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第三章 戦術と姫が織りなす殲滅戦

3-3 英傑無双

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 王国軍本営の後方左側面、本隊からは離れた位置で、第一師団第六二小隊のニクラ先任軍曹は遠眼鏡を片手に弛緩しきった表情で大あくびをしていた。磨きを入れていない金属鎧姿で、足元には兜と長槍が転がっている。
 この経験豊富な壮年下士官には、小隊総勢二十名に与えられた現地点での監視任務が、貴族の新任小隊長に用意された安全かつ退屈な任務であろうと認識されていた。
 その認識の正しさを証明するかのように、開戦から今まで「異常なし」と宝珠で代わり映えのない定時連絡を数回入れたのが小隊の作戦行動の全てだ。
 先程の報告時に感じた本営担当官の様子では、どうやら状況は我軍優勢のようだ。
 幾度となく主戦場で轟いている大音響、そして立ち上る土煙はこの地点からでも確認できた。そのうち特に大きな数回などは振動まで伝わってきた。あれが味方の為せる技とは、なんとも頼もしい。
 遠からずこの戦いは勝利で終わるだろうと思いつつ、ニクラは立番でこわばった体をほぐしにかかる。鎧の可動域が許す範囲で気ままにストレッチする背後から声がかかった。

「軍曹、兵たちが見ている。もっと緊張感を」
「体がこわばってちゃ、いざという時に戦えませんぜ。オラスマー少尉殿」
 年齢半分ほどの若い新任上官に、敬意のかけらを階級分だけのせた視線を向けると「お前らも体ほぐしとけよ」と兵に向かって声をかけた。
 士官学校を優秀な成績で卒業した貴族の士官でも、小隊に混ざって前線に出ればただのお荷物扱いで、実務は結局先任軍曹が仕切るのだ。小隊長は言われるままに許可を出すにすぎない。
 それが分かっているからそれ以上口を出してこないオラスマー少尉は、ニクラから見るとなかなか優秀で良い上官だ。まぁ残りの任期中、せいぜい鍛えてやるとしますか。そんな事を考えていると、一人の兵が声を上げた。

「軍曹、何か向かってきますっ!」
 内心慌てつつも悠然と、部下の指差す方を向いたニクラの目に、今まさに襲歩ギャロップを開始した敵騎兵の姿が写った。先頭をきる魔族の血まみれの戦斧が怪しく光を反射する。
「お客さんだ。騎兵突撃、来るぞっ!」
 ベテラン兵士がその言葉に反応し、密集方陣を組もうと動き出す。
「少尉殿、本営に緊急――」
「とっとっとととおぉつげきぃぃぃぃ!」
 完全に裏返った若い声が馬蹄の響きに混ざり軍曹の言葉をかき消した。あっけにとられる小隊各位を置き去りに、長剣を抜刀したオラスマー少尉が駆け出し、それにつられて経験の浅い三人の兵が、長槍を抱えて不格好に続く。
 敬意の最後の一片も捨て去って、軍曹は上官を怒鳴りつける。
「バッカ野郎っ! 報告が先だっ! 密集方陣だっ!」
 方陣は、槍兵が横隊整列と縦隊行軍の次に叩き込まれる基本かつ重要な陣形だ。固まって槍衾を作らなければ、騎兵には対抗しようがない。
 オラスマー少尉の耳にその叫びが届いたかは謎のままだ。
「動転してトチ狂ったかっ!」
 兜と長槍を拾い上げたニクラ軍曹が顔をあげると、ちょうど魔族の将の戦斧が剣と鎧ごと少尉の体を粉砕したところだった。
 つられて飛び出した三人も、またたくまに槍と軍馬の蹄に蹴散らされる。
「小隊方陣っ! 急げっ!」
 命令に従い、第六二小隊の面々は驚異的な速度で配置についた。さすがは精鋭第一師団所属のベテランだと思わせる動きで槍の穂先を揃って向ける。
 彼らの不幸は既に欠員が出ていたことで、それを修正する時間を与えるほど対面する敵はのろまではなかった。槍衾に空いた穴から、ヴァノヴとその配下が黒い塊となって飛び込んだ。
 ある者は戦斧で、ある者は槍で、またある者は戦馬の蹄で、瞬く間に斃される。
 特に魔族の将の振るう戦斧は凄まじく、一振りごとに鎧が、人体が、引き裂かれ、弾け跳ぶ。
「全員逃げろっ! 命令だっ!」
 退却を叫びつつも自身は踏みとどまり槍を振り回すニクサは、数瞬の間を稼いだあと魔戦斧に捉えられ血煙の中に沈んだ。
 指揮官を失った小隊員は混乱と恐慌の中潰走し、追いつかれ、背後から次々刺し貫かれた。


 一兵も損じることなく敵小隊を全滅させたヴァノヴは、指笛を吹いてこの場での戦闘終結を告げる。
 速歩トロットで集まってくる部下たちを満足気に眺めると、しばしの下馬休憩を許可した。
 緊張感からひととき開放されたニビ騎兵たちは、両足裏に感じる久しぶりの安定感を堪能し、ある者はサドルの水袋を取り出し愛馬と分かち合い、ある者は腰を下ろして疲労した体を大地に預けた。
「まだ鞍は外すなよ、もう一戦ある。白髪首取りに行かんとな」
 威勢のいい冗談に、部下が笑い声と士気を上げる。

「その前に、さらに一戦追加してもらおうか」
 声とともに人が空から降りてきた。体にまとった風の渦で草を揺らして着地した男は、武器といえば腰の短剣一本の、ろくな武装もしていない平服姿。そして首に手を回して女がしがみついていた。
「おい、こら、いきなりこんなところに降りるな。私は武器も持ってないんだぞ?」
 文句を言いながら男の背から離れた黒髪の女は、体の線が浮くほどぴっちりとした黒い上着を着ている。ビスチェに収まった胸は、痩身に似合わず意外なほど豊かで、開けた上着の胸元を押しやって自己主張をしていた。大きくスリットの入ったタイトなロングスカートから覗く白い脚と相まって、戦場で高ぶった男たちの本能を扇情的に誘う。

 そばにいた若いニビ族が生唾を飲み込み喉を鳴らし、上ずった声で軽口を叩く。
「一戦と言わず、満足するまで相手してやるよっ!」
 そして腰に吊るした片刃の曲刀を抜き、男の無防備な体に切りかかると、一瞬にして空に飛ぶ。
 魔法のように男の手に渡った曲刀。
 手ぶらの若い兵が落下してきて、したたかに体を打ちつけ動かなくなる。
 男が手にした曲刀を軽く素振りをし、それで生じた衝撃波が草原をえぐるのを、ヴァノヴは愕然と見やった。

「このまま本営を襲撃するつもりだったろうが、残念だったな」
 アレクは曲刀を担ぐようにして、峰でポンポンと肩を叩く。
「させねぇよ」
 ニヤリと笑う背後に闘気が逆上り、周囲の空気がほのかに揺らぐ。訓練を施された勇敢な軍馬が不安げに目や耳を動かす様を見ずとも、騎兵たちには眼の前の男が只者でないことが知れた。
「か、各員っ! 戦闘用意っ!」
 ヴァノヴは背中に冷たい汗が流れるのを感じながらも声を張り上げる。
 慌てて抜刀を試みる魔族たちの前で、勇者の体がにわかに消える。傍らにいたリューリの黒い髪と服が、巻き起こった風になぶられはためく。人馬の間を突風が吹き抜け、その行く手にアレクが現れ、無造作に右手の得物を血振りする。風の通り道には、六名の物言わぬ骸が転がっていた。
 残る九名の兵とひとりの将は、周囲を見渡し一瞬にして絶命し転がる仲間を見て怯み、ある者は恐慌状態に陥った。

 何やら叫びながらリューリに斬りかかる魔族を見て、再びアレクの姿が消える。振り下ろされる曲刀から身をかわしながら冷静に反撃の機会をうかがう涼し気な眼差しの前で、敵兵の姿が吹き飛ばされ、視界から消えた。
「お前も少しは働いたらどうだ?」
 魔族兵の背を蹴り飛ばした足をおろしながら勇者が笑う。
「武器がない」
 淡々と答えるところに手中の曲刀を放り投げ、白い指が空中の柄を掴む前にまた姿がかき消える。
 切れ長の目が敵を探す先で、殴られた魔族が体を変に曲げて吹き飛ぶ。他の敵を求めて首を振った先で、別の魔族が投げ飛ばされ空高々と消えていく。
「敵もいない」
 ポツリつぶやく間に、蹴り飛ばされたひとりがボールのように地面を転がっていく。
「何だ、私の仕事なんて無いじゃないか」
 不満げな言葉を吐きながらも、顔は満足気に微笑んでいた。常よりも柔らかく、優しげな視線がアレクを追う。その先でまたひとり、もうひとり。素手で難なく重装兵を倒していく勇者の姿。
「戦ってる時は十倍格好いいって、マスターも言ってたな」
 懐かしく思い返しつぶやきながら、その意味するとこに気づいて僅かに頬が染まる。この感覚は記憶に残っていた。

 いまだ新鮮さを覚える感情に戸惑うリューリの前で、ついに九人目の魔族兵が打ち倒され、視界に立つのはアレクと魔族の将だけになった。
「見事な戦いぶりだ、戦士よ。我が名はヴァノヴ、この軍を統べる者」
 戦斧を風車のように頭上で振り回し、体の正面で構え直す。
 アレクは隙だらけの姿を敬意を込めて見逃し、少し考えてから名乗りを上げた。
「……アレクだ、魔王を殺した男って言えばわかるか?」
 それを聞いた赤い瞳が見開かれ、恐怖と狂気と歓喜に満ちる。
「ならばお前を倒して、俺が新たな王にふさわしいと皆に証明してみせようっ!」
「いいぜ、相手してやる。男なら負けるとわかっていても背を向けられない時があるよな」
 二人の男がどちらからとなく笑みを浮かべ、目線で意志を通じ合う。
 戦斧が振りかぶられ、大柄の体が似合わぬ速度で間合いを詰める。
 驚異的なスピードで振り下ろされる巨大な魔刃。
 ヴァノヴ生涯最高かも知れない神速の一撃を、さらに上回り間合いに踏み込み、左手をあげて降ってくる柄を受けると、右掌を胸に叩き込んだ。
 胸甲をくぼませたその一撃は胸骨をも粉砕し、魔族の勇士は血反吐を吐きながら弾けるように後方彼方へ飛ばされる。
 草原に叩きつけられ幾度も弾んでようやく静止した体はついに動くことはなく、戦闘の終結を静かに告げた。
 勇者が左手に残った戦斧を無造作に放り投げると、ゆっくりと弧を描いて飛んで、物言わぬ持ち主の傍らの大地に墓標のように突き立った。


「終わったな」
 ようやく気持ちを落ち着かせたリューリが近づき、いつもの声で話しかける。
「シルヴァでも勝てたろうが、万が一もあるからな。駅馬車は帰りも客を乗せる、って言葉もあるし」
「何だそれは?」
「来たついでに他の用事を済ますって事さ」
 怪訝そうな顔に微笑を向けて教えてやる。
「なるほどな……ところでそうなると、どっちが行きでどっちが帰りなのだ?」
「そんなことはお前……御者に聞いてこいよ」
「あいにくと知り合いがいない」
「あぁ、俺達は使わんからな。……帰るとするか」
 答えながら振り向き、両手を広げ、茶化すように声をかけた。
「抱いてやろうか?」
「だ、抱くって!? な、なんだいきなり、こんなところで!」
「来る時は『抱いてくれても構わんぞ?』とか言ってたくせに、変なやつだな」
「あ、あれはそういう意味ではないっ! 私が言ったのは塔の時と同じように横向きにだな……」
 リューリの脳裏には、先ほど感情と一緒に思い出した過日の光景が浮かんでいた。アレクの寝室でキスをされて、抱きしめられて……。思い出してしまうと妙に意識してしまい、視線が気になり、頬が熱く、鼓動が早くなる。
 恥ずかしげにうつむく姿に、どうやらようやく気づいたらしいとアレクは察し、ひとり身悶えする様を物珍しげに眺め続けた。


 敵将ヴァノヴの死とニビ族軍の壊滅をもって、小規模なものも含めると史上幾度目かもわからない「血泥平原の戦い」は終わりを告げる。今回も大地は名前の由来にふさわしく流血に染まり、両軍兵士に、軍馬の蹄に、堀り返された。
 王国側の死者はルッカの防衛戦からの総計で千あまり。対するニビ族は五千以上の骸を残し、散り散りとなって逃走した。
 史上稀なる大勝利を知らす先触れに、王国の民は沸き返り、将軍と姫勇者と軍を称える声がこだまする。

 王都の狂騒の中、アレクと背中にしがみついたリューリはひっそりと帰還した。
 戦いがもたらした魂の高揚は一時的なもので、勇者は再び抑揚のない日常へと戻り、それを見つめるリューリは落胆の色を隠せなかった。

 ふたりに遅れること数日、遠征軍は戦後処理を終え、いまだ熱狂冷めやらぬ王都ヘルンに凱旋した。
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