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02 癒しの場所
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それからというもの、一週間に一度くらいのペースで、カフェ〈サン・ルイ〉に通っていた。ランチタイムを過ごす時もあれば、ゆっくりしたい時は仕事帰りに立ち寄った。
数回通った段階で私は顔を覚えられたようで、私に向けられるマスターの笑顔はさらに極上のものになった。仕事で疲れても嫌なことがあっても、彼の笑みを見ると自然と元気が出た。彼の朗らかな笑顔は私にとって心の癒しになった。
いつしか他のお客様とマスターのやり取りを耳にしているうちに、彼が三十代後半で、矢坂さんという苗字であることを知った。そして、カウンターの中にいつもいる女性が奥様だということも。お店の名前は、パリのセーヌ川の中洲にある島、サン・ルイ島からとったそうだが、奥様の名前も〈瑠伊〉さんなのだとか。
お店の奥に、新婚旅行で行ったパリのサン・ルイ島で撮影したふたりの思い出の写真が飾られているとか、そんな情報まで自然に入って来る。
夫婦で仲良くオシャレなカフェを切り盛りしているなんて、とても羨ましかった。理想的な美男美女のご夫婦の姿に胸が痛む。そんな自分が嫌だった。もう来ない方がいいのかもしれないと思いつつも、矢坂さんの笑顔と落ち着く空間と美味しいコーヒーに癒されたいという思いが勝ってしまう。
私は複雑な心に蓋をしながら、カフェ〈サン・ルイ〉に通い続けていた。
〈サン・ルイ〉の奥は半個室の他に、こぢんまりした催事スペースがある。そこで個人やグループの創作作品の展示や販売がよく行われていた。写真、水彩画や陶芸、手作りアクセサリーや小物など、ほとんど週替わりで行われている時もあった。ついでに展示も見ていかないかと一度矢坂さんに誘われてから、お店に行くたびに催事スペースも覗いていくことが常になった。
常連客に昇格していた私は、企画ごとに案内状を送られるまでになった。当然のように住所と名前は伝えてあるので、私は矢坂さんから名前で呼ばれるようになっていた。
「小宮山さん、こんにちは。いらっしゃいませ! 今日もお仕事お疲れ様でした」
矢坂さんから綺麗な笑顔で自分の名前を呼ばれる。ただそれだけで、少し特別な常連客として彼に近づけた気がして、なんとなく嬉しかった。
それだけでいい。
仕事の帰りに寄ったその日は、丁度、新たな企画の準備と重なっていたようで、数人の年配の女性たちが長方形の箱を持って、頻繁に店を出入りしていた。
私は、いつものブレンドコーヒーを飲みながら、その様子を眺めていた。箱の形状からすると、絵か写真なのかなと思った。
「矢坂さん、すみません! 吊り下げる金具って、まだ、ありますか?」
壁を隔てた向こう側からの声に、
「はい、ありますよ。今行きますね」
矢坂さんは丁寧に返答しながら、奥へ姿を消した。少しすると、
「おーい、コウ! 暇ならこっちに来て手伝え!」
え? 今のも矢坂さん?
いつもとは違う、くだけた感じの声にドキリとした。まるで身内を呼ぶ時みたいに親しげな。
一体誰を呼んだの?
その声に反応して、ガタガタという椅子の音とともに立ち上がったのは、出窓の席を陣取っていることが多いよく見かける黒縁眼鏡の男性だった。いつもノートパソコンと睨めっこしていて、若そうなのに少し猫背で……。
「了解っ!」
張りのあるしっかりした声に、思わず顔を見てしまい、見事に目と目が合ってしまった。
やだ、私ったら……。
私は、すぐに目線を外した。
「すみません、うるさくして」
軽く頭を下げながら、私を見ているようだったので、
「いいえ」
私は俯いたまま会釈して、そう答えておいた。
呼ばれて奥へと向かう黒縁眼鏡の男性は、背丈は矢坂さんと変わらないほどだったが、彼よりは幾分若い印象だった。
数回通った段階で私は顔を覚えられたようで、私に向けられるマスターの笑顔はさらに極上のものになった。仕事で疲れても嫌なことがあっても、彼の笑みを見ると自然と元気が出た。彼の朗らかな笑顔は私にとって心の癒しになった。
いつしか他のお客様とマスターのやり取りを耳にしているうちに、彼が三十代後半で、矢坂さんという苗字であることを知った。そして、カウンターの中にいつもいる女性が奥様だということも。お店の名前は、パリのセーヌ川の中洲にある島、サン・ルイ島からとったそうだが、奥様の名前も〈瑠伊〉さんなのだとか。
お店の奥に、新婚旅行で行ったパリのサン・ルイ島で撮影したふたりの思い出の写真が飾られているとか、そんな情報まで自然に入って来る。
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私は複雑な心に蓋をしながら、カフェ〈サン・ルイ〉に通い続けていた。
〈サン・ルイ〉の奥は半個室の他に、こぢんまりした催事スペースがある。そこで個人やグループの創作作品の展示や販売がよく行われていた。写真、水彩画や陶芸、手作りアクセサリーや小物など、ほとんど週替わりで行われている時もあった。ついでに展示も見ていかないかと一度矢坂さんに誘われてから、お店に行くたびに催事スペースも覗いていくことが常になった。
常連客に昇格していた私は、企画ごとに案内状を送られるまでになった。当然のように住所と名前は伝えてあるので、私は矢坂さんから名前で呼ばれるようになっていた。
「小宮山さん、こんにちは。いらっしゃいませ! 今日もお仕事お疲れ様でした」
矢坂さんから綺麗な笑顔で自分の名前を呼ばれる。ただそれだけで、少し特別な常連客として彼に近づけた気がして、なんとなく嬉しかった。
それだけでいい。
仕事の帰りに寄ったその日は、丁度、新たな企画の準備と重なっていたようで、数人の年配の女性たちが長方形の箱を持って、頻繁に店を出入りしていた。
私は、いつものブレンドコーヒーを飲みながら、その様子を眺めていた。箱の形状からすると、絵か写真なのかなと思った。
「矢坂さん、すみません! 吊り下げる金具って、まだ、ありますか?」
壁を隔てた向こう側からの声に、
「はい、ありますよ。今行きますね」
矢坂さんは丁寧に返答しながら、奥へ姿を消した。少しすると、
「おーい、コウ! 暇ならこっちに来て手伝え!」
え? 今のも矢坂さん?
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私は俯いたまま会釈して、そう答えておいた。
呼ばれて奥へと向かう黒縁眼鏡の男性は、背丈は矢坂さんと変わらないほどだったが、彼よりは幾分若い印象だった。
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