輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒

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第十八部 天魔の王

95 夢のあと 後編

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 あれから。
 織田信長は、美濃を手中にした。
 かつての斎藤道三の居城、稲葉山城を落とし、美濃を手中にした。
 道三の嫡子だった男、一色義龍は桶狭間の戦いの翌年に亡くなり、その時は義龍の嫡子である龍興たつおきが美濃の国主であったが、慢心はなはだしく、また家臣の統率に失敗し、そこを信長に付け込まれて、結局は美濃から追い出される羽目となった。
 なお、その美濃攻略戦において、今孔明・竹中半兵衛や斎藤利治、そして木綿藤吉が重要な役割を果たしたのは、言うまでもない。



 射干玉ぬばたまの夜の中。
 かがり火が輝いている。
 ホウホウ、というかけ声が響いている。
 ここは美濃みの、長良川。
 真夏の夜、かがり火をたいて、という水鳥を使って、川の中を泳ぐあゆを捕まえる、伝統の漁――鵜飼うかいの真っ最中だ。
 鵜飼いの鵜を使う漁師たちを、鵜使いという。
 その鵜使いたちのかけ声が、ホウホウというかけ声。
 それを聞いて鵜は落ち着いたのか、おもむろに水中に沈みこんだ。

「おお」

 信長が叫んだ。
 鵜は水中に飛び込んだかと思うとすぐに上がって来て、鵜使いが鵜の喉から鮎を出させる。
 獲れた鮎は、石焼きにして運ばれてきた。

「うん。旨い」

「美味ですな。これは」

 信長の隣には、松平元康改め徳川家康が座して、石焼きの鮎に舌鼓を打っていた。
 この時、信長と家康は、互いの娘と息子の婚約を結んでおり、同盟者である上に、親族であるともいえた。

「しかしわざわざ織田のお方さまに焼いていただくとは」

 家康が振り向くと、帰蝶は手を振って応えた。そしてまた下を向いて、次から次へと鵜使いが運んでくる鮎を焼いている。

「……ありがたいことですな」

 そういえば今川義元も、いわしを獲って来ては、たまに塩焼きにして家康に馳走してくれたことを、ふと思い出した。

「…………」

「……こうしてこの場で鵜使い、否、今度、鵜匠という呼び名を与えて召し抱えようと思うが、その鵜匠の漁を見ると、その時、隣にいた人のことを思い出してしまうと言うてな」

「思い出してしまう」

 家康が反芻すると、信長が斎藤道三のことだ、と補足した。

義父上ちちうえとこの鵜匠の漁を見て鮎を食べて、それでこの信長のもとに嫁ぐ話が出てきた、と」

「……さようでござるか、娘、としての最後の父との夕餉ゆうげでござるか」

「そんなとこだろう……」

 信長が酒を注ぐと、家康は恐縮しながら飲んだ。
 ぷはあ、と息をつく家康を見ながら、信長は呟いた。

「思えばその時より始まった」

「それは」

 家康は目をしばたたかせる。
 同盟相手、親族とはいえ、気が抜けない。
 美濃を制した信長は、今や、戦国大名の雄として、一頭地を抜いた存在だ。

「それは……時、でござるか」

輿乗よじょうの敵」

 信長はそこで酒杯を傾ける。
 家康は輿乗の敵という言葉を思い浮かべ、漢字を当てて、その意味を知る。

「…………」

「そうよ、家康どの。そなたの一個前の海道一の弓取りよ」

 今、徳川家康は海道に覇を唱え、「海道一の弓取り」の異名をものにしたが、その前の「海道一の弓取り」とは――今川義元である。

「義元、いえ、失礼」

「失礼ではない。予もまた今川義元という一個の傑物に、敬意を表しておる」

 信長が佩刀をちらりと見せる。
 銘、義元左文字よしもとさもんじ
 あの桶狭間の死闘で、義元が振るった名刀そのものである。
 なお、信長は左文字を短くし、さらに「義元討捕刻彼所持刀」と金象嵌銘を入れされている。

じゃ……あれほどの敵、なかなかいるものではない」

 その敵に勝った記念しるしということか。
 家康はそう思った。
 信長は話しつづける。

「その輿乗の敵との物語、予と帰蝶の、敵との物語……家康どの、聞いてはくれぬか」

「うかがいましょう」

 見ると周りには、木下藤吉郎秀吉(木綿藤吉)、森可成もりよしなり、前田利家、柴田勝家、林秀貞、河尻秀隆、蜂須賀小六らの諸将が勢ぞろいしている。
 皆、その話を聞きたいらしい。
 輿乗の敵の話を。

「遅うなったわ。えろうすんまへん」

 固唾を飲んで信長の語るのを待っていると、横合いから帰蝶と一緒に鮎を持って来た男がいた。

「十兵衛どの。一体、今まで、どこへ」

「どこて」

 明智十兵衛は頭を掻いた。
 あの桶狭間の戦いのあと、十兵衛は「旅に出たくなった」と言って、尾張を去った。
 信長に仕えるだの、斎藤家いちの武者だの、散々言っておいての旅立ちだが、十兵衛に言わせると、旅にでも出ないと、自分もまたおおをしたくてしたくてたまらなくなる、とのことである。

「しばらく旅に出て、昂る頭を冷やしてくるわ」

 そうはいたものの、熱田から堺へと帰る千宗易《せんのそうえき》に随行していたあたりに、信長と帰蝶の意志が感じられる。
 そしてちょうどこの――長良川の鵜飼いの宴に間に合うあたりにも。

「……ま、堺のあとは、京や。おはん、元気にしとったで」

「まあ」

 山崎屋おは、結局、京にいることを選んだ。
 何でも、山崎屋庄五郎――斎藤道三との出会いの地であり、共に商いにいそしんだ地であり、そして太原雪斎という碩学せきがくと知り合った地でもあるから、と。

「……ま、そっから先は、まだ内緒や。許したってぇな」

 十兵衛は片目をつぶると、いそいそと鮎を運んでいく。
 運んでいった先では、木下藤吉郎が待ちかまえていて、さっさと十兵衛から鮎を受け取る。
 かっさらうように。

「……なんやねん、ワレ」

「何でも、よかろ。よ、よ」

 藤吉郎は抜け目なく、主賓の家康のところへ「おかわりでござる」と鮎を運んでいく。
 家康は一礼してそれを受け取ると、実は待ちきれなかったのか、もしゃもしゃと食べ始めた。
 それを見ていた柴田勝家などは「おい。こっちはどうした」と怒鳴るが、そこは藤吉郎の弟・小一郎が出て来て、「兄が失礼いたした」と頭を下げつつ、鮎を持って行く。
 そこまで来ると、もはや主客の別なく、われ先にと帰蝶のところへと鮎を貰いに行く者が続出した。
 ちなみに、一番に帰蝶の前に来たのが、織田信長であったことは言うまでもない。



 ……夜はけ、なみいる群臣らもその場で寝入り、家康も迎えに来た服部半蔵と共に、宿所へと戻っていった。
 半蔵は信長に対して意味ありげな視線を向けていたが、十兵衛に「早よ帰れ」と言われ、藤吉郎には憐憫を込めた目で見られ、最後に家康にたしなめられて、一礼して踵を返した。

「やれやれ」

 、しつこい奴よと信長は扇をひらひらとさせた。
 
「……それだけ、今川義元さまへの想いが強うございましたのでしょう」

 帰蝶が隣に座った。
 気づくと、ふたりきりだ。
 信長は、少し聞きたいことがあると断りを入れた。

「……に、に座ると、思い出してしまう、というのは嘘であろう」

「わかりましたか」

 帰蝶は笑った。
 それはそうか、と。
 何しろ、他ならぬ信長自身が語った。
 輿乗の敵の物語を。
 その物語において、まずもって語られるのは織田信秀であり、平手政秀であり、そして斎藤道三である。

「本当は……怖かったのです」

 信長の目線が「何が」と言っている。

「こうして……この座に座ると、その隣の方がうなってしまうのではないか、と思うと……怖いのです」

 斎藤道三は帰蝶を織田家に送り出した。その後も帰蝶との交流はつづいたが、最終的には非業の死に斃れた。
 だから帰蝶は思うのだ。
 もしこの場に、帰蝶の隣に最愛の人がいて、座ったとしたら――と。

「それは、そうだな」

 信長はため息をつく。
 帰蝶の心配はもっともだ。
 この乱世、いつ斃れるか分からない。

一度生ひとたびしょうを得て、滅せぬ者の、あるべきか、か……」

 信長が好む幸若舞「敦盛」の一節である。
 隣を見ると、帰蝶が震えているようだった。
 信長は、そんな帰蝶の肩を抱いた。

「濃」

「信長さま」

 ふたりきり。
 とするような抱擁である。

「濃」

「はい」

「……その時、義父上ちちうえはもしや、こう唄われたのではないか?」

 信長は唄った。
 その唄を。

「あ……」

 ――死のふは一定いちじょう しのび草には何をしよぞ 一定かたりをこすのよ

「濃」

「はい」

「人は皆死ぬ。だからこそ……だからこそ、語り草となるべき何かを、したい。そう思うのではないか」

「怖がることはいい。人間として、それは自然じねんのこと。しかし」

 精一杯生きること。
 せいまっとうすること。

「……たとい、語り草とならなくとも、予は……いや、おれはそうしたい。濃、お前はどうだ?」

「わたしは……」

 帰蝶が言おうとすると、信長は立ち上がり、手を伸ばした。

「何かをそうとしても、道半ばで斃れるかもしれない。あるいは、したとしても天魔の王と呼ばれるかもしれない。それでも、濃よ」

「皆までおっしゃいますな」

 帰蝶は、信長の手を握った。
 強く。
 そして立つ。
 信長の隣に。

「わたしも、共に……共に、しましょうぞ。たとい、語り草とならなくとも。たとい、道半ばで斃れるとしても。天魔の王と呼ばれても」

 ……天に、夜天に、星々が輝いていた。
 その星々のに、見守っている誰かが、いるような気がした。
 そしてその誰か――一人ではない、何人かが、唄っているような気がした。

 ……この物語は、その唄で終わろうと思う。
 ここまでこの物語を見守ってくれていたあなたに。
 その唄を唄って。





 ――死のふは一定いちじょう しのび草には何をしよぞ 一定かたりをこすのよ





輿乗よじょうの敵 ~ 新史 桶狭間 ~』   【完】
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