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09 年甲斐もなく
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どうしてこんな時に、こんな所で……。
こんな姿、選りによってコウさんに見られるなんて。
そうは思っても、一度流れ出た物は急には止まってはくれない。どんなに取り繕っても、おそらく泣いているとわかられてしまう。
それでもせめてひどい顔だけはなんとかしたいと思い、ハンカチで隠した。
気持ち悪さはまだ抜けなかった。
「大丈夫ですか?」
「すみません。近くを通りかかって、ちょっと気持ちが悪くなったので。でも、きっとすぐに落ち着きます。そうしたら帰りますから、お気になさらず……」
「……気にしますよ。遅い時間にこんな所で女性がひとりでいたら危ない」
「若くないから大丈夫です」
「それ、関係ないですよ。マンションのエントランスにソファがあるので、そこで休んでいって下さい。オレ、ここの住人なんで」
耳元に温かい息がかかる。近い!?
心臓が跳ねて、身体がゾクリとした。
これだから元ホストは!
距離感が違う。
馴れ馴れしい、タチが悪い。
「け、結構です!」
コウさんが、まさか〈サン・ルイ〉の上のマンションに住んでいたなんて!?
もしかして、矢坂さんたちも?
「……また強がり……。ひとりで歩けますか?」
どうしようかためらっていると、手つきは優しいのに、力強く腕を支えられ立たせられた。
「あなたが落ち着いたら、送ります」
コウさんの話し方は、私を安心させようとしているらしく、とても穏やかだった。
「こっちです」
コウさんはやんわりと私の手を握ると、〈サン・ルイ〉の裏手の方に歩いて行く。今どきのマンションの玄関はホテルのロビー並に豪華だったりするのは知っている。
ガラス張りの自動ドアの向こう側に、幾つか並んでいる大小のソファが見えた。
コウさんは手にした鍵でオートロックの自動ドアをあけた。
結局コウさんの手を振りほどけなかった。それは私の手を包む大きな手の温もりが嫌じゃなかったから。そして、私の様子を確かめながら、控えめに何度も握りなおしてくるとか……。その優しさに一時、縋りたくなったから。
さすがに格調高い立地に建つマンションだった。床材も大理石に見える。ソファのあるエントランスは白い塗り壁のような凹凸のある豪華な壁紙だった。程よく視線を遮る高さのある観葉植物に、壁に掛けてあるモダンなデザイン画、すべてにおいて高級感が漂っている。
仕事柄、ついチェックしてしまったが、とうとう黒い革張りのソファの前まで来てしまった。
ふと我に返り、ここに座るのはどうかと、足を踏ん張る。
「あの……」
逞しさのある腕で、私をエスコートするみたいに肩を包まれると、抵抗する気が失せた。
コウさんに促されて、私はあっさりと三人がけ程の広いソファへ誘い込まれた。思ったより体が沈んで驚く。コウさんは子どもひとり分くらいの間隔をあけて、隣に座って来た。
「ここのソファは、柔らかすぎるんですよね。寛ぐ以上に人をダメにする。少し横になりますか? うちからタオルケットを持って来ますよ」
「いいえ……」
気を張ってそう言ったが、体は鉛のように重かった。またさっきのことが嫌でも頭に浮かんで来て、落ち込んだ。
「葉摘さん、体を楽にして。……安心してください。〈サン・ルイ〉のお客さまに何かしたりしませんから。姉にどやされますしね。それに、弱っている女性に手を出すほど、狡くないです。……でも、あなたが慰めて欲しいなら、その通りにしますよ。今からオレの部屋に来ます?」
コウさんの訳のわからない言い草に、思わず胡乱な目を向けてしまった。
安心してくださいって言っておきながら、でも私が望むなら慰めるって、まさか……? ……あ、ビジネス? ビジネスで抱けるの?
こんなぼろ泣きしている惨めな四十女でもビジネスなら抱いてもらえるんだと心で冷笑している一方で、誰でもいいんだとさらに泣けてきた。
やっぱり、コウさんが私に親切なのは、悩み相談の依頼客だからなんだ。
「すみません、冗談ですよ。あなたには、少しオレのことも気にしてもらわないと」
「?」
「……どう足掻いても、ヒロさんはあなたのものにはならない」
「!?」
まさか、コウさんは私の矢坂さんに対する邪な気持ちに勘づいていた?
隠せていると思っていたのに……。
「大丈夫ですよ。ヒロさんと姉は店のことで頭が一杯だから、気がついてはいないと思います」
体からすべての気力が失われて行くのがわかった。ただ、次から次へと滴り落ちてくる冷たい涙をハンカチで拭った。
こんなにも人前でぐずぐずと泣いたことなどない。物心ついてからは親の前でさえ、心配をかけたくなくて泣かなくなった。誰もきっとそうだと思う。
その時だった。
私のバッグの中のスマホが振動した。
誰?
「ちょっと、失礼します」
私はスマホの画面に出ている名前を見て慄いた。
内野さん……!?
なんで? まだ何か私に用があるの?
嫌だ、嫌だ、これ以上、もう私に構わないで!!
悔しさや怒りやらで体が震えて来た。
「もしかして、そっち……? 葉摘さん、何かトラブル? 付きまとわれてるとか?」
「いいえ、そういう訳では、ないんですけど。さっきまで、飲みに、付き合わされていて……、会社を、辞めた人です。もう、嫌で……。会いたくない……! 縁を切っても……いい!」
息が苦しくなって、うまく言葉にするのが、難しかった。
「彼氏さん?」
「全然、違いますっ!! 奥さんとお子さんもいる方で、そういうんじゃないです……」
涙を浮かべながらだと、色々誤解されそうだ。
私のスマホは、まだしつこく唸り続けていた。
「大丈夫ですよ、葉摘さん。わかりましたから。貸して、スマホ」
コウさんが、私の方に手を出して来た。
「え? なんですか?」
「オレが話しますよ。男が出た方が良い時もあります。悪い様にはしません」
コウさんの誠実そうな態度に、私はスマホを渡してしまっていた。
コウさんが画面の通話を押すと、彼が話す前に内野さんのいやらしい声が私にも聞こえてきた。
『葉摘ちゃん? お楽しみ中だった?』
な、なんて人!
さっきのこと謝るために電話してきたのかと思ったら、そうじゃなかった。私の内野さんへの信頼は、完全に崩壊した。
「いくら酔っているからって、その発言は葉摘さんに対して失礼じゃないですか?」
コウさん……。
彼の怒りを含んだ、でも冷静な声が胸に響く。
『え? だ、誰だ!?』
「葉摘さんの友人です。彼女の了承を得て電話に出ています。あなたが彼女の知り合いなら、言葉を選んだ方が良いですよ。今みたいな軽はずみな言葉で、彼女を侮辱するのは止めて下さい」
『そ、んな……。ち、違……』
「詳しい話は彼女からは聞いていませんが、今後そちらから葉摘さんへの連絡は一切ご遠慮していただきたい。私が不愉快ですから。それではこれで失礼します」
コウさんは内野さんに有無を言わさずそう畳み掛けると、電話を切った。
「ちょっとキツかったかなあ? でも、葉摘さんに、あんな失礼な電話してくる男なんて許せねぇし……」
コウさんは不機嫌な顔でそう言いながら、スマホを私に返してくれた。
コウさんが私なんかのために、怒ってくれて嬉しかった。ほとんど私は他人のようなものなのに。良い人なんだ、きっと。彼に甘えて、頼ってしまった。
「あ、ありがとうございました。こんなことさせてしまって、すみません。でも、すっきりしました」
「それなら良かった。男の存在を匂わせたから、普通はあっちからは連絡はそうそう寄越さないと思うよ。それでもまだしつこくされたら、オレが話をつけてあげますよ」
「ありがとうございます。本当に助かりました」
私はコウさんの方に体を向けて、頭を下げた。彼を見直している自分に気がついた。
え?
コウさんが、なぜだか私の頭を撫でている。そういえば、前も頭をポンポンされたような。頭は下げたまま彼の方を見上げると、柔和な笑顔を返された。
それが恥ずかしくてすぐに目線を逸らした。
私、コウさんより五歳も年上なのに、まさか年下だと思われてる?
そうだ、たかがキスされたくらいで泣きべそかいて、落ち込んでる四十歳なんてきっといない。
せっかく引っ込んだ涙だったのに、コウさんに頭を撫でられてると、また別の想いが涙に便乗して滲む。
頭を撫でられて素直に喜んで涙ぐむなんて、馬鹿じゃない!?
……四十だとわかったら、絶対に引かれる。
「葉摘さんの髪、綺麗ですね。撫で心地が良い。で、オレとのお悩み相談デートはいつにします?」
か、髪……。で、デート!? って……なに?
少し座っている距離を詰めて来たコウさんが私を見つめつつ、頭上から手を滑らせ私の髪を梳いた。
こ、この元ホストは、やっぱり油断ならない!
そう思いながら、年甲斐もなく頬が熱くなった。
こんな姿、選りによってコウさんに見られるなんて。
そうは思っても、一度流れ出た物は急には止まってはくれない。どんなに取り繕っても、おそらく泣いているとわかられてしまう。
それでもせめてひどい顔だけはなんとかしたいと思い、ハンカチで隠した。
気持ち悪さはまだ抜けなかった。
「大丈夫ですか?」
「すみません。近くを通りかかって、ちょっと気持ちが悪くなったので。でも、きっとすぐに落ち着きます。そうしたら帰りますから、お気になさらず……」
「……気にしますよ。遅い時間にこんな所で女性がひとりでいたら危ない」
「若くないから大丈夫です」
「それ、関係ないですよ。マンションのエントランスにソファがあるので、そこで休んでいって下さい。オレ、ここの住人なんで」
耳元に温かい息がかかる。近い!?
心臓が跳ねて、身体がゾクリとした。
これだから元ホストは!
距離感が違う。
馴れ馴れしい、タチが悪い。
「け、結構です!」
コウさんが、まさか〈サン・ルイ〉の上のマンションに住んでいたなんて!?
もしかして、矢坂さんたちも?
「……また強がり……。ひとりで歩けますか?」
どうしようかためらっていると、手つきは優しいのに、力強く腕を支えられ立たせられた。
「あなたが落ち着いたら、送ります」
コウさんの話し方は、私を安心させようとしているらしく、とても穏やかだった。
「こっちです」
コウさんはやんわりと私の手を握ると、〈サン・ルイ〉の裏手の方に歩いて行く。今どきのマンションの玄関はホテルのロビー並に豪華だったりするのは知っている。
ガラス張りの自動ドアの向こう側に、幾つか並んでいる大小のソファが見えた。
コウさんは手にした鍵でオートロックの自動ドアをあけた。
結局コウさんの手を振りほどけなかった。それは私の手を包む大きな手の温もりが嫌じゃなかったから。そして、私の様子を確かめながら、控えめに何度も握りなおしてくるとか……。その優しさに一時、縋りたくなったから。
さすがに格調高い立地に建つマンションだった。床材も大理石に見える。ソファのあるエントランスは白い塗り壁のような凹凸のある豪華な壁紙だった。程よく視線を遮る高さのある観葉植物に、壁に掛けてあるモダンなデザイン画、すべてにおいて高級感が漂っている。
仕事柄、ついチェックしてしまったが、とうとう黒い革張りのソファの前まで来てしまった。
ふと我に返り、ここに座るのはどうかと、足を踏ん張る。
「あの……」
逞しさのある腕で、私をエスコートするみたいに肩を包まれると、抵抗する気が失せた。
コウさんに促されて、私はあっさりと三人がけ程の広いソファへ誘い込まれた。思ったより体が沈んで驚く。コウさんは子どもひとり分くらいの間隔をあけて、隣に座って来た。
「ここのソファは、柔らかすぎるんですよね。寛ぐ以上に人をダメにする。少し横になりますか? うちからタオルケットを持って来ますよ」
「いいえ……」
気を張ってそう言ったが、体は鉛のように重かった。またさっきのことが嫌でも頭に浮かんで来て、落ち込んだ。
「葉摘さん、体を楽にして。……安心してください。〈サン・ルイ〉のお客さまに何かしたりしませんから。姉にどやされますしね。それに、弱っている女性に手を出すほど、狡くないです。……でも、あなたが慰めて欲しいなら、その通りにしますよ。今からオレの部屋に来ます?」
コウさんの訳のわからない言い草に、思わず胡乱な目を向けてしまった。
安心してくださいって言っておきながら、でも私が望むなら慰めるって、まさか……? ……あ、ビジネス? ビジネスで抱けるの?
こんなぼろ泣きしている惨めな四十女でもビジネスなら抱いてもらえるんだと心で冷笑している一方で、誰でもいいんだとさらに泣けてきた。
やっぱり、コウさんが私に親切なのは、悩み相談の依頼客だからなんだ。
「すみません、冗談ですよ。あなたには、少しオレのことも気にしてもらわないと」
「?」
「……どう足掻いても、ヒロさんはあなたのものにはならない」
「!?」
まさか、コウさんは私の矢坂さんに対する邪な気持ちに勘づいていた?
隠せていると思っていたのに……。
「大丈夫ですよ。ヒロさんと姉は店のことで頭が一杯だから、気がついてはいないと思います」
体からすべての気力が失われて行くのがわかった。ただ、次から次へと滴り落ちてくる冷たい涙をハンカチで拭った。
こんなにも人前でぐずぐずと泣いたことなどない。物心ついてからは親の前でさえ、心配をかけたくなくて泣かなくなった。誰もきっとそうだと思う。
その時だった。
私のバッグの中のスマホが振動した。
誰?
「ちょっと、失礼します」
私はスマホの画面に出ている名前を見て慄いた。
内野さん……!?
なんで? まだ何か私に用があるの?
嫌だ、嫌だ、これ以上、もう私に構わないで!!
悔しさや怒りやらで体が震えて来た。
「もしかして、そっち……? 葉摘さん、何かトラブル? 付きまとわれてるとか?」
「いいえ、そういう訳では、ないんですけど。さっきまで、飲みに、付き合わされていて……、会社を、辞めた人です。もう、嫌で……。会いたくない……! 縁を切っても……いい!」
息が苦しくなって、うまく言葉にするのが、難しかった。
「彼氏さん?」
「全然、違いますっ!! 奥さんとお子さんもいる方で、そういうんじゃないです……」
涙を浮かべながらだと、色々誤解されそうだ。
私のスマホは、まだしつこく唸り続けていた。
「大丈夫ですよ、葉摘さん。わかりましたから。貸して、スマホ」
コウさんが、私の方に手を出して来た。
「え? なんですか?」
「オレが話しますよ。男が出た方が良い時もあります。悪い様にはしません」
コウさんの誠実そうな態度に、私はスマホを渡してしまっていた。
コウさんが画面の通話を押すと、彼が話す前に内野さんのいやらしい声が私にも聞こえてきた。
『葉摘ちゃん? お楽しみ中だった?』
な、なんて人!
さっきのこと謝るために電話してきたのかと思ったら、そうじゃなかった。私の内野さんへの信頼は、完全に崩壊した。
「いくら酔っているからって、その発言は葉摘さんに対して失礼じゃないですか?」
コウさん……。
彼の怒りを含んだ、でも冷静な声が胸に響く。
『え? だ、誰だ!?』
「葉摘さんの友人です。彼女の了承を得て電話に出ています。あなたが彼女の知り合いなら、言葉を選んだ方が良いですよ。今みたいな軽はずみな言葉で、彼女を侮辱するのは止めて下さい」
『そ、んな……。ち、違……』
「詳しい話は彼女からは聞いていませんが、今後そちらから葉摘さんへの連絡は一切ご遠慮していただきたい。私が不愉快ですから。それではこれで失礼します」
コウさんは内野さんに有無を言わさずそう畳み掛けると、電話を切った。
「ちょっとキツかったかなあ? でも、葉摘さんに、あんな失礼な電話してくる男なんて許せねぇし……」
コウさんは不機嫌な顔でそう言いながら、スマホを私に返してくれた。
コウさんが私なんかのために、怒ってくれて嬉しかった。ほとんど私は他人のようなものなのに。良い人なんだ、きっと。彼に甘えて、頼ってしまった。
「あ、ありがとうございました。こんなことさせてしまって、すみません。でも、すっきりしました」
「それなら良かった。男の存在を匂わせたから、普通はあっちからは連絡はそうそう寄越さないと思うよ。それでもまだしつこくされたら、オレが話をつけてあげますよ」
「ありがとうございます。本当に助かりました」
私はコウさんの方に体を向けて、頭を下げた。彼を見直している自分に気がついた。
え?
コウさんが、なぜだか私の頭を撫でている。そういえば、前も頭をポンポンされたような。頭は下げたまま彼の方を見上げると、柔和な笑顔を返された。
それが恥ずかしくてすぐに目線を逸らした。
私、コウさんより五歳も年上なのに、まさか年下だと思われてる?
そうだ、たかがキスされたくらいで泣きべそかいて、落ち込んでる四十歳なんてきっといない。
せっかく引っ込んだ涙だったのに、コウさんに頭を撫でられてると、また別の想いが涙に便乗して滲む。
頭を撫でられて素直に喜んで涙ぐむなんて、馬鹿じゃない!?
……四十だとわかったら、絶対に引かれる。
「葉摘さんの髪、綺麗ですね。撫で心地が良い。で、オレとのお悩み相談デートはいつにします?」
か、髪……。で、デート!? って……なに?
少し座っている距離を詰めて来たコウさんが私を見つめつつ、頭上から手を滑らせ私の髪を梳いた。
こ、この元ホストは、やっぱり油断ならない!
そう思いながら、年甲斐もなく頬が熱くなった。
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