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第十八部 天魔の王
93 夢のあと 前編
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村木砦の戦いで、信長の本陣となった村木神社という神社がある。
その神社では今日でも行われる祭り、「おまんと」がある。
「おまんと」とは、馬の塔を意味し、祭りの内容は、疾走する馬に若者が飛びつかまり、そのまま一緒に走るお祭りで、駆け馬とも称される。
その起源は、桶狭間の戦いに織田信長が勝ったことを知った村人が、「お祝い」として、清州へ馬を走らせたこと――を発端とされている。
だが、筆者が思うに、これはひょっとしたら、信長がこのあたりの領主・水野信元に、馬を走らせろと頼んだからなのかもしれない……。
*
「……それと、馬だ。とにかく馬を走らせるだけでいい」
「まあ、それなら……」
突然現れた織田信長に面食らいながらも、水野信元はそれを了承した。
それとは、馬を走らせて、織田軍の囮とすることだ。
織田は勝った。
何しろ今川義元の首級を持って現れたのだ。
もはや、その勝利は疑いない。
だが、今川の残兵を警戒しているという。
だから、自分たちと誤解させるように、囮として馬を走らせろ、と。
「やれやれ……」
信元は、来た時のように、風の如くに去って行く信長とその軍を見送りながら、さてこのあたりの勢力地図はどう塗り替わるのかと考えをめぐらせ、信長に最初に言われた方の頼みに思いを致すのだった。
「大高城の方はまだいいが……鳴海城の方はちと骨だな」
まあいいか、とひとりごちて、信元は妹の於大へ使いを出した。
於大は松平元康の母である。
*
津々木蔵人は、桶狭間山に響く歓声を聞いた。
空には太陽が顔を見せ、雲は走り去りつつある。
蔵人は足の痛みをこらえつつ、服部正成の遺体を背に、どうにか歩いて今川義元の行方を追おうしていたが、その歓声に、全てが終わったことを悟った。
「あれは今川軍の声ではない。ということは」
織田軍が勝ったのだ。
織田信長が、今川義元に勝利したのだ。
悔しさもあった。
だが、信長の勝利については、不思議と納得できた。
それだけの戦いを、信長は演じていたのだから。
「……何か来る」
馬蹄の轟きを聞き、蔵人は本能的に、正成の遺体と共に、近くの茂みに飛び込んだ。
その次の瞬間、織田信長とその軍勢が走って行く。走り去っていく。
目的を果たした以上、この場にとどまることは不要ということか。
そして。
「今川の残兵に襲われてはたまらぬ。もう大高城に戻っているはずの松平元康あたりには、特に」
さようでござるな正成どの、と蔵人は呟いたが、むろん、返事を期待したわけではない。
一瞬、首だけとなった今川義元と目が合った。
おさらばです、と頭を下げた。
そして織田軍は去り、あたりには静けさが。
「さて、どうするか」
元はと言えば、那古野城を取り戻すという復讐を志していたが、それも今となってはかなわない。
駿府へ戻るにしても、このようないくさのあとでは、混乱が起こることは必定、戻れるかどうか。
それよりも、服部正成の遺体を埋葬してやらねば。
一刻も早く。
「この雨のあとの湿気。それに暑さ……早く弔わねば、遺体が傷む」
実際、今川義元の遺体も腐敗に耐えられず、駿府まで持ち帰ることが出来ず、三河で埋められたという。
蔵人は改めて服部正成の遺体を担いだ。担ごうとした。
「痛ッ」
蔵人は転び、正成の遺体と共に、地面に倒れ伏した。
さっき、茂みへ飛び込んだことが災いしたかもしれない。
蔵人の足は、さらに痛みを増していた。
「これでは、正成どのを運べぬ」
何ということだ。
罪の無い地面を叩く蔵人。
だがその耳に、ある音が響いた。
しゃん。
それは、僧侶の錫杖の音だろうか。
このような戦場をうろつくなど、酔狂な。
そう思った蔵人の目に、こちらへ近づいて来る、見知った顔の若い僧侶が見えた。
*
「織田が勝った、今川が負けた!」
「早く逃げろ、追い討ちが来るぞ!」
口々に叫ぶ今川軍の残兵とおぼしきその二人に、生き残った今川軍の将領、庵原忠縁は詰め寄った。
「ま、まことかそれは」
「へえ、さようで」
「あ、あっちに、義元さまの首なしの死体が」
「何と!」
庵原忠縁が息せき切って駆けていくのを見送り、その二人――簗田政綱と木綿藤吉は、さらに今川義元の死を声高に叫び、広めていく。
……そうすることにより、残った今川軍の将兵を、駿府へと逃げるように仕向けるためだ。
何も親切でやっているわけではない。
未だ多数である今川軍を糾合されると、数の上では少ない織田軍に不利だからだ。
「……これで、あらかたの将には伝えられたみたいだな」
「ええ」
「よし、次は沓掛だ。このまま、信長さまの再びの攻めの下地を作るぞ」
「承知」
これが政綱と木綿が、今川義元討ち取りの際に目立たないようにしていた理由であった。
今のいくさが終わる時にはもう、次のいくさのことを考える。
それが織田信長と、そして簗田政綱のやり方である。
木綿藤吉は大いに感心し、また大いに学ぼうと努めるのだった。
*
陸の今川軍が撤退を始めた頃、海の今川軍――今川氏真は駿府に至り、そこで父・義元の死を知った。
無念に思うも、父は父でやりたいことをやって、その上で死んだということだけはわかっていた。
いろいろと言われる父だが、少なくとも氏真にとっては、好きにやらせてくれて、その代わり自身も好きなことをするという、そういう父であった。
北条氏康は、ことがことなだけに小田原に戻って善後策を考えると言って、去って行った。
氏真はそれを止めることはなく、むしろ巻き込んですまないと伝えて、見送った。
祖母である寿桂尼から、そんなことでどうする、北条水軍がいれば、どれだけ力になったことかと叱られたが、この氏康への対応が、のちのち氏真を救うことになるのだが、それはまた別の話である。
「まったく……」
寿桂尼はさらにいろいろと言いたいことはあったが、彼女は彼女でやることがあったので、それは言わずに、氏真にある扇を手渡した。
それは、今川義元が輿舁きの長に託した扇である。
氏真がその扇を開くと、ある唄が記されていた。
「死のふは一定、しのび草には何をしよぞ。 一定かたりをこすのよ……」
やはり、父はやりたいことをやったのだ、と氏真は感じ入り、そして泣いた。
「まさかのう……」
寿桂尼もまた、感慨もひとしお、と言いたげに涙をぬぐった。
「どうされたのですか」
「……実は」
寿桂尼は、つい先日、息子を失ったと言った。
「父上のことですか? ……いえ、ちがいますね」
寿桂尼は義元のことを「義元どの」と呼ぶ。
それは養子であり、実の息子ではないからと思われている。
ということは。
「そうです。お前の叔父、氏豊どの……今川氏豊どのが亡くなったのです」
ちょうど、桶狭間にて、今川義元が果てた時。
花倉の乱以来、ずっと眠っていた今川氏豊は、突然、目を覚ました。
その時、氏豊の世話をしていた寿桂尼は狂喜したが、氏豊は首を振り、「兄上を追います」と言って、目を閉じたという。
「そうして、冷たくなっていきました……」
きっと、兄・今川義元に殉じたのであろう。
生まれのちがいでいろいろとあったが、結局のところ、義元と氏豊は仲の良い兄弟であった。
そして氏豊は何故か義元の死を知り、自分にできる最大限のことをしたのだ。
「今から妾は氏豊の弔いをします」
「はい」
「でも氏真、お前はその弔いに出ることは、なりません」
「それは……」
寿桂尼の目に、答えがあった。
今川の当主はそなた。
そなたは今、その務めを果たさねばならぬ。
尼御台と謳われた女丈夫の目に、そう記されていた。
*
大高城。
松平元康は丸根砦から戻ったそこで、今川義元の死を知った。
鷲津砦から戻った朝比奈泰朝は、一も二もなく撤退した。とにかく今川義元の死を確認することと、それが確かならば、敗残兵を率いて駿府へと連れて行かねばならないからだ。
だが元康は残った。
自分でも白々しいぐらいに「大高を守ります。あとはお任せください」と述べて。
さすがに泰朝もこのような事態に動揺しており、特に元康を疑いもせず、「そうか。では任せた」と、行ってしまった。
……こうして、松平元康は、大高城で一人になった。
正確には家臣たちも一緒だが。
その家臣たちは、義元さまの仇討ちだの、三河での独り立ちだの、ざわめく。
元康は「冥福を祈りたい」と持仏堂に入った。
とにかく一人になりたいのだろうと思われたらしく、誰も何も言ってこない。
「これから、どうするか」
そうこうするうちに、母の於大から書状が来た。
於大は、元康を生んでのち、兄の水野信元が今川から織田に転向したため、元康の父・松平広忠から離縁された。
その後、久松家に嫁いだが、元康とは書状のやり取りをしていた。
「母が、何を」
元康は書状を開いた。
母の背後には水野信元がいる。
そして水野信元の背後には。
「つまりは、織田は、何を」
書状を見ると、三河に戻るべしと書いてあった。
その際には、水野信元が手を回して、織田信長には見逃がしてもらう手はずになっているとも書いてあった。
そして最後には、織田と一戦交えるのは構わないが、勝った場合は、水野と久松は関知しない、と。
「……恐ろしい、男だな」
松平元康は形式上、今川義元の女婿である。
その元康なら、復仇を旗印に織田を攻める、という大義名分が成り立つ。
今川の敗残兵も、今ならまだ三河にいるだろうし、そこを糾合すれば、兵数は織田を上回る。
うまくすれば、勝つことも可能だろう。
「だが、勝ったあとはどうする?」
自問自答。
ゆえに、答えは出ていた。
勝った場合、元康は今川の当主・氏真を上回る存在になりかねない。
何しろ、仇を討ったのだ。
ともすれば、義元の目的であった、尾張占領を成し遂げかねない。
……しかし、古来、大功を樹てた臣下の運命は厳しい。
氏真自身にその意志がなくとも、周りが元康の排除に動くだろう。
特に、寿桂尼あたりが。
「そこを読むか、織田信長。恐ろしい男よ」
実は、松平元康もそれを読んでいた。
だからこそ、朝比奈泰朝を帰したのだ。
泰朝がその可能性に気づく前に、速やかに。
今川家の忠臣たる泰朝なら、遠く寿桂尼の命を受けて、元康の背後から刺してくるであろう。
「…………」
改めて書状を見る。
今なら、織田は見逃がすという。
それは逆に、織田が攻められたくないという事情を雄弁に語っている。
勝ったとはいえ、織田からすると総力戦であり、消耗戦だった。
そういうことなのに。
「その弱みを敢えて……逆に見逃がすという温情を見せ、恩義を売って……この松平元康に貸しを作るつもりか、織田信長」
だが他に道は無い。
今、松平元康の価値に気づいているのは、織田信長だけではない、他ならぬ寿桂尼も、そうであろう。
だとすれば、一刻も早く三河に戻り、割拠せねば。
今川義元という箍が外れた今、再び争乱の地と化しているであろう、三河へ。
「……よし、馬引けい!」
松平元康、戦国大名としての戦いが始まる。
その戦いは苦難に満ちていたが、その果てにはやがて、戦国という時代の終焉があることに、元康自身はまだ気づいていない。
*
駆け抜ける濃尾平野。
その群れの先頭は、織田信長だ。
その信長の隣を行くのは帰蝶であり、彼女は、信長がこう叫ぶのを聞いた。
「親父殿! 爺! 義父上! 勝った! やった! おれは……勝ったぞ! 見事と言われたぞ!」
その言葉に、信長のこれまでと、そして今の想いが込められていた。
織田信秀。
平手政秀。
斎藤道三。
そして今川義元。
そういう傑物たちに囲まれて、相手して。
織田信長は戦い、勝利した。
のちの世の語り草となった。
「だが濃よ」
どうやら、聞いているのを気づかれたようだ。
信長は意に介していないようで、満面の笑みだ。
「これまでと、今はいい。これからだ」
「……これから、とは?」
聞くことか、と信長は大声を立てて笑った。
「これからは……先を行く者や教えてもらえる者はいない。だがこれからだ。これからこそが」
ああそういうことか、と帰蝶も気づいた。
「これからこそが……先人の手を借りず、そう、わたしたち自身の手で、為さなければなりません!」
そういうことだ、と信長はうなずく。
「よし、皆の者! ここからは清州までは競走だ! 駆けるぞ! 一番早いものに、次の一番槍をくれてやる!」
おお、と歓声が上がり、森可成、前田利家、柴田勝家、河尻秀隆、林秀貞、明智十兵衛らが勢いづく。
「相手が予でも遠慮はするな! いや、予は木綿の代わりと思え! 予が勝てば、一番槍は木綿ぞ!」
「そうと言われては、負けるわけには参りませんな」
勝家が凄む。利家も然りと叫ぶ。可成と秀隆は笑い、秀貞はやれやれとため息をつく。
十兵衛は何も言わなかったが、「お先!」とばかりに、いち早く前に出た。
「あっ、ずるいぞ!」
「待て待て」
そんな一同の様子に微笑みながら、帰蝶はふと天を仰ぐ。
広い空、白い雲。
太陽は今や、輝かしく天地を照らしていた。
「それっ」
帰蝶も信長を追って、馬を馳せる。
織田軍の将兵もつづく。
こうして、織田信長とその軍は駆けていく。
その駆けていく先は、今は清州。
だがさらにその先には、天下という大きな夢が待ち受けている――。
その神社では今日でも行われる祭り、「おまんと」がある。
「おまんと」とは、馬の塔を意味し、祭りの内容は、疾走する馬に若者が飛びつかまり、そのまま一緒に走るお祭りで、駆け馬とも称される。
その起源は、桶狭間の戦いに織田信長が勝ったことを知った村人が、「お祝い」として、清州へ馬を走らせたこと――を発端とされている。
だが、筆者が思うに、これはひょっとしたら、信長がこのあたりの領主・水野信元に、馬を走らせろと頼んだからなのかもしれない……。
*
「……それと、馬だ。とにかく馬を走らせるだけでいい」
「まあ、それなら……」
突然現れた織田信長に面食らいながらも、水野信元はそれを了承した。
それとは、馬を走らせて、織田軍の囮とすることだ。
織田は勝った。
何しろ今川義元の首級を持って現れたのだ。
もはや、その勝利は疑いない。
だが、今川の残兵を警戒しているという。
だから、自分たちと誤解させるように、囮として馬を走らせろ、と。
「やれやれ……」
信元は、来た時のように、風の如くに去って行く信長とその軍を見送りながら、さてこのあたりの勢力地図はどう塗り替わるのかと考えをめぐらせ、信長に最初に言われた方の頼みに思いを致すのだった。
「大高城の方はまだいいが……鳴海城の方はちと骨だな」
まあいいか、とひとりごちて、信元は妹の於大へ使いを出した。
於大は松平元康の母である。
*
津々木蔵人は、桶狭間山に響く歓声を聞いた。
空には太陽が顔を見せ、雲は走り去りつつある。
蔵人は足の痛みをこらえつつ、服部正成の遺体を背に、どうにか歩いて今川義元の行方を追おうしていたが、その歓声に、全てが終わったことを悟った。
「あれは今川軍の声ではない。ということは」
織田軍が勝ったのだ。
織田信長が、今川義元に勝利したのだ。
悔しさもあった。
だが、信長の勝利については、不思議と納得できた。
それだけの戦いを、信長は演じていたのだから。
「……何か来る」
馬蹄の轟きを聞き、蔵人は本能的に、正成の遺体と共に、近くの茂みに飛び込んだ。
その次の瞬間、織田信長とその軍勢が走って行く。走り去っていく。
目的を果たした以上、この場にとどまることは不要ということか。
そして。
「今川の残兵に襲われてはたまらぬ。もう大高城に戻っているはずの松平元康あたりには、特に」
さようでござるな正成どの、と蔵人は呟いたが、むろん、返事を期待したわけではない。
一瞬、首だけとなった今川義元と目が合った。
おさらばです、と頭を下げた。
そして織田軍は去り、あたりには静けさが。
「さて、どうするか」
元はと言えば、那古野城を取り戻すという復讐を志していたが、それも今となってはかなわない。
駿府へ戻るにしても、このようないくさのあとでは、混乱が起こることは必定、戻れるかどうか。
それよりも、服部正成の遺体を埋葬してやらねば。
一刻も早く。
「この雨のあとの湿気。それに暑さ……早く弔わねば、遺体が傷む」
実際、今川義元の遺体も腐敗に耐えられず、駿府まで持ち帰ることが出来ず、三河で埋められたという。
蔵人は改めて服部正成の遺体を担いだ。担ごうとした。
「痛ッ」
蔵人は転び、正成の遺体と共に、地面に倒れ伏した。
さっき、茂みへ飛び込んだことが災いしたかもしれない。
蔵人の足は、さらに痛みを増していた。
「これでは、正成どのを運べぬ」
何ということだ。
罪の無い地面を叩く蔵人。
だがその耳に、ある音が響いた。
しゃん。
それは、僧侶の錫杖の音だろうか。
このような戦場をうろつくなど、酔狂な。
そう思った蔵人の目に、こちらへ近づいて来る、見知った顔の若い僧侶が見えた。
*
「織田が勝った、今川が負けた!」
「早く逃げろ、追い討ちが来るぞ!」
口々に叫ぶ今川軍の残兵とおぼしきその二人に、生き残った今川軍の将領、庵原忠縁は詰め寄った。
「ま、まことかそれは」
「へえ、さようで」
「あ、あっちに、義元さまの首なしの死体が」
「何と!」
庵原忠縁が息せき切って駆けていくのを見送り、その二人――簗田政綱と木綿藤吉は、さらに今川義元の死を声高に叫び、広めていく。
……そうすることにより、残った今川軍の将兵を、駿府へと逃げるように仕向けるためだ。
何も親切でやっているわけではない。
未だ多数である今川軍を糾合されると、数の上では少ない織田軍に不利だからだ。
「……これで、あらかたの将には伝えられたみたいだな」
「ええ」
「よし、次は沓掛だ。このまま、信長さまの再びの攻めの下地を作るぞ」
「承知」
これが政綱と木綿が、今川義元討ち取りの際に目立たないようにしていた理由であった。
今のいくさが終わる時にはもう、次のいくさのことを考える。
それが織田信長と、そして簗田政綱のやり方である。
木綿藤吉は大いに感心し、また大いに学ぼうと努めるのだった。
*
陸の今川軍が撤退を始めた頃、海の今川軍――今川氏真は駿府に至り、そこで父・義元の死を知った。
無念に思うも、父は父でやりたいことをやって、その上で死んだということだけはわかっていた。
いろいろと言われる父だが、少なくとも氏真にとっては、好きにやらせてくれて、その代わり自身も好きなことをするという、そういう父であった。
北条氏康は、ことがことなだけに小田原に戻って善後策を考えると言って、去って行った。
氏真はそれを止めることはなく、むしろ巻き込んですまないと伝えて、見送った。
祖母である寿桂尼から、そんなことでどうする、北条水軍がいれば、どれだけ力になったことかと叱られたが、この氏康への対応が、のちのち氏真を救うことになるのだが、それはまた別の話である。
「まったく……」
寿桂尼はさらにいろいろと言いたいことはあったが、彼女は彼女でやることがあったので、それは言わずに、氏真にある扇を手渡した。
それは、今川義元が輿舁きの長に託した扇である。
氏真がその扇を開くと、ある唄が記されていた。
「死のふは一定、しのび草には何をしよぞ。 一定かたりをこすのよ……」
やはり、父はやりたいことをやったのだ、と氏真は感じ入り、そして泣いた。
「まさかのう……」
寿桂尼もまた、感慨もひとしお、と言いたげに涙をぬぐった。
「どうされたのですか」
「……実は」
寿桂尼は、つい先日、息子を失ったと言った。
「父上のことですか? ……いえ、ちがいますね」
寿桂尼は義元のことを「義元どの」と呼ぶ。
それは養子であり、実の息子ではないからと思われている。
ということは。
「そうです。お前の叔父、氏豊どの……今川氏豊どのが亡くなったのです」
ちょうど、桶狭間にて、今川義元が果てた時。
花倉の乱以来、ずっと眠っていた今川氏豊は、突然、目を覚ました。
その時、氏豊の世話をしていた寿桂尼は狂喜したが、氏豊は首を振り、「兄上を追います」と言って、目を閉じたという。
「そうして、冷たくなっていきました……」
きっと、兄・今川義元に殉じたのであろう。
生まれのちがいでいろいろとあったが、結局のところ、義元と氏豊は仲の良い兄弟であった。
そして氏豊は何故か義元の死を知り、自分にできる最大限のことをしたのだ。
「今から妾は氏豊の弔いをします」
「はい」
「でも氏真、お前はその弔いに出ることは、なりません」
「それは……」
寿桂尼の目に、答えがあった。
今川の当主はそなた。
そなたは今、その務めを果たさねばならぬ。
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だが元康は残った。
自分でも白々しいぐらいに「大高を守ります。あとはお任せください」と述べて。
さすがに泰朝もこのような事態に動揺しており、特に元康を疑いもせず、「そうか。では任せた」と、行ってしまった。
……こうして、松平元康は、大高城で一人になった。
正確には家臣たちも一緒だが。
その家臣たちは、義元さまの仇討ちだの、三河での独り立ちだの、ざわめく。
元康は「冥福を祈りたい」と持仏堂に入った。
とにかく一人になりたいのだろうと思われたらしく、誰も何も言ってこない。
「これから、どうするか」
そうこうするうちに、母の於大から書状が来た。
於大は、元康を生んでのち、兄の水野信元が今川から織田に転向したため、元康の父・松平広忠から離縁された。
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「母が、何を」
元康は書状を開いた。
母の背後には水野信元がいる。
そして水野信元の背後には。
「つまりは、織田は、何を」
書状を見ると、三河に戻るべしと書いてあった。
その際には、水野信元が手を回して、織田信長には見逃がしてもらう手はずになっているとも書いてあった。
そして最後には、織田と一戦交えるのは構わないが、勝った場合は、水野と久松は関知しない、と。
「……恐ろしい、男だな」
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その元康なら、復仇を旗印に織田を攻める、という大義名分が成り立つ。
今川の敗残兵も、今ならまだ三河にいるだろうし、そこを糾合すれば、兵数は織田を上回る。
うまくすれば、勝つことも可能だろう。
「だが、勝ったあとはどうする?」
自問自答。
ゆえに、答えは出ていた。
勝った場合、元康は今川の当主・氏真を上回る存在になりかねない。
何しろ、仇を討ったのだ。
ともすれば、義元の目的であった、尾張占領を成し遂げかねない。
……しかし、古来、大功を樹てた臣下の運命は厳しい。
氏真自身にその意志がなくとも、周りが元康の排除に動くだろう。
特に、寿桂尼あたりが。
「そこを読むか、織田信長。恐ろしい男よ」
実は、松平元康もそれを読んでいた。
だからこそ、朝比奈泰朝を帰したのだ。
泰朝がその可能性に気づく前に、速やかに。
今川家の忠臣たる泰朝なら、遠く寿桂尼の命を受けて、元康の背後から刺してくるであろう。
「…………」
改めて書状を見る。
今なら、織田は見逃がすという。
それは逆に、織田が攻められたくないという事情を雄弁に語っている。
勝ったとはいえ、織田からすると総力戦であり、消耗戦だった。
そういうことなのに。
「その弱みを敢えて……逆に見逃がすという温情を見せ、恩義を売って……この松平元康に貸しを作るつもりか、織田信長」
だが他に道は無い。
今、松平元康の価値に気づいているのは、織田信長だけではない、他ならぬ寿桂尼も、そうであろう。
だとすれば、一刻も早く三河に戻り、割拠せねば。
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「……よし、馬引けい!」
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その戦いは苦難に満ちていたが、その果てにはやがて、戦国という時代の終焉があることに、元康自身はまだ気づいていない。
*
駆け抜ける濃尾平野。
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その信長の隣を行くのは帰蝶であり、彼女は、信長がこう叫ぶのを聞いた。
「親父殿! 爺! 義父上! 勝った! やった! おれは……勝ったぞ! 見事と言われたぞ!」
その言葉に、信長のこれまでと、そして今の想いが込められていた。
織田信秀。
平手政秀。
斎藤道三。
そして今川義元。
そういう傑物たちに囲まれて、相手して。
織田信長は戦い、勝利した。
のちの世の語り草となった。
「だが濃よ」
どうやら、聞いているのを気づかれたようだ。
信長は意に介していないようで、満面の笑みだ。
「これまでと、今はいい。これからだ」
「……これから、とは?」
聞くことか、と信長は大声を立てて笑った。
「これからは……先を行く者や教えてもらえる者はいない。だがこれからだ。これからこそが」
ああそういうことか、と帰蝶も気づいた。
「これからこそが……先人の手を借りず、そう、わたしたち自身の手で、為さなければなりません!」
そういうことだ、と信長はうなずく。
「よし、皆の者! ここからは清州までは競走だ! 駆けるぞ! 一番早いものに、次の一番槍をくれてやる!」
おお、と歓声が上がり、森可成、前田利家、柴田勝家、河尻秀隆、林秀貞、明智十兵衛らが勢いづく。
「相手が予でも遠慮はするな! いや、予は木綿の代わりと思え! 予が勝てば、一番槍は木綿ぞ!」
「そうと言われては、負けるわけには参りませんな」
勝家が凄む。利家も然りと叫ぶ。可成と秀隆は笑い、秀貞はやれやれとため息をつく。
十兵衛は何も言わなかったが、「お先!」とばかりに、いち早く前に出た。
「あっ、ずるいぞ!」
「待て待て」
そんな一同の様子に微笑みながら、帰蝶はふと天を仰ぐ。
広い空、白い雲。
太陽は今や、輝かしく天地を照らしていた。
「それっ」
帰蝶も信長を追って、馬を馳せる。
織田軍の将兵もつづく。
こうして、織田信長とその軍は駆けていく。
その駆けていく先は、今は清州。
だがさらにその先には、天下という大きな夢が待ち受けている――。
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歴史・時代
【あらすじ】
織田信忠は、本能寺の変の前夜、父・信長を訪れていた。そして信長から、織田家の――信忠の今後と、明智光秀の今後についての考えを聞く。それを知った光秀は……。
【表紙画像・挿絵画像】
「きまぐれアフター」様より
河越夜戦 〜相模の獅子・北条新九郎氏康は、今川・武田連合軍と関東諸侯同盟軍八万に、いかに立ち向かったのか〜
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
今は昔、戦国の世の物語――
父・北条氏綱の死により、北条家の家督を継いだ北条新九郎氏康は、かつてない危機に直面していた。
領国の南、駿河・河東(駿河東部地方)では海道一の弓取り・今川義元と、甲斐の虎・武田晴信の連合軍が侵略を開始し、領国の北、武蔵・河越城は関東管領・山内上杉憲政と、扇谷上杉朝定の「両上杉」の率いる八万の関東諸侯同盟軍に包囲されていた。
関東管領の山内上杉と、扇谷上杉という関東の足利幕府の名門の「双つの杉」を倒す夢を祖父の代から受け継いだ、相模の獅子・北条新九郎氏康の奮戦がはじまる。
敵は家康
早川隆
歴史・時代
旧題:礫-つぶて-
【第六回アルファポリス歴史・時代小説大賞 特別賞受賞作品】
俺は石ころじゃない、礫(つぶて)だ!桶狭間前夜を駆ける無名戦士達の物語。永禄3年5月19日の早朝。桶狭間の戦いが起こるほんの数時間ほど前の話。出撃に際し戦勝祈願に立ち寄った熱田神宮の拝殿で、織田信長の眼に、彼方の空にあがる二条の黒い煙が映った。重要拠点の敵を抑止する付け城として築かれた、鷲津砦と丸根砦とが、相前後して炎上、陥落したことを示す煙だった。敵は、餌に食いついた。ひとりほくそ笑む信長。しかし、引き続く歴史的大逆転の影には、この両砦に籠って戦い、玉砕した、名もなき雑兵どもの人生と、夢があったのである・・・
本編は「信長公記」にも記された、このプロローグからわずかに時間を巻き戻し、弥七という、矢作川の流域に棲む河原者(被差別民)の子供が、ある理不尽な事件に巻き込まれたところからはじまります。逃亡者となった彼は、やがて国境を越え、風雲急を告げる東尾張へ。そして、戦地を駆ける黒鍬衆の一人となって、底知れぬ謀略と争乱の渦中に巻き込まれていきます。そして、最後に行き着いた先は?
ストーリーはフィクションですが、周辺の歴史事件など、なるべく史実を踏みリアリティを追求しました。戦場を駆ける河原者二人の眼で、戦国時代を体感しに行きましょう!
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吼えよ! 権六
林 本丸
歴史・時代
時の関白豊臣秀吉を嫌う茶々姫はあるとき秀吉のいやがらせのため自身の養父・故柴田勝家の過去を探ることを思い立つ。主人公の木下半介は、茶々の命を受け、嫌々ながら柴田勝家の過去を探るのだが、その時々で秀吉からの妨害に見舞われる。はたして半介は茶々の命を完遂できるのか? やがて柴田勝家の過去を探る旅の過程でこれに関わる人々の気持ちも変化して……。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
女の首を所望いたす
陸 理明
歴史・時代
織田信長亡きあと、天下を狙う秀吉と家康の激突がついに始まろうとしていた。
その先兵となった鬼武蔵こと森長可は三河への中入りを目論み、大軍を率いて丹羽家の居城である岩崎城の傍を通り抜けようとしていた。
「敵の軍を素通りさせて武士といえるのか!」
若き城代・丹羽氏重は死を覚悟する!
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