輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒

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第十七部 運命の時

91 決戦 中編

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「ちくしょう! 何だって言うんだ! 大船団あいつらは!」

 熱田沖。
 服部党・服部友貞は毒づいていた。
 あと少し。
 あと少しで、熱田への火矢による焼き討ちが奏功し、熱田への上陸を遂げるところだった。
 ところが。

「だから、何だってんだ! 大船団あいつらは!」

 突如、西から出現した大船団が、荒れる海をものともせずに服部党の船団に急接近、そのまま雨あられと矢を射かけてきた。
 荒れる海。
 そう、陸上と同じく、このあたりの海もまた、空は黒雲によって覆われ、ぽつりぽつりと、そして次第に次第にざあざあと、激しく雨が降り始めた。
 今や、荒れ狂う海を、だが自在に操船して近寄っては矢を放ち、そしてこちらから射返そうとすると離れる。

「くそっ!」

 服部友貞はやり場のない怒りに、舟板を蹴った。

「北条は、北条水軍は、何をしている!」

 手下どもは応戦に必死で返答はない。
 だが聞かなくとも分かっている。
 今、こうして服部党が苦戦している状況から、それは分かる。
 北条水軍は、様子見に徹しているのだ。

「……ふざ……けるな!」

 服部友貞はそう叫んだが、そもそも「手出し無用」と北条氏康に豪語したのは自分である。
 そうこうするうちに、今度は熱田の町から、図ったように弓が、中には鉄砲まで持ち出して、反撃が来た。

かしら! このままじゃ」

 危ない、と言おうとした手下の喉笛に矢が刺さり、そのまま水面へ落下し、海中に没した。
 服部友貞は、この日何度目のことか、また舟板を蹴った。

「ちくしょう!」

 憤懣やるかたないが、こうなっては致し方ない。
 このままでは、服部党という群れ自体が崩壊する。

「北条に! 北条に救援を求めろ! 早くしろ!」

 後ろにいる手下が「へい、ただいま」と返事をするのを聞きながら、服部友貞は目をらした。
 一体、あの大船団は何者なんだ。
 この辺の海で、あれほどの船を持つ海賊など、聞いたことがない。
 しかも、あの操船。
 としか言いようがないくらい、巧みだ。
 よほどの名の知れた海賊に相違ない。
 ということは。

「海賊同士の仁義にもとる……縄張り荒らしか!」

 服部友貞の、正体不明の大船団に対する評価は正当だったが、その目的についての推量はまったくの的外れであることを、このあと、知ることになる。

かしら! 北条が来やす!」

「やっとか」

 服部友貞を含む服部党が気を抜いたその瞬間。
 正体不明の大船団は、全軍でもって、突撃を開始した。

「しまったッ! 野郎、この時を!」

 北条水軍はまだ遠い。
 おそらく、今川氏真が乗船していることを口実に、慎重に行動しているのだろう。
 あるいは、その氏真自身の指示で、で乱取りをする服部党おれたちを、見捨てたか。
 そういった思考が頭に浮かんでは消える友貞の目に、敵船の旗印が見えた。

「一文字……三ツ星だと?」

 一体、どこの海賊だ。
 少なくとも、海道のあたりではない。
 向かってきた方角から、西海か。

かしら! 危ねえ!」

 舟と舟が激突する。
 正確には、敵の舟の舳先へさきが友貞の舟の横っ腹に突き刺さった。

「ぐわっ」

 友貞の舟が割れ、その割れたから、友貞は手下の船乗りらと共に、海中へと叩き込まれた。
 さすがに歴戦の海賊らしく、何とか立ち泳ぎをしながらこらえていたところを、ちょうどやって来た北条水軍の舟に救われた。



「派手にやられたな」

 まず聞かされたのは、その北条氏康の皮肉ともとれる一言である。
 服部友貞は、早く逆襲しろ、何をしていると怒鳴ったが、氏康は冷ややかに言い放った。

「……何しろおれは、攻めないと駄目な性質たちなんでね」

「…………」

 黙りこくった服部友貞をしり目に、氏康は正体不明の大船団を眺める。
 といっても、旗印は確認しているので、実は正体不明ではない。

義父上ちちうえ、どうしますか」

 横から今川氏真が言った。
 氏真にも「正体」は話してある。

「……退こう」

「……それは」

 氏真が心配げな表情を見せる。
 父・義元の命に背くこと。
 それによって氏康が不利益をこうむることを、危惧しているのだ。
 氏康は肩をすくめた。

「いや。戦場での判断にをつけるほど、お前さんの父親の器は小さくないよ。それにむしろ、今は退いた方が有利なんだ」

「それは、何ゆえ」

 氏真の問いを受けて、氏康は答える。
 黙りこくっている服部友貞にも聞こえるように。

「いいか。遥か西からわざわざやって来た連中だ。相応の覚悟ってもんがある。そいつにぶつかるなんて、愚の骨頂よ」

 戦国大名にとって、何らの利得にならないなど、害悪以外の何物でもない。
 それを敢えて犯してでも戦いに来たということは、必ずやり遂げるという強い意志がある。覚悟がある。

「当たるべからざる、といったところでしょうか」

「そうだ。そして……こちらが退くのならば、あちらも退こう」

「何でですか?」

 先ほどの説明と矛盾しているではないか。
 氏真はそう言った。
 これには氏康も、再び肩をすくめるしかない。

「連中の狙いは……織田を海から守ることにある。何故か? 連中は、服部党が熱田を攻めるまで、決して手出しをしなかった」

 服部友貞が口をにする。
 ちくしょうが、と言いたいのを飲み込んだらしい。

「付け加えて言うのなら……あの連中の大将は、無駄な戦いを避けるだろう」

 北条家おれたち相手には、特に。
 とまでは、氏康は言わなかった。
 かつて聞いた話である。
 氏康の父北条氏綱氏康の祖父北条早雲に聞いた話である。
 祖父は昔、思うところがあって安芸あきを旅していた。
 当時、出家していた祖父は、そこでひとりの若殿と出会う。
 若殿は持っていたはずの城を盗られ、追い出され、まるで同然に生活をしていた。
 ゆえに、若殿は若殿と呼ばれていた。
 祖父はその若殿を救った。
 正確には、若殿が自立する手助けをした。
 若殿はそれを恩義に感じ、名を隠していた祖父の居所を探り出し、お礼の書状を送って来たという。
 その若殿の名は多治比元就たんぴもとなり
 のちに、安芸の動乱の最中に斃れた兄と兄の子の衣鉢を継ぎ、こう名乗った。

 ――毛利元就、と



「父上、あの服部党とやらのうしろに大きな船の群れが」

「隆景よ、あれはおそらく北条家の水軍。下手な手出しは無用。遠ざかれ」

 かしこまったりと小早川隆景は、麾下の小早川水軍に、少し退くように命じた。
 荒れた海ではあるが、あの時の――「厳島いつくしまの戦い」の時の、夜の嵐の海に比べれば、大したことはない。
 自らの命が遺漏なく行われたことを確認した隆景は、父・毛利元就の方を見ると、両手を合わせて、拝んでいる姿が見えた。

「父上?」

「……ああいや、今日は何て日だ、隆景。新九郎どのへの恩返しだけでなく……への恩返しもできるとは」

 ふと、向こうの北条水軍の方を見ると、大将と思しき武将が、やはり手を合わせていた。

「あの旅僧……もしや、父上が若殿と呼ばれていた頃、父上を救ってくれた方の……あの方は」

「おそらく孫じゃ。そして祖父はあの旅僧、つまり伊勢宗瑞いせそうずい(北条早雲のこと)さまなのだろう……」

 毛利元就は、山崎屋お千宗易せんのそうえきからの訪問を受け、自らの初陣・有田中井手の戦いにおいて、その智恵と力で元就を助けた男・長井新九郎、すなわち斎藤道三の死を知った。
 その道三は最後の書状で元就に、「娘を助けて欲しい」と懇願していた。
 助言程度ならと思って、宗易とおの話を聞いていると、どうも話がちがう。もっと、具体的に助けて欲しいらしい。
 元就は宗易とおに、まずは道三の墓参をと言って、美濃行きを押し切った。
 そして元就は美濃の道三塚で出会った。
 他ならぬ道三の娘、帰蝶と。
 帰蝶は道三によく似ていた。
 帰蝶の語る、今川義元の「双頭の蛇」の策を聞き、膝を打った。
 帰蝶は、その智恵も道三によく似ていたからである。

 ……こうして、元就は水軍を出すことに決めた。
 道三の恩に報いるには、この「双頭の蛇」を見抜いた帰蝶を救うことこそが、最もふさわしいと判断したからだ。

 結果、元就は道三への恩に報い、かつ、早雲への恩にも報いるとことができた。



「あっ……北条水軍が退きます」

 元就率いる毛利水軍は撤退に入った。
 実は、事前に熱田には千宗易が入っている。
 服部党を撃破した以上、あとは宗易が何とかしてくれるだろうとの判断である。

「おさらばです、新九郎どの……おっと、北条の方も新九郎でしたな」

 ひとりで気づいて、ひとりで笑い、元就は息子である隆景の肩をたたいた。

「帰るぞ。われら、ここにいつまでもいるわけにはいかぬ」

「ええ……われら、としてもらうが、千宗易どのと山崎屋おどのとの約定やくじょう。この乱世、そして互いに大名同士、いずれはやり合うやもしれませぬがゆえに……」

「……そういうことだ」

 ……伝えられるところでは、服部党の服部友貞は熱田の町を焼き討ちし、だが町の人々からの逆襲に遭って退いたとされている。
 そこには毛利や北条のことは、何ひとつ記されていない。
 それは、元就と氏康が、そう望んだからかもしれない。
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