輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒

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外伝  孤城の敵 A start of the Legend

上 尾張の虎

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 唄が聞こえた。
 聞いたこともない唄だが、その響きと声の良さが相まって、耳に心地よいものとして聞こえた。

「誰だろう」

 そう思って、那古野の町を歩いていた平手政秀は、横丁に入って、その唄の主を探し当てた。
 その唄の主は、まだ少年と言ってもいいくらいの年齢だ。

「織田信秀」

 そう名乗った少年は、「食うか」と言って、胡瓜きゅうりを寄越した。

「旨かろう」

 ぽりぽりと胡瓜を噛む信秀は、中村のという女から貰ったと言った。

は、胡瓜づくりの名人だ」

 聞いてもいないことを滔々としゃべり出す。
 そして、気づくと引き込まれている。
 それが、織田信秀という男だった。



 月日が経った。
 平手政秀は、織田信秀に仕えていた。
 ある日。
 勝幡城しょばたじょうという、信秀の居城でのことだ。

「子が、産まれる」

 信秀はそう告げた。
 政秀は、良かったではないかと言祝ことほいだ。
 そのあと、聞いた。

「……で、誰から産まれる」

 信秀は艶福家であり、正室の土田御前どたごぜんのほかに、何人か側室がいる。
 誰の子であるか把握しておかないと、宿老たる政秀が困るからだ。

「花屋だ」

「何と」

 花屋夫人とは、土田御前の別称である。
 そしてこの時点で、信秀と土田御前の間には、まだ、子がいなかった。

「男なら、嫡子ではないか」

「……そうなるな」

 何だか気の抜けた信秀の返事に、政秀は「おいおい」と肩をつかんで揺すった。

「まことに芽出度めでたいことではないか……何をそんなしておる?」

「いやな」

 信秀としても、男なら嫡子であり、それは嬉しい。
 だがよく考えてみたら、信秀はまだ何事も成し得ていないということに気がついた。

「この濁世だくせ、武士として名を上げんと欲すれど……おれは何もしてはいないではないか、政秀」

「何も……って、津島とかをく治めているだろう。あれ、余人にできることではないぞ」

 津島は港町である。商いの町である。ここを押さえた信秀の織田弾正忠家おだだんじょうのじょうけは、飛躍的に発展することができた。
 一癖も二癖もある商人たちに目を光らせて統治するなど、なかなかできることではない――と、政秀は言いたいのだ。
 だが信秀は口を尖らせる。

「そんなの、父上のうとおりにしているだけだ」

 しかもその父・織田信定こそが、津島を手に入れたからこそ、今の発展がある。今の統治がある。
 信秀が器用に内政をできるのも、すべては――信定がいたからだ。
 自分が始めたことではない。
 自分が成し得たことではない。

「そうかもしれない。でも、何故、今さら……それを言うのだ?」

 政秀は眉間にしわを寄せる。

「嫡男だと、さすがに云わざる得ないだろう……家を継げ、と」

 信秀はそれが気になるのだと云う。
 自分が、信定から継いだように。
 津島を受け継いだように。

「おれは……何かを残せるか?」

「…………」

「虎は死して皮を残すと云う。なれば……おれも、虎になりたい」

「それは、あの唄のようにか」

「うむ」

 信秀は力強くうなずく。
 あの唄のように――人は死してしまうのなら、語り草となる何かをしようという、あの唄のように。

「何かを……したい」

 それは、渇きだった。
 飢えだった。
 のちに、不世出の梟雄として名を馳せる男、織田信秀はこの時、一匹の餓虎がこであった。
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