんには聞こえてしまったようだ。

「もう! 二人ともあっち行って!」

 由香ちゃんは俺を押しのけて俺の席を奪った。
 そして……シアンを愛おしそうに見つめ、シアンの口元に垂れたミルクをガーゼで丁寧に拭いた。
 
 席を取られた俺は、部屋の隅で美奈ちゃんに小声で言った。

「余計な事言うから!」

 美奈ちゃんは言い返してくるのかと思ったら、なぜかしんみりとして、

「私、ショックだった……」

「え?」

 一体どういう事だ?

「ショック受けたの……」

「え? 何に?」

 俺がキョトンとしてると美奈ちゃんはキッと俺を睨み、頬をピシッとはたいて

「バカ!」

 そう言って部屋から出て行ってしまった。
 俺はポカンとしてはたかれた頬をさすりながら、何があったのか理解できずにいた。
 
 女難の連鎖が止まらない。
 俺はAIを開発してるだけなのに、なぜ女の子達に怒られ続けるのか?
 あまりの理不尽さにクラクラする。
 

           ◇


 ミルク飲み学習の方はその後何回かトライをして、ようやくシアンはコツを掴んだようだった。

 チュウ、チュウ、チュウ、チュウ、チュウ、チュウ、

 順調に全部飲み干す事に成功した。

 パチパチパチ、オフィスに拍手が響く。

 俺はシアンの点滴を外すと縦に抱きかかえ、背中をポンポンと叩いた。

 あれ? ゲップ出ないね?

「誠さん、私に貸して」

 由香ちゃんがシアンを受け取ると優しく抱きしめ、そして背中をポンポンと叩いた。
 
 ケプ
 
「はい、出まちたね~。いい子でちゅね~」

 由香ちゃんは目を瞑って幸せに包まれながら、満面の笑みでシアンをなでた。

「あー」

 シアンも心なしか嬉しそうである。
 
 こういう一つ一つの交流が、AIとしてのシアンの学習にとってとても貴重なのだ。
 生身の身体を持たない限りこの感覚は絶対に理解できない。

 人類の後継者となるためにはこういうスキンシップの一つ一つを体感し、人として真っ当な発想の基盤を持たないとならない。
 そう言う意味で由香ちゃんは、とても大切な役割を果たしていると言えるだろう。


          ◇


 そう言えば怒って出て行った美奈ちゃんは、どこへ行ってしまったのか?

 メゾネットの上からオフィスを眺めたが……いない。

 うーん、どうしたものか。
 スマホを取り出し、メッセンジャーで

「いまどこ?」

 と、送ってみたけど既読スルー。

 うーん、そもそも美奈ちゃんはマーカスと仲良くしてたわけで、俺にちょっかい出してくる事自体なんか変なんだよね。

 仕方ないので寒い中、駅前のカフェをいくつか回って探してみた――――


 テーブル席で突っ伏して寝ている美奈ちゃんを3店目で発見。

 俺はカフェアメリカーノを持って、美奈ちゃんの隣の席に座った。
 珈琲を啜りながら美奈ちゃんを観察してみる。

 両手を組んで突っ伏して寝る美奈ちゃんは、呼吸に合わせて少しずつ揺れている。
 わがままな女神さまも、こうやっていればただの可愛い女の子なんだよな……。

「姫様、ディナーの時間ですよ」
 俺は耳元でささやく。

 美奈ちゃんは顔を向こう側に動かして黙っている。

「なんか美味しいもの食べに行こうよ」

 美奈ちゃんはボソッと言う。
「要らない」

「僕、おなかすいちゃったな」
「……勝手に食べればいいじゃん」
「姫と食べた方が美味しいんだな」
「先輩と食べた方が美味しいわよ」
「どうしたの? 最近変だよ」
「ただの生理だから放っておいて」

 なかなか手ごわい。

「あ、あそこのイタリアンいかない? スパークリングワインが美味しかった所」
「……」

「あそこの薄焼きのピザ、美味いんだよなぁ」
「……」

 お、手ごたえ有りかな?

「あ、そうだ、今度会社のWebサイト作るじゃない? そのデザインで美奈ちゃんの意見聞きたいんだよね」
「……」

「アドバイスしてくれると助かるんだけどな。ピザでも食べながらどう?」
「私と二人で行ったらマズいんじゃないの?」
「あー、じゃ、クリス呼ぼうか?」

 俺がそう言うと、美奈ちゃんはバッと勢いよく立ち上がると荷物をまとめて、
「バカ! 知らない!」

 そう言って怒って出て行ってしまった。
 取り残される俺。

 周りの客のチラチラっという視線が刺さる。痛い……。

 ほとんど成功していたのに、最後の答えに失敗してしまった。

 いや、しかし、二人でディナーはなぁ。

 美奈ちゃんは桁外れの美人だし、女性との縁の薄い人生を送ってきた、ただのしがないエンジニアの俺では気後れしてしまう。

 仮に口説けたとして、二人で上手くやって行く自信もないし。

 そもそも単に口説かせたいだけなんじゃないか疑惑もあるしなぁ。
 
 とは言え、あんなに目立つ美人を怒らせたまま、こんな夜の街で一人で歩かせたら面倒な事になる。追いかけなきゃ。

 急いで店を出ると美奈ちゃんは信号待ちをしていた。

 俺は耳元で
「今晩は姫様の言う事なんでも聞くから機嫌直して」

「じゃぁ今すぐ死んで」

 とんでもない事をサラッというなぁ。

「いやいや、それは……」
「なんでも聞くんじゃないの?」
「……。」

 美奈ちゃんは青になった信号を渡り始めた。

 俺も仕方なくついていく。

「どこ行くの?」
「……。」

 仕方ない、ついていくしかない……。

 しばらく歩いて運河に架かる橋に出た。

 美奈ちゃんはそこで立ち止まると、欄干に手をかけて夜景を眺めた。
 運河沿いの建物の照明が綺麗だ。

 俺は美奈ちゃんの機嫌をうかがう……
 でも、その瞳に映る夜景につい惹き込まれていた。

「正解を教えてあげるわ」

 美奈ちゃんは冷たい目で俺に言い放つ。

「正解?」

「誠さんはね、損得勘定ばかりだからダメなの」
「え?」

「私の狙いは何かとか、付き合う事になったら面倒くさそうだとか、周りからどう見られるかとかそんな事ばかり計算してる」

「ん? でも社会を生きていく上ではそうしないとマズいだろ?」
「全然マズくないわ。私、そんな事しないけど困った事なんてないわ」

 え……。俺は固まった。

 確かに美奈ちゃんは、やりたいことを自由にやるばかりであるな。

「仕事は全部損得勘定よ、でもプライベートに損得勘定持ち込むから心が死ぬの」
「え? 心が死ぬ?」
「そうよ、誠さんは知らず知らずのうちに自分の心を殺してるの」
「いや、常識的に生きるというのは……」
「それよ、何が常識よ、バカじゃないの? 常識なんて仕事でやってりゃいいのよ。人生に常識持ち込まないで」

 俺は言葉を失った。そんなこと考えたも事なかった。

 思えば損しないように、波風立てないように、そればかり考えて生きて来てしまっていた。

 もちろん、一定の処世術と言うのは必要だろう、でも処世術だけでは生きてる意味がなくなってしまう。

 二十歳の女子大生にそんなこと教えられちゃうとか俺は何をやってたのか……。
 自分を恥じた。

「まぁいいわ、誠さんはまだ若いんだからこれから修正して行けばいいわ」

 かなり年下の女の子に若いとフォローされる俺、情けない。

「なんだかすごい大切な事……教わった気がするな」
「ふふっ……」

 美奈ちゃんは得意げにほほ笑んだ。

 その時風が強く吹いて街路樹がざわめいた。

「止まってると寒いわね」

 美奈ちゃんは襟元を閉じる。
 俺はそっと後ろから美奈ちゃんにハグしようとした。

 手を回すと、美奈ちゃんは俺の手をはたいた。

「ダーメ、誠さんはハグする権利をもう失ったの」

 俺ははたかれた手をゆっくりとさすりながら、

「でもいつかまた復活する事もあるんだろ?」

 美奈ちゃんは、
「ん~、それはどうかな?」

 いたずらな笑顔でこっちを見る。

 美奈ちゃんの笑顔がいつに増して眩しく感じる。
 しばらく俺は、美奈ちゃんの琥珀色の瞳にキラキラ反射する夜景に惹き込まれていた。

 また強い風が吹き、美奈ちゃんの髪の毛が大きく泳いだ。

 寒い、いつまでもこんな寒い所にはいられない。

「家まで送るよ」
 俺はそう言って右手を出した。

「……。ありがとう、でも今は一人になりたいの……」

 そう言って美奈ちゃんは俺にそっと近づくと、頬に軽くキスをした。

「また明日!」

 美奈ちゃんは軽やかに夜の街の中に駆け出していった。
 ネオンと雑踏の中に静かに溶けていく美奈ちゃん。
 俺はキスの跡を指先で軽くなぞり、いつまでも美奈ちゃんが消えた方向を見ていた。
 
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