淋しいあなたに〜1%の確率で出会った彼に愛されています〜

名木雪乃

文字の大きさ
上 下
6 / 30

06 小さな棘

しおりを挟む
『では、また。さよなら、葉摘さん』

 コウさんに名前で呼ばれたことに、家に帰った後で気がついて胸にほろ苦い想いが広がった。
 女性との距離をさり気なく縮めてくるテクニック、さすが元ホスト……。さらに胸が苦しくなって、考えるのを止めた。
 
 膝と腰は思っていたより、痛みを引きずらずに済んだ。これが、もっと年齢を重ねれば、回復に時間がかかるんだと思うと嫌になる。

 〈サン・ルイ〉にはもう行かないと決意したのに、私のバッグの中にはあの色鉛筆画の展示会の案内葉書とコウさんの名刺が入ったまま。展示の期間もとっくに過ぎてしまっていた。
 コウさんに送って貰って、複雑な思いで家に帰ったその日に、案内葉書はポストに届いていた。スポットライトの中で見た矢坂さんの優しい笑顔は、今でも目に焼き付いている。コウさんの話では、人気ホストだった矢坂さん。その素敵な笑顔も洗練された仕草も原点はそこにあるのかも。
 矢坂さんはカフェのマスターで、私はただの常連客だということを、何度も自分に言い聞かせてきた。親しくなったとしても客以上の存在になることはない、ただの通りすがりのようなもの。
 だとしたら、彼の事情や過去や諸々の関係性を、勝手に気にしている自分はおかしい。
 本当は、よく考えたら自分が、私自身の落ち着かない気持ちが行きづらくしている。コウさんとのやりとりが蘇る。

『……お悩みがあれば……お聞きしますよ』

 淋しいわけじゃないって、答えた私。
 笑える。
 カフェに通い詰める悩み多き年増の淋しい女。矢坂さんと瑠伊さんからも、そう思われていたに違いない。自分が逆の立場だって絶対にそう思う。どんなにカフェが癒しとか、楽しみとか言ったって、いつしか私にとっては矢坂さんに会いに行く口実になり、ひとりの淋しさを紛らわす場所になっていた。
 これは悩み? ひとりが淋しいのが悩み? そんなの悩みに入らない。淋しさだって、気の持ちよう。ひとりだって楽しく過ごしている人だっている。もっと切実に日々悩んで苦しんでいる人だって。自分は恵まれている。衣食住に困っているわけでもないし、友達だっている。会社はブラックでもない、パワハラ、セクハラされてるわけでもない。それなのに、この胸の鬱屈した感じはなんだろう。
 気にしないようにしていたのに、コウさんに少しつつかれただけで渦を巻く嫌な感情。

 つらい。

 矢坂さんの笑顔の前に、強引に黒縁眼鏡が割り込んで来る。煩わしい彼の義弟。

『辛いときは、頼るものですよ。あなた強がりすぎ』

 車から降りる際に腕をしっかり支えられた時のこと、頭をポンとされた時のこと、出窓の席でノートパソコンに向かって座る猫背のシルエットが頭の中に浮かんで来て仕方がない。

 私、なんだかおかしい。


◇◇◇

 
 私は地元の小さい工務店の営業事務をしている。
 その日は、営業担当者に出先から工事担当へ数種類の資料をコピーして渡して欲しいと頼まれたので、その旨をメモした付箋紙とそれらを持って別フロアの工事部を訪れた。工事部の社員は、現場に出払っていることが多く、午後の今の時間帯にいるのは工事事務の今泉いまいずみさんくらいかと思っていたが、意外と人が残っている。
 今泉さんは、大卒で入社二年目の若い女の子。素直で明るく可愛い子で、毎日ではないけれどランチを一緒に食べたり、たまに夜ご飯に誘って奢ってあげたり、年齢差はあるけれど仲良くやっているつもりだった。

「あ、小宮山さん、お疲れさまです!」

 声も細く可憐で、ストレートのさらさらセミロングヘアに、天使の輪ができている。

「お疲れさま。阿部主任は現場?」
「はい。夕方お戻りですが、ご用事ですか?」
「資料を届けに来ただけだから、大丈夫」

 目指す工事担当は不在、ボードを確認すると五時帰社と書いてあった。資料だから、机に置いておけばいい。クリップなどで留めて来るのを忘れたので、借りようと思った。

「今泉さん、資料を留めるのを貸してくれる?」
「これで良いですか?」

 今泉さんは、ホチキスを引き出しからだしてニコニコと渡してくれようとした。
 一瞬、この枚数だと、ホチキス針で留めきれないかもという意識が働いたんだと思う。

「他に何かある?」

 他意はなかった。無意識に近い。
 それなのに。

「後輩いびりですか?」

 そばから、そんな声がした。

「え?」

 いびりって、なに!? 
 これがいびりって、嘘でしょう?
 どうしてそうなるの?
 そんなに高圧的だった? 怖い顔してた?

 固まってしまった。

 近くの席から声を掛けてきたのは、私より少し後に入社した工事担当の福沢ふくざわくんだった。特に今までそんな嫌味を言う男でもなく、マイペースでのんびりと仕事をこなすタイプで、嫌いでもなかった。
 私は咄嗟に微笑みの仮面を被ったつもりだが、少しひびは入っていたと思う。

「他にも別の、クリップとか、何かあるかなと思って聞いただけで、いびり……じゃないけど?」

 酷くない?

 今泉さん、その微妙な顔はなに? フォロー無しね。まあ、かなりの年上相手に難しいか。

 私がはじめから留めてくるか、はっきりクリップと言えば良かったんだ。
 私は黙ってホチキスを受け取ると、ガチっと留めた。案の定中途半端に針が折れ曲がったが、もういい。

「ありがとう」

 言い訳するのも嫌だったので、ホチキスをすぐ返して阿部主任の机に資料を置いて、工事部のフロアを後にした。
 こんな些細なことで、傷つく私って……。こんなのは小さな棘。今までの人生、もっと辛いことたくさんあったじゃないかと、自分で自分におかしな慰め方をする。
 今日は仕事帰りに、大学時代の同級生の佳寿美かずみと食事をする約束をしている。こんなこと気にしないで楽しもう。
 先の楽しみことを考えることによって、私は気持ちを切り替え、机に向かった。
 それでも、小さな棘によって負った小さな痛みは、私の心にダメージを与え続けていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

命を狙われたお飾り妃の最後の願い

幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】 重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。 イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。 短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。 『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

愛すべきマリア

志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。 学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。 家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。 早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。 頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。 その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。 体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。 しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。 他サイトでも掲載しています。 表紙は写真ACより転載しました。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。

松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。 そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。 しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

【完】愛人に王妃の座を奪い取られました。

112
恋愛
クインツ国の王妃アンは、王レイナルドの命を受け廃妃となった。 愛人であったリディア嬢が新しい王妃となり、アンはその日のうちに王宮を出ていく。 実家の伯爵家の屋敷へ帰るが、継母のダーナによって身を寄せることも敵わない。 アンは動じることなく、継母に一つの提案をする。 「私に娼館を紹介してください」 娼婦になると思った継母は喜んでアンを娼館へと送り出して──

婚約破棄とか言って早々に私の荷物をまとめて実家に送りつけているけど、その中にあなたが明日国王に謁見する時に必要な書類も混じっているのですが

マリー
恋愛
寝食を忘れるほど研究にのめり込む婚約者に惹かれてかいがいしく食事の準備や仕事の手伝いをしていたのに、ある日帰ったら「母親みたいに世話を焼いてくるお前にはうんざりだ!荷物をまとめておいてやったから明日の朝一番で出て行け!」ですって? まあ、癇癪を起こすのはいいですけれど(よくはない)あなたがまとめてうちの実家に郵送したっていうその荷物の中、送っちゃいけないもの入ってましたよ? ※またも小説の練習で書いてみました。よろしくお願いします。 ※すみません、婚約破棄タグを使っていましたが、書いてるうちに内容にそぐわないことに気づいたのでちょっと変えました。果たして婚約破棄するのかしないのか?を楽しんでいただく話になりそうです。正当派の婚約破棄ものにはならないと思います。期待して読んでくださった方申し訳ございません。

処理中です...