輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒

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第十七部 運命の時

92 決戦 後編

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 尾張。
 桶狭間山中。
 その山間の間道にて、簗田政綱やなだまさつな、木綿藤吉、毛利新介、毛利長秀、服部小平太らは、ついに「その場所」に到達した。
 その場所、つまり今川義元が隠れ潜んでいるその場所に着くと、義元は少し驚いた顔をしたが、「少し待て」と言って、扇に何事かをさらさらと書いて、輿の輿舁こしかきの長に、それを手渡した。

「下ろせ。そしてその扇を持って、わが養母はは寿桂尼じゅけいにもとへ行け。さすれば悪いようにはせぬはず」

 義元の義母・寿桂尼。
 側妾の子であった義元が花倉の乱を制して今川家の家督を継ぐことになったとき、義元の父・氏親の正室である彼女は、敢えて義元を養子にした。
 外形上、義元を今川家の「正嫡」と位置付けるためである。
 それだけの判断を下せるだけ、寿桂尼という女性は胆力もあり、賢くもあった。
 そして彼女こそが、今川義元だけでなく、その子・今川氏真もが駿府から征旅に出られた理由である。
 つまり――寿桂尼が留守を守ってくれるからこそ、義元と氏真は安心して駿府を留守にできた。

「義元さま。われら義元さまと共に……」

「ならぬ」

 この時には、輿が下ろされ、義元は立ち上がっていた。
 痛む足をこらえて。
 大樹に寄りかかりながら、義元は言う。

「そなたらの役目は、輿を動かすこと。戦うことではない」

 実に堂々たる態度であり、木綿藤吉などは大いに感服した。
 これが天下を狙う男というものか――と。



「待たせたな」

 義元は佩刀を抜いた。
 銘、左文字さもんじ
 のちに「義元左文字」として知られる、名刀である。

オレは……いや、予は今川治部大輔いまがわじぶだゆうである。そなたらは」

 政綱らは目配せしていたが、毛利新介が即座に名乗った。

「毛利新介。織田家いちの武者、毛利新介」

 義元が堂々と名乗った以上、新介としても、一の武者であることを堂々と示した。

「織田家いちの武者」

 義元はそう言って、やがて、くっくっと笑った。

「そういうことか……ふはは、織田信長、やってくれるわ。ここでいちの武者を守りにではなく攻めに、に寄越すとはな」

 いちの武者を使うことを読まれていたか、という悔しさはある。
 だがそこまで読み合いができた、というよろこびもあった。

よ……こそが……オレの求めていたものよ……そうか」

 おこりのような笑いから一瞬、真顔になった義元は、あることに思い至った。

「そうか……こそが、オレの語り草だったのか」

 腑に落ちたような表情をする義元に、とうとう痺れを切らしたのか、新介の横から、服部小平太が飛び出した。

「おれは服部小平太! 今川治部大輔、覚悟!」

 新介は一瞬戸惑ったような顔をしたが、織田軍としても、一刻の猶予もないのは事実である。
 今、この場において今川軍と織田軍は伯仲している。
 その均衡も、いつ崩れるか、分からない。
 松平元康や朝比奈泰朝が、いつ戻って来るか、分からない。
 時を置いては、負ける。

「食らえ!」

 小平太の裂帛れっぱくの気合い。
 それと共に繰り出される槍は、光と見紛みまごう速さだ。

「…………」

 義元が左文字を振るう。
 かろうじて小平太の槍を弾く。

「……チイッ」

 小平太の舌打ち。
 木々の間の戦場ここでは、軌道が読める槍は不利か。
 小平太が槍を捨てようとした時。
 その一瞬を。

「そこだ!」

 左文字が襲う。

「何ッ」

 小平太が思わず飛び、退すさる。
 義元が、足の痛みをこらえながらも、大樹から一歩、前に出た。
 左文字が小平太の足を払った。

「あがっ」

 膝が割れた。
 たまらず小平太がうめく。

「…………」

 今だ。
 そう、小平太の声が聞こえた気がした。
 そう思った新介が飛ぶ。
 前に出る。
 そこには左文字を振り切って固まった義元。
 新介は刀を捨てた。

「ぬっ」

 一瞬の瞠目。
 それで充分。
 新介は義元につかみかかった。
 まるでましらのように。
 蛇のように。
 そして新介はからださばいて、瞬時に義元の背後へ。
 義元と、その背後の大樹の間へ。
 小平太を斬るために出た、一歩の間合いの狭間はざまへ。

「い、うッ」

 義元の声が、意味をなさない。
 だが驚愕を意味していることは分かった。
 なぜなら……いつの間にか背後に回った新介が、その片腕が――義元の首に回っていたから。

「き、さまッ」

 義元が左文字を後ろに回そうとするが、その手を毛利長秀が打った。
 声にならない叫び。
 左文字が落ちる。
 新介のもうひとつの片腕に、脇差わきざしが。

「うぬううううッ」

 無刀となった義元だが、ここで思わぬ反撃に出た。
 自分の首に回った新介の手を、指を、
 その黒い歯をのこぎりのように。
 がりがりとかじり落としていく。
 木綿はその姿に怖気おぞけを震った。
 しかし驚異的なことに、新介はその指を齧り落とされながらも、眉ひとつ動かさない。
 否、動いてはいた。
 脇差をつかむ手が。

「今川治部大輔!」

「ぐ……があッ」

「覚悟!」

 新介の脇差がはしる。
 義元の血がほとばしる。

「お、お……ぐ」

 新介の脇差が義元の喉をき切った。
 義元は何事かを言いたいのか、口をぱくぱくと開閉した。
 それを見た政綱は理解した。
 読唇の術を身に付けていた政綱は理解した。

「伝えよ……見事也みごとなり

 ――と義元が言いたかったのを理解した。
 そしてふと義元と目が合う。
 少し驚いた顔をした。
 そして微笑んで……倒れた。

 永禄三年五月十九日。
 桶狭間。
 今川義元、散る。
 享年、四十二歳。
 その衝撃的な死は、やがてこの国の戦国という時代の終わりを告げる、「終わりの始まり」となるのだが、この時は誰も、知るよしがなかった。



「……どうしてあんな顔をして、そして微笑んだのか」

 思わず簗田政綱はそう口にする。
 毛利新介は、今川義元の首を取っていた。
 服部小平太は、毛利長秀の手当てを受けていた。
 だから必然的にその問いは、木綿藤吉が受けることになった。
 だが藤吉は造作もない、という風に答えた。

「おそらく――沓掛の城の酒宴の場に、政綱さまとそれがしを見たことを思い出したのでしょう」

「そうか」

 たしかに酒を注がれていた。
 昨日の出来事なのに、もう何年も昔の、遠い国の出来事のように思える。

「だが待て」

 そこで政綱は、ある疑問に行き当たった。

「ならば何故、微笑んだのか」

「……そうまでして、われら織田が、織田信長さまが、己の首を取らんとしていたことに思いを致し、それで微笑んだのでしょう」

 その少し前に、信長さまに「伝えよ」と言い、そして「見事」と言っていたではありませんか……と木綿は付け加えた。
 お前も読唇の術が使えるのかと政綱が言うと、出来ないけれど何となくわかったと答えた。

「……一代の傑物でしたなぁ。妾腹に生まれ、寺に入れられて……それでも、機会を捉えて駿河の国主になった。隣国の国主を手玉に取って、河東を取り戻し……さらにその隣国を巻き込んで、三国にて同盟し……ついには尾張を、そして天下をと望まれた」

 こういうお方は、なかなかいないのではないか。
 それが木綿の今の気持ちだった。
 そして思う。
 いずれは自分も、このようなお方のような……。
 そこまで思った時、木綿の思考は中断した。
 今いるこの場、林の中の間道の向こうで。
 喚声が上がったからである。



 四宮左近は突如、胸騒ぎを覚えた。
 何か大事なものが失われるような、そんな胸騒ぎをだ。
 この感覚を味わう時、決まって左近にとって大事な僚将だったり、よく働く足軽だったり、目をかけている誰かが戦場に斃れるのだ。

「まさか……」

 この期に及んで、老境になって、妻子もとうにい左近にとって、その感覚に値する人物と言えば。

「……隙あり!」

 森可成の十文字槍が閃《ひらめ》く。
 左近は渋い顔をして、素槍で受ける。

「かかずらわっている暇はない」

 胸騒ぎはともかくも、後方で何かがおかしい。
 兵らの動きにがない。
 輿舁きが逃げた、とか言っているのが聞こえる。
 そうなれば一大事だ。
 一体誰が義元の輿を運ぶのか。

「落ち着けい! 誰か、誰か義元さまの様子を……見て参れ!」

 そこまで言った時だった。
 今まで、守りに徹していた可成が動いた。
 可成の槍が動いた。

「……食らえ!」

 電光のように可成の十文字槍が舞った。

「しゃらくさい!」

 これまでの左近の戦いぶりとは異なる、感情的な槍。
 それは力強く十文字槍を弾き飛ばすも、その弾き飛ばした姿勢のまま、一瞬、固まってしまった。

「……………」

 そこへ無言で可成のさらなる突き込みが。

「……くっ、この」

 左近の戸惑いが、懸念が槍にあらわれ、槍が
 ぶれた槍の穂先を、器用に十文字槍の穂先がからめ取り……。

「……なっ」

 絡め取った十文字槍は一回転。
 回転に巻き込まれた素槍は、持ち主の左近の手を離れ、飛んでいく。
 その茫然自失を。
 十文字槍が下降。

「がっ」

 避けようとした左近だったが、一瞬間に合わず、肩口から斜めに、袈裟斬り。

「……無、念」

 あふれ出る自身の血の水たまりに突っ伏して、そのまま果ててしまった。

「……強かった」

 可成もまた、死闘に次ぐ死闘に、膝をつきそうになる。
 そこを織田信長と前田利家が両脇から支えた。

「大儀」

「やりましたな」

「……何とか」

 常ならぬ素直な物言いが、可成の消耗を語っていた。
 そこへ、今川の陣の奥の方から、大音声。

「今川治部大輔、織田家いちの武者、毛利新介が討ち取ったり!」

首級みしるしはここに!」

 毛利新介が騎馬に乗って、今川兵を蹴散らすように駆けてくる。
 その横を、毛利長秀が今川義元の首を掲げるように持って走っていた。

「ああっ」

「よ、義元さま!」

 一の武者、四宮左近が斃れたところに、敬愛する主君である今川義元の首を見て、今川軍の将兵は完全に戦意を喪失した。

「に、逃げろ」

「大高か」

「ばか、沓掛だ」

 今川軍の潰走が始まる。
 だが信長は冷静にその光景を見すえていた。

「政綱」

「はい」

「大儀」

 簗田政綱は木綿藤吉を伴って、膝を負傷した服部小平太をかついでやって来ていた。
 それは今川義元の首級を持つ、毛利新介、毛利長秀らと距離を置き、目立たないようにするためでもあった。
 そんな政綱がまず信長に言上したのは、義元の最後の言葉である。

「……見事、か」

「はい……」

 信長はふと天を仰いだ。
 そこに義元の顔が見えていたのかもしれない。
 だがそれもすぐに終わり、政綱に言う。

「……今川の残りは逃げるそうだが、われらも逃げる。勝算は」

「今から、いち早くこの場から逃げるのであれば、おそらく」

 脇で聞いていた木綿は、この戦場とその周辺のことを考える。
 もし、今川軍に松井宗信や蒲原氏徳に匹敵する将領が生き残っていたら、と。
 そして松平元康や朝比奈泰朝に連絡を取れば、と。

「今川軍は織田軍を圧倒している。今も。少なくとも兵力は」

 今川軍を機能させるは斃した。
 だが次なるがもし生えてきたら、どうなるだろう。
 ……あたかも、双頭の蛇の如く。
 木綿が、凄い人たちだなと感心しつつ、自身も学ばねばと思っているところへ、新たな声が聞こえた。

「では帰りましょう、清州へ」

 帰蝶が、へとへとになった明智十兵衛を励ましながら、そばに寄って来た。

「その、今川義元の首級を取ったことを高らかに宣言しつつ、清州へ帰りましょう」

 そうすれば、今川軍は衝撃のあまり、固まる。
 固まった隙に、清州へ戻る。
 清州で立て直したあと、今川軍を攻める。
 そしてさらにまた攻める、鳴海へ、大高へ、沓掛へと。
 つまり今川領とされるところへ、攻め込むのだ。
 織田が。
 ……帰蝶はそう言いたいのだ。

「……で、あるか」

 気づくと、柴田勝家、河尻秀隆や林秀貞も集まりつつある。
 彼らもまた、目的を遂げた以上、余計な色気を見せることは不要、去るのみと知る、有為の将であった。

「よし!」

 信長は笑った。
 こののあとで、初めて見せた笑顔だったかもしれない。

「帰るぞ! 清州へ!」

 信長が馬を馳せる。
 帰蝶がつづく。
 織田軍の将兵もつづく。
 今や、雨はやみ、雲間から光が。
 光射す尾張の山野。
 光に照らされる中。
 織田軍は、やって来た時と同じく、風のように。
 風のように、去って行った。
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