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外伝 孤城の敵 A start of the Legend
上 尾張の虎
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唄が聞こえた。
聞いたこともない唄だが、その響きと声の良さが相まって、耳に心地よいものとして聞こえた。
「誰だろう」
そう思って、那古野の町を歩いていた平手政秀は、横丁に入って、その唄の主を探し当てた。
その唄の主は、まだ少年と言ってもいいくらいの年齢だ。
「織田信秀」
そう名乗った少年は、「食うか」と言って、胡瓜を寄越した。
「旨かろう」
ぽりぽりと胡瓜を噛む信秀は、中村のなかという女から貰ったと言った。
「なかは、胡瓜づくりの名人だ」
聞いてもいないことを滔々としゃべり出す。
そして、気づくと引き込まれている。
それが、織田信秀という男だった。
*
月日が経った。
平手政秀は、織田信秀に仕えていた。
ある日。
勝幡城という、信秀の居城でのことだ。
「子が、産まれる」
信秀はそう告げた。
政秀は、良かったではないかと言祝いだ。
そのあと、聞いた。
「……で、誰から産まれる」
信秀は艶福家であり、正室の土田御前のほかに、何人か側室がいる。
誰の子であるか把握しておかないと、宿老たる政秀が困るからだ。
「花屋だ」
「何と」
花屋夫人とは、土田御前の別称である。
そしてこの時点で、信秀と土田御前の間には、まだ、子がいなかった。
「男なら、嫡子ではないか」
「……そうなるな」
何だか気の抜けた信秀の返事に、政秀は「おいおい」と肩をつかんで揺すった。
「まことに芽出度いことではないか……何をそんなぼうっとしておる?」
「いやな」
信秀としても、男なら嫡子であり、それは嬉しい。
だがよく考えてみたら、信秀はまだ何事も成し得ていないということに気がついた。
「この濁世、武士として名を上げんと欲すれど……おれは何もしてはいないではないか、政秀」
「何も……って、津島とかを善く治めているだろう。あれ、余人にできることではないぞ」
津島は港町である。商いの町である。ここを押さえた信秀の織田弾正忠家は、飛躍的に発展することができた。
一癖も二癖もある商人たちに目を光らせて統治するなど、なかなかできることではない――と、政秀は言いたいのだ。
だが信秀は口を尖らせる。
「そんなの、父上の云うとおりにしているだけだ」
しかもその父・織田信定こそが、津島を手に入れたからこそ、今の発展がある。今の統治がある。
信秀が器用に内政をできるのも、すべては――信定がいたからだ。
自分が始めたことではない。
自分が成し得たことではない。
「そうかもしれない。でも、何故、今さら……それを言うのだ?」
政秀は眉間にしわを寄せる。
「嫡男だと、さすがに云わざる得ないだろう……家を継げ、と」
信秀はそれが気になるのだと云う。
自分が、父から継いだように。
津島を受け継いだように。
「おれは……何かを残せるか?」
「…………」
「虎は死して皮を残すと云う。なれば……おれも、虎になりたい」
「それは、あの唄のようにか」
「うむ」
信秀は力強くうなずく。
あの唄のように――人は死してしまうのなら、語り草となる何かをしようという、あの唄のように。
「何かを……したい」
それは、渇きだった。
飢えだった。
のちに、不世出の梟雄として名を馳せる男、織田信秀はこの時、一匹の餓虎であった。
聞いたこともない唄だが、その響きと声の良さが相まって、耳に心地よいものとして聞こえた。
「誰だろう」
そう思って、那古野の町を歩いていた平手政秀は、横丁に入って、その唄の主を探し当てた。
その唄の主は、まだ少年と言ってもいいくらいの年齢だ。
「織田信秀」
そう名乗った少年は、「食うか」と言って、胡瓜を寄越した。
「旨かろう」
ぽりぽりと胡瓜を噛む信秀は、中村のなかという女から貰ったと言った。
「なかは、胡瓜づくりの名人だ」
聞いてもいないことを滔々としゃべり出す。
そして、気づくと引き込まれている。
それが、織田信秀という男だった。
*
月日が経った。
平手政秀は、織田信秀に仕えていた。
ある日。
勝幡城という、信秀の居城でのことだ。
「子が、産まれる」
信秀はそう告げた。
政秀は、良かったではないかと言祝いだ。
そのあと、聞いた。
「……で、誰から産まれる」
信秀は艶福家であり、正室の土田御前のほかに、何人か側室がいる。
誰の子であるか把握しておかないと、宿老たる政秀が困るからだ。
「花屋だ」
「何と」
花屋夫人とは、土田御前の別称である。
そしてこの時点で、信秀と土田御前の間には、まだ、子がいなかった。
「男なら、嫡子ではないか」
「……そうなるな」
何だか気の抜けた信秀の返事に、政秀は「おいおい」と肩をつかんで揺すった。
「まことに芽出度いことではないか……何をそんなぼうっとしておる?」
「いやな」
信秀としても、男なら嫡子であり、それは嬉しい。
だがよく考えてみたら、信秀はまだ何事も成し得ていないということに気がついた。
「この濁世、武士として名を上げんと欲すれど……おれは何もしてはいないではないか、政秀」
「何も……って、津島とかを善く治めているだろう。あれ、余人にできることではないぞ」
津島は港町である。商いの町である。ここを押さえた信秀の織田弾正忠家は、飛躍的に発展することができた。
一癖も二癖もある商人たちに目を光らせて統治するなど、なかなかできることではない――と、政秀は言いたいのだ。
だが信秀は口を尖らせる。
「そんなの、父上の云うとおりにしているだけだ」
しかもその父・織田信定こそが、津島を手に入れたからこそ、今の発展がある。今の統治がある。
信秀が器用に内政をできるのも、すべては――信定がいたからだ。
自分が始めたことではない。
自分が成し得たことではない。
「そうかもしれない。でも、何故、今さら……それを言うのだ?」
政秀は眉間にしわを寄せる。
「嫡男だと、さすがに云わざる得ないだろう……家を継げ、と」
信秀はそれが気になるのだと云う。
自分が、父から継いだように。
津島を受け継いだように。
「おれは……何かを残せるか?」
「…………」
「虎は死して皮を残すと云う。なれば……おれも、虎になりたい」
「それは、あの唄のようにか」
「うむ」
信秀は力強くうなずく。
あの唄のように――人は死してしまうのなら、語り草となる何かをしようという、あの唄のように。
「何かを……したい」
それは、渇きだった。
飢えだった。
のちに、不世出の梟雄として名を馳せる男、織田信秀はこの時、一匹の餓虎であった。
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