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第十七部 運命の時
92 決戦 後編
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尾張。
桶狭間山中。
その山間の間道にて、簗田政綱、木綿藤吉、毛利新介、毛利長秀、服部小平太らは、ついに「その場所」に到達した。
その場所、つまり今川義元が隠れ潜んでいるその場所に着くと、義元は少し驚いた顔をしたが、「少し待て」と言って、扇に何事かをさらさらと書いて、輿の輿舁きの長に、それを手渡した。
「下ろせ。そしてその扇を持って、わが養母、寿桂尼の許へ行け。さすれば悪いようにはせぬはず」
義元の義母・寿桂尼。
側妾の子であった義元が花倉の乱を制して今川家の家督を継ぐことになったとき、義元の父・氏親の正室である彼女は、敢えて義元を養子にした。
外形上、義元を今川家の「正嫡」と位置付けるためである。
それだけの判断を下せるだけ、寿桂尼という女性は胆力もあり、賢くもあった。
そして彼女こそが、今川義元だけでなく、その子・今川氏真もが駿府から征旅に出られた理由である。
つまり――寿桂尼が留守を守ってくれるからこそ、義元と氏真は安心して駿府を留守にできた。
「義元さま。われら義元さまと共に……」
「ならぬ」
この時には、輿が下ろされ、義元は立ち上がっていた。
痛む足をこらえて。
大樹に寄りかかりながら、義元は言う。
「そなたらの役目は、輿を動かすこと。戦うことではない」
実に堂々たる態度であり、木綿藤吉などは大いに感服した。
これが天下を狙う男というものか――と。
*
「待たせたな」
義元は佩刀を抜いた。
銘、左文字。
のちに「義元左文字」として知られる、名刀である。
「己は……いや、予は今川治部大輔である。そなたらは」
政綱らは目配せしていたが、毛利新介が即座に名乗った。
「毛利新介。織田家一の武者、毛利新介」
義元が堂々と名乗った以上、新介としても、一の武者であることを堂々と示した。
「織田家一の武者」
義元はそう言って、やがて、くっくっと笑った。
「そういうことか……ふはは、織田信長、やってくれるわ。ここで一の武者を守りにではなく攻めに、こちらに寄越すとはな」
一の武者を使うことを読まれていたか、という悔しさはある。
だがそこまで読み合いができた、という悦びもあった。
「これよ……これこそが……己の求めていたものよ……そうか」
瘧のような笑いから一瞬、真顔になった義元は、あることに思い至った。
「そうか……これこそが、己の語り草だったのか」
腑に落ちたような表情をする義元に、とうとう痺れを切らしたのか、新介の横から、服部小平太が飛び出した。
「おれは服部小平太! 今川治部大輔、覚悟!」
新介は一瞬戸惑ったような顔をしたが、織田軍としても、一刻の猶予もないのは事実である。
今、この場において今川軍と織田軍は伯仲している。
その均衡も、いつ崩れるか、分からない。
松平元康や朝比奈泰朝が、いつ戻って来るか、分からない。
時を置いては、負ける。
「食らえ!」
小平太の裂帛の気合い。
それと共に繰り出される槍は、光と見紛う速さだ。
「…………」
義元が左文字を振るう。
かろうじて小平太の槍を弾く。
「……チイッ」
小平太の舌打ち。
木々の間の戦場では、軌道が読める槍は不利か。
小平太が槍を捨てようとした時。
その一瞬を。
「そこだ!」
左文字が襲う。
「何ッ」
小平太が思わず飛び、退る。
義元が、足の痛みをこらえながらも、大樹から一歩、前に出た。
左文字が小平太の足を払った。
「あがっ」
膝が割れた。
たまらず小平太がうめく。
「…………」
今だ。
そう、小平太の声が聞こえた気がした。
そう思った新介が飛ぶ。
前に出る。
そこには左文字を振り切って固まった義元。
新介は刀を捨てた。
「ぬっ」
一瞬の瞠目。
それで充分。
新介は義元に掴みかかった。
まるで猿のように。
蛇のように。
そして新介は体を捌いて、瞬時に義元の背後へ。
義元と、その背後の大樹の間へ。
小平太を斬るために出た、一歩の間合いの狭間へ。
「い、うッ」
義元の声が、意味をなさない。
だが驚愕を意味していることは分かった。
なぜなら……いつの間にか背後に回った新介が、その片腕が――義元の首に回っていたから。
「き、さまッ」
義元が左文字を後ろに回そうとするが、その手を毛利長秀が打った。
声にならない叫び。
左文字が落ちる。
新介のもうひとつの片腕に、脇差が。
「うぬううううッ」
無刀となった義元だが、ここで思わぬ反撃に出た。
自分の首に回った新介の手を、指を、噛んだ。
その黒い歯を鋸のように。
がりがりと齧り落としていく。
木綿はその姿に怖気を震った。
しかし驚異的なことに、新介はその指を齧り落とされながらも、眉ひとつ動かさない。
否、動いてはいた。
脇差をつかむ手が。
「今川治部大輔!」
「ぐ……があッ」
「覚悟!」
新介の脇差が奔る。
義元の血が迸る。
「お、お……ぐ」
新介の脇差が義元の喉を掻き切った。
義元は何事かを言いたいのか、口をぱくぱくと開閉した。
それを見た政綱は理解した。
読唇の術を身に付けていた政綱は理解した。
「伝えよ……見事也」
――と義元が言いたかったのを理解した。
そしてふと義元と目が合う。
少し驚いた顔をした。
そして微笑んで……倒れた。
永禄三年五月十九日。
桶狭間。
今川義元、散る。
享年、四十二歳。
その衝撃的な死は、やがてこの国の戦国という時代の終わりを告げる、「終わりの始まり」となるのだが、この時は誰も、知る由がなかった。
*
「……どうしてあんな顔をして、そして微笑んだのか」
思わず簗田政綱はそう口にする。
毛利新介は、今川義元の首を取っていた。
服部小平太は、毛利長秀の手当てを受けていた。
だから必然的にその問いは、木綿藤吉が受けることになった。
だが藤吉は造作もない、という風に答えた。
「おそらく――沓掛の城の酒宴の場に、政綱さまとそれがしを見たことを思い出したのでしょう」
「そうか」
たしかに酒を注がれていた。
昨日の出来事なのに、もう何年も昔の、遠い国の出来事のように思える。
「だが待て」
そこで政綱は、ある疑問に行き当たった。
「ならば何故、微笑んだのか」
「……そうまでして、われら織田が、織田信長さまが、己の首を取らんとしていたことに思いを致し、それで微笑んだのでしょう」
その少し前に、信長さまに「伝えよ」と言い、そして「見事」と言っていたではありませんか……と木綿は付け加えた。
お前も読唇の術が使えるのかと政綱が言うと、出来ないけれど何となくわかったと答えた。
「……一代の傑物でしたなぁ。妾腹に生まれ、寺に入れられて……それでも、機会を捉えて駿河の国主になった。隣国の国主を手玉に取って、河東を取り戻し……さらにその隣国を巻き込んで、三国にて同盟し……ついには尾張を、そして天下をと望まれた」
こういうお方は、なかなかいないのではないか。
それが木綿の今の気持ちだった。
そして思う。
いずれは自分も、このようなお方のような……。
そこまで思った時、木綿の思考は中断した。
今いるこの場、林の中の間道の向こうで。
喚声が上がったからである。
*
四宮左近は突如、胸騒ぎを覚えた。
何か大事なものが失われるような、そんな胸騒ぎをだ。
この感覚を味わう時、決まって左近にとって大事な僚将だったり、よく働く足軽だったり、目をかけている誰かが戦場に斃れるのだ。
「まさか……」
この期に及んで、老境になって、妻子もとうに亡い左近にとって、その感覚に値する人物と言えば。
「……隙あり!」
森可成の十文字槍が閃《ひらめ》く。
左近は渋い顔をして、素槍で受ける。
「かかずらわっている暇はない」
胸騒ぎはともかくも、後方で何かがおかしい。
兵らの動きに冴えがない。
輿舁きが逃げた、とか言っているのが聞こえる。
そうなれば一大事だ。
一体誰が義元の輿を運ぶのか。
「落ち着けい! 誰か、誰か義元さまの様子を……見て参れ!」
そこまで言った時だった。
今まで、守りに徹していた可成が動いた。
可成の槍が動いた。
「……食らえ!」
電光のように可成の十文字槍が舞った。
「しゃらくさい!」
これまでの左近の戦いぶりとは異なる、感情的な槍。
それは力強く十文字槍を弾き飛ばすも、その弾き飛ばした姿勢のまま、一瞬、固まってしまった。
「……………」
そこへ無言で可成のさらなる突き込みが。
「……くっ、この」
左近の戸惑いが、懸念が槍にあらわれ、槍がぶれる。
ぶれた槍の穂先を、器用に十文字槍の穂先が絡め取り……。
「……なっ」
絡め取った十文字槍は一回転。
回転に巻き込まれた素槍は、持ち主の左近の手を離れ、飛んでいく。
その茫然自失を。
十文字槍が下降。
「がっ」
避けようとした左近だったが、一瞬間に合わず、肩口から斜めに、袈裟斬り。
「……無、念」
溢れ出る自身の血の水たまりに突っ伏して、そのまま果ててしまった。
「……強かった」
可成もまた、死闘に次ぐ死闘に、膝をつきそうになる。
そこを織田信長と前田利家が両脇から支えた。
「大儀」
「やりましたな」
「……何とか」
常ならぬ素直な物言いが、可成の消耗を語っていた。
そこへ、今川の陣の奥の方から、大音声。
「今川治部大輔、織田家一の武者、毛利新介が討ち取ったり!」
「首級はここに!」
毛利新介が騎馬に乗って、今川兵を蹴散らすように駆けてくる。
その横を、毛利長秀が今川義元の首を掲げるように持って走っていた。
「ああっ」
「よ、義元さま!」
一の武者、四宮左近が斃れたところに、敬愛する主君である今川義元の首を見て、今川軍の将兵は完全に戦意を喪失した。
「に、逃げろ」
「大高か」
「ばか、沓掛だ」
今川軍の潰走が始まる。
だが信長は冷静にその光景を見すえていた。
「政綱」
「はい」
「大儀」
簗田政綱は木綿藤吉を伴って、膝を負傷した服部小平太を担いでやって来ていた。
それは今川義元の首級を持つ、毛利新介、毛利長秀らと距離を置き、目立たないようにするためでもあった。
そんな政綱がまず信長に言上したのは、義元の最後の言葉である。
「……見事、か」
「はい……」
信長はふと天を仰いだ。
そこに義元の顔が見えていたのかもしれない。
だがそれもすぐに終わり、政綱に言う。
「……今川の残りは逃げるそうだが、われらも逃げる。勝算は」
「今から、いち早くこの場から逃げるのであれば、おそらく」
脇で聞いていた木綿は、この戦場とその周辺のことを考える。
もし、今川軍に松井宗信や蒲原氏徳に匹敵する将領が生き残っていたら、と。
そして松平元康や朝比奈泰朝に連絡を取れば、と。
「今川軍は織田軍を圧倒している。今も。少なくとも兵力は」
今川軍を機能させる頭は斃した。
だが次なる頭がもし生えてきたら、どうなるだろう。
……あたかも、双頭の蛇の如く。
木綿が、凄い人たちだなと感心しつつ、自身も学ばねばと思っているところへ、新たな声が聞こえた。
「では帰りましょう、清州へ」
帰蝶が、へとへとになった明智十兵衛を励ましながら、そばに寄って来た。
「その、今川義元の首級を取ったことを高らかに宣言しつつ、清州へ帰りましょう」
そうすれば、今川軍は衝撃のあまり、固まる。
固まった隙に、清州へ戻る。
清州で立て直したあと、今川軍を攻める。
そしてさらにまた攻める、鳴海へ、大高へ、沓掛へと。
つまり今川領とされるところへ、攻め込むのだ。
織田が。
……帰蝶はそう言いたいのだ。
「……で、あるか」
気づくと、柴田勝家、河尻秀隆や林秀貞も集まりつつある。
彼らもまた、目的を遂げた以上、余計な色気を見せることは不要、去るのみと知る、有為の将であった。
「よし!」
信長は笑った。
このいくさのあとで、初めて見せた笑顔だったかもしれない。
「帰るぞ! 清州へ!」
信長が馬を馳せる。
帰蝶がつづく。
織田軍の将兵もつづく。
今や、雨はやみ、雲間から光が。
光射す尾張の山野。
光に照らされる中。
織田軍は、やって来た時と同じく、風のように。
風のように、去って行った。
桶狭間山中。
その山間の間道にて、簗田政綱、木綿藤吉、毛利新介、毛利長秀、服部小平太らは、ついに「その場所」に到達した。
その場所、つまり今川義元が隠れ潜んでいるその場所に着くと、義元は少し驚いた顔をしたが、「少し待て」と言って、扇に何事かをさらさらと書いて、輿の輿舁きの長に、それを手渡した。
「下ろせ。そしてその扇を持って、わが養母、寿桂尼の許へ行け。さすれば悪いようにはせぬはず」
義元の義母・寿桂尼。
側妾の子であった義元が花倉の乱を制して今川家の家督を継ぐことになったとき、義元の父・氏親の正室である彼女は、敢えて義元を養子にした。
外形上、義元を今川家の「正嫡」と位置付けるためである。
それだけの判断を下せるだけ、寿桂尼という女性は胆力もあり、賢くもあった。
そして彼女こそが、今川義元だけでなく、その子・今川氏真もが駿府から征旅に出られた理由である。
つまり――寿桂尼が留守を守ってくれるからこそ、義元と氏真は安心して駿府を留守にできた。
「義元さま。われら義元さまと共に……」
「ならぬ」
この時には、輿が下ろされ、義元は立ち上がっていた。
痛む足をこらえて。
大樹に寄りかかりながら、義元は言う。
「そなたらの役目は、輿を動かすこと。戦うことではない」
実に堂々たる態度であり、木綿藤吉などは大いに感服した。
これが天下を狙う男というものか――と。
*
「待たせたな」
義元は佩刀を抜いた。
銘、左文字。
のちに「義元左文字」として知られる、名刀である。
「己は……いや、予は今川治部大輔である。そなたらは」
政綱らは目配せしていたが、毛利新介が即座に名乗った。
「毛利新介。織田家一の武者、毛利新介」
義元が堂々と名乗った以上、新介としても、一の武者であることを堂々と示した。
「織田家一の武者」
義元はそう言って、やがて、くっくっと笑った。
「そういうことか……ふはは、織田信長、やってくれるわ。ここで一の武者を守りにではなく攻めに、こちらに寄越すとはな」
一の武者を使うことを読まれていたか、という悔しさはある。
だがそこまで読み合いができた、という悦びもあった。
「これよ……これこそが……己の求めていたものよ……そうか」
瘧のような笑いから一瞬、真顔になった義元は、あることに思い至った。
「そうか……これこそが、己の語り草だったのか」
腑に落ちたような表情をする義元に、とうとう痺れを切らしたのか、新介の横から、服部小平太が飛び出した。
「おれは服部小平太! 今川治部大輔、覚悟!」
新介は一瞬戸惑ったような顔をしたが、織田軍としても、一刻の猶予もないのは事実である。
今、この場において今川軍と織田軍は伯仲している。
その均衡も、いつ崩れるか、分からない。
松平元康や朝比奈泰朝が、いつ戻って来るか、分からない。
時を置いては、負ける。
「食らえ!」
小平太の裂帛の気合い。
それと共に繰り出される槍は、光と見紛う速さだ。
「…………」
義元が左文字を振るう。
かろうじて小平太の槍を弾く。
「……チイッ」
小平太の舌打ち。
木々の間の戦場では、軌道が読める槍は不利か。
小平太が槍を捨てようとした時。
その一瞬を。
「そこだ!」
左文字が襲う。
「何ッ」
小平太が思わず飛び、退る。
義元が、足の痛みをこらえながらも、大樹から一歩、前に出た。
左文字が小平太の足を払った。
「あがっ」
膝が割れた。
たまらず小平太がうめく。
「…………」
今だ。
そう、小平太の声が聞こえた気がした。
そう思った新介が飛ぶ。
前に出る。
そこには左文字を振り切って固まった義元。
新介は刀を捨てた。
「ぬっ」
一瞬の瞠目。
それで充分。
新介は義元に掴みかかった。
まるで猿のように。
蛇のように。
そして新介は体を捌いて、瞬時に義元の背後へ。
義元と、その背後の大樹の間へ。
小平太を斬るために出た、一歩の間合いの狭間へ。
「い、うッ」
義元の声が、意味をなさない。
だが驚愕を意味していることは分かった。
なぜなら……いつの間にか背後に回った新介が、その片腕が――義元の首に回っていたから。
「き、さまッ」
義元が左文字を後ろに回そうとするが、その手を毛利長秀が打った。
声にならない叫び。
左文字が落ちる。
新介のもうひとつの片腕に、脇差が。
「うぬううううッ」
無刀となった義元だが、ここで思わぬ反撃に出た。
自分の首に回った新介の手を、指を、噛んだ。
その黒い歯を鋸のように。
がりがりと齧り落としていく。
木綿はその姿に怖気を震った。
しかし驚異的なことに、新介はその指を齧り落とされながらも、眉ひとつ動かさない。
否、動いてはいた。
脇差をつかむ手が。
「今川治部大輔!」
「ぐ……があッ」
「覚悟!」
新介の脇差が奔る。
義元の血が迸る。
「お、お……ぐ」
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それを見た政綱は理解した。
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「そうか」
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「だが待て」
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「ならば何故、微笑んだのか」
「……そうまでして、われら織田が、織田信長さまが、己の首を取らんとしていたことに思いを致し、それで微笑んだのでしょう」
その少し前に、信長さまに「伝えよ」と言い、そして「見事」と言っていたではありませんか……と木綿は付け加えた。
お前も読唇の術が使えるのかと政綱が言うと、出来ないけれど何となくわかったと答えた。
「……一代の傑物でしたなぁ。妾腹に生まれ、寺に入れられて……それでも、機会を捉えて駿河の国主になった。隣国の国主を手玉に取って、河東を取り戻し……さらにその隣国を巻き込んで、三国にて同盟し……ついには尾張を、そして天下をと望まれた」
こういうお方は、なかなかいないのではないか。
それが木綿の今の気持ちだった。
そして思う。
いずれは自分も、このようなお方のような……。
そこまで思った時、木綿の思考は中断した。
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喚声が上がったからである。
*
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何か大事なものが失われるような、そんな胸騒ぎをだ。
この感覚を味わう時、決まって左近にとって大事な僚将だったり、よく働く足軽だったり、目をかけている誰かが戦場に斃れるのだ。
「まさか……」
この期に及んで、老境になって、妻子もとうに亡い左近にとって、その感覚に値する人物と言えば。
「……隙あり!」
森可成の十文字槍が閃《ひらめ》く。
左近は渋い顔をして、素槍で受ける。
「かかずらわっている暇はない」
胸騒ぎはともかくも、後方で何かがおかしい。
兵らの動きに冴えがない。
輿舁きが逃げた、とか言っているのが聞こえる。
そうなれば一大事だ。
一体誰が義元の輿を運ぶのか。
「落ち着けい! 誰か、誰か義元さまの様子を……見て参れ!」
そこまで言った時だった。
今まで、守りに徹していた可成が動いた。
可成の槍が動いた。
「……食らえ!」
電光のように可成の十文字槍が舞った。
「しゃらくさい!」
これまでの左近の戦いぶりとは異なる、感情的な槍。
それは力強く十文字槍を弾き飛ばすも、その弾き飛ばした姿勢のまま、一瞬、固まってしまった。
「……………」
そこへ無言で可成のさらなる突き込みが。
「……くっ、この」
左近の戸惑いが、懸念が槍にあらわれ、槍がぶれる。
ぶれた槍の穂先を、器用に十文字槍の穂先が絡め取り……。
「……なっ」
絡め取った十文字槍は一回転。
回転に巻き込まれた素槍は、持ち主の左近の手を離れ、飛んでいく。
その茫然自失を。
十文字槍が下降。
「がっ」
避けようとした左近だったが、一瞬間に合わず、肩口から斜めに、袈裟斬り。
「……無、念」
溢れ出る自身の血の水たまりに突っ伏して、そのまま果ててしまった。
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「首級はここに!」
毛利新介が騎馬に乗って、今川兵を蹴散らすように駆けてくる。
その横を、毛利長秀が今川義元の首を掲げるように持って走っていた。
「ああっ」
「よ、義元さま!」
一の武者、四宮左近が斃れたところに、敬愛する主君である今川義元の首を見て、今川軍の将兵は完全に戦意を喪失した。
「に、逃げろ」
「大高か」
「ばか、沓掛だ」
今川軍の潰走が始まる。
だが信長は冷静にその光景を見すえていた。
「政綱」
「はい」
「大儀」
簗田政綱は木綿藤吉を伴って、膝を負傷した服部小平太を担いでやって来ていた。
それは今川義元の首級を持つ、毛利新介、毛利長秀らと距離を置き、目立たないようにするためでもあった。
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「……見事、か」
「はい……」
信長はふと天を仰いだ。
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だがそれもすぐに終わり、政綱に言う。
「……今川の残りは逃げるそうだが、われらも逃げる。勝算は」
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脇で聞いていた木綿は、この戦場とその周辺のことを考える。
もし、今川軍に松井宗信や蒲原氏徳に匹敵する将領が生き残っていたら、と。
そして松平元康や朝比奈泰朝に連絡を取れば、と。
「今川軍は織田軍を圧倒している。今も。少なくとも兵力は」
今川軍を機能させる頭は斃した。
だが次なる頭がもし生えてきたら、どうなるだろう。
……あたかも、双頭の蛇の如く。
木綿が、凄い人たちだなと感心しつつ、自身も学ばねばと思っているところへ、新たな声が聞こえた。
「では帰りましょう、清州へ」
帰蝶が、へとへとになった明智十兵衛を励ましながら、そばに寄って来た。
「その、今川義元の首級を取ったことを高らかに宣言しつつ、清州へ帰りましょう」
そうすれば、今川軍は衝撃のあまり、固まる。
固まった隙に、清州へ戻る。
清州で立て直したあと、今川軍を攻める。
そしてさらにまた攻める、鳴海へ、大高へ、沓掛へと。
つまり今川領とされるところへ、攻め込むのだ。
織田が。
……帰蝶はそう言いたいのだ。
「……で、あるか」
気づくと、柴田勝家、河尻秀隆や林秀貞も集まりつつある。
彼らもまた、目的を遂げた以上、余計な色気を見せることは不要、去るのみと知る、有為の将であった。
「よし!」
信長は笑った。
このいくさのあとで、初めて見せた笑顔だったかもしれない。
「帰るぞ! 清州へ!」
信長が馬を馳せる。
帰蝶がつづく。
織田軍の将兵もつづく。
今や、雨はやみ、雲間から光が。
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関東管領の山内上杉と、扇谷上杉という関東の足利幕府の名門の「双つの杉」を倒す夢を祖父の代から受け継いだ、相模の獅子・北条新九郎氏康の奮戦がはじまる。
敵は家康
早川隆
歴史・時代
旧題:礫-つぶて-
【第六回アルファポリス歴史・時代小説大賞 特別賞受賞作品】
俺は石ころじゃない、礫(つぶて)だ!桶狭間前夜を駆ける無名戦士達の物語。永禄3年5月19日の早朝。桶狭間の戦いが起こるほんの数時間ほど前の話。出撃に際し戦勝祈願に立ち寄った熱田神宮の拝殿で、織田信長の眼に、彼方の空にあがる二条の黒い煙が映った。重要拠点の敵を抑止する付け城として築かれた、鷲津砦と丸根砦とが、相前後して炎上、陥落したことを示す煙だった。敵は、餌に食いついた。ひとりほくそ笑む信長。しかし、引き続く歴史的大逆転の影には、この両砦に籠って戦い、玉砕した、名もなき雑兵どもの人生と、夢があったのである・・・
本編は「信長公記」にも記された、このプロローグからわずかに時間を巻き戻し、弥七という、矢作川の流域に棲む河原者(被差別民)の子供が、ある理不尽な事件に巻き込まれたところからはじまります。逃亡者となった彼は、やがて国境を越え、風雲急を告げる東尾張へ。そして、戦地を駆ける黒鍬衆の一人となって、底知れぬ謀略と争乱の渦中に巻き込まれていきます。そして、最後に行き着いた先は?
ストーリーはフィクションですが、周辺の歴史事件など、なるべく史実を踏みリアリティを追求しました。戦場を駆ける河原者二人の眼で、戦国時代を体感しに行きましょう!
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吼えよ! 権六
林 本丸
歴史・時代
時の関白豊臣秀吉を嫌う茶々姫はあるとき秀吉のいやがらせのため自身の養父・故柴田勝家の過去を探ることを思い立つ。主人公の木下半介は、茶々の命を受け、嫌々ながら柴田勝家の過去を探るのだが、その時々で秀吉からの妨害に見舞われる。はたして半介は茶々の命を完遂できるのか? やがて柴田勝家の過去を探る旅の過程でこれに関わる人々の気持ちも変化して……。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
女の首を所望いたす
陸 理明
歴史・時代
織田信長亡きあと、天下を狙う秀吉と家康の激突がついに始まろうとしていた。
その先兵となった鬼武蔵こと森長可は三河への中入りを目論み、大軍を率いて丹羽家の居城である岩崎城の傍を通り抜けようとしていた。
「敵の軍を素通りさせて武士といえるのか!」
若き城代・丹羽氏重は死を覚悟する!
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