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第十七部 運命の時
90 決戦 前編
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織田信長はその目に今川軍を、今川義元を捉え駆けながらも、最後に指示を下すことは忘れなかった。
「よいか! 手はずどおりに! 手はずどおりに動くぞ! 首はいい! 余人の首など要らぬ! 取るは……今川義元の首ひとつ!」
信長は奔る。
帰蝶も奔る。
これまで、多くの苦労を重ねて来た。
時には、これでいいのかと迷うこともあった。
だが今「それでいい」と言ってくれた。
そんな気がした。
それは織田軍の将兵も皆、同様で、特に柴田勝家などは、憧れた平手政秀に倣い、こう叫ぶのだった。
「かかれえ!」
……と。
*
今川義元は輿に乗っていたから、それが分かった。
近づく敵の姿を。
遅れて聞こえてくる、馬蹄の轟きを。
そして「かかれ」と襲いかかって来るのを。
「迎え撃て!」
義元は輿を二回叩いて、反転。
事前に定めておいた合図である。
さすがに海道一の弓取りであり、その反応は速かった。
今川軍の残、三百の将兵もまた、反転して迎撃のかまえを取る。
「義元さま!」
護衛役の四宮左近が駆けよって来る。
「ここは先にお逃げ下さい。拙者の愛馬を差し上げまするので」
「馬には乗れぬ。知っていよう」
義元の足は傷んでいる。
とてもではないが、乗馬はかなわない。
「で、ですが、乗るだけでも。誰ぞに引っ張らせて……」
「くどい。さような真似をして、逃がしてくれる相手と思うか」
見よ、と扇で織田軍を指し示す。
織田木瓜の旗印が、早くも今川軍の先鋒に食い込んでいる。
「……その勢い、天魔の如し。ここは受けるの一手」
「しかし」
そこで義元はふっと笑った。
そして何も死に花を咲かせたいわけではないと言った。
「それにな、左近」
「何ですか」
「これは……好機ぞ。むしろ織田に勝つ好機でもある」
「な、何ゆえ」
そこで義元は意味ありげに耳に片手のひらを当てた。
すると聞こえてくる。
「織田上総介信長、見参! 今川治部大輔、いざ尋常に、尋常に勝負!」
どうやら信長は、先陣を切って今川軍に襲いかかっているらしい。
それは、今川軍と織田軍の激突のその場から聞こえた。
「やはりな。これほどのいくさ、織田の小倅……否、言い直そう、織田信長それ自身が出てくるはず。さすがは……さすがは織田信秀の子ぞ。平手政秀の子ぞ」
褒めているわりには、義元は人の悪い笑顔を浮かべる。
左近は何故笑うのかと考え、そして思い至った。
「……まさか」
「そう、そのまさかじゃ」
義元はにたりと笑った。
左近は、今さらながらに自身の主の恐ろしさを思い知った。
「頼むぞ左近。征け。そして織田信長の首を、取って参れ」
「……承知つかまつりました」
この危機に遭ってなお、それを逆手にとって、勝ちをつかもうとする、その姿勢。その智嚢。
それに敬服して頭を下げ、左近は戦場に向かった。
今川家一の武者、四宮左近。
敢えて彼を護衛役にしていたのは、このような事態に備えてである。
それが海道一の弓取り、今川義元、最後の秘策。
……だがそれすらも、織田信長に読まれているとは、この時、義元と左近には、知る由もなかった。
*
今川軍三百騎は死兵と化した。
死兵とはこの場合、死を覚悟した兵のことである。
「義元さまを守り参らせよ!」
「死守だ! 死守すれば! 松平か朝比奈が来る!」
兵たちを支えるのは、今川義元さえ生き残れば、あとは何とかなるという思いである。
義元さえ逃げ延びれば、松平元康や朝比奈泰朝の兵がかけつける。そして勝利する。
自分たちの残された妻子のことなら、きっと義元が何とかしてくれる。
それだけの兵からの信頼が、義元にはあった。
「さすがは海道一の弓取りよ。そしてその兵たちよ。一筋縄ではいかぬ……やはり」
信長は自ら刀を振るって、今川三百騎の先鋒と斬り結んでいる。
その脇には帰蝶が弓をかまえて、遠くから射かける敵を、逆に射返している。
「十兵衛! 次はどこからですか!」
「あっちや! もうちぃと右の方や!」
明智十兵衛が、その目で見て、帰蝶に指示する。
十兵衛は二つ玉を撃った衝撃と、これまでの疲労で、もはや得物は持てない。
だが、その最大の武器である目で以て、帰蝶の弓射を支えていた。
「お方さまと十兵衛どのにのみ、やらせておらりょうか! かかれ!」
柴田勝家が槍をしごいて突進する。つづく勝家の兵も喚き声を上げて、今川軍に突っ込んだ。
これには今川軍もたまらず、後退を余儀なくされる。
このまま押してやる、と勝家がさらに「かかれ」と叫ぼうとした時だった。
「……見事な攻めだ」
場が冷え込む。
空気が変わる。
今川軍の中から、その兵が自ら避けるようにして、道を開けた。
今川家一の武者、四宮左近の道を。
「参る」
四宮左近は余計なことは言わない。
今川義元、最後の秘策――織田信長の首。
それを悟られてはならないという思惑ではなく、四宮左近の流儀がそうであるからだ。
余計なことは口にせず、ただひたすらに、ひたぶるに。
狙った獲物を確実に仕留める。
それが、四宮左近の流儀。
それが、左近が一の武者たる所以。
「いざ」
左近が奔る。
信長に向かって。
その速さは、誰より速く。
止められる者など、ありやしない。
そう――思われた。
「お覚悟」
左近の背にある素槍が閃く。
背から前へ。
素早く弧を描くそれは、信長の首筋に迫って。
「……何ッ」
静止した。
素槍が静止した。
横合いから、鋭く突き出た、十文字槍によって。
がぎいん、と。
金属的な衝突音が、今になって、聞こえる。
「さすがは、今川の一の武者」
十文字槍の持ち主は、その槍を持つ手がまだ衝撃に震える中、強引に前へと突き出した。
「……くっ、まだ震える。大したもんだ、四宮左近」
「お前は」
十文字槍を握る、自らの手をがぶりと噛みながら、その武者は名乗った。
「われこそは……森三左衛門可成。四宮左近、わが主の首が欲しくば、まずおれを倒せい!」
「貴公があの『攻めの三左』か、だが邪魔だ。そこをどけ」
左近は好敵来たりと喜ぶ男ではない。そういう流儀ではない。
この時もただ、森可成を障害物と認識し、排除をのみ、思った。
「フン、噂どおりのつれない男だ……が、言われて素直に退く森三左ではないわ!」
森可成は四宮左近のその流儀を好ましく思ったが、それと信長に命じられた策とは、また別である。
そして可成は、信長に命じられたとおりに、派手に左近と戦う。
「さあ、いざ尋常に勝負! 通りたければ、己が力で通るが良いわ!」
「……ではそうさせていただく」
左近の正確無比な素槍が突きだされる。
可成は十文字槍を器用に動かして、その突きをいなす。
左近は特に残念がることもなく、二の突き、三の突きと繰り出してくる。
その都度、可成の十文字槍が小刻みに動いて、突きを弾き飛ばす。
「……ぐっ、言うだけあって、今川の一の武者は、いちいち槍が重い!」
「厭ならそこをどけ」
「くっ……この……」
四宮左近が徐々に森可成を押していく。
この左近の戦いぶりに、今川軍も勢いづいて、柴田勝家らを押し返していく。
林秀貞などは、そのあまりの激しさに、一時撤退をしたほどだ。
だが信長は動かない。
それは森可成を信頼しているということもあるが、ある狙いがあったからである。
「……妙だぞ」
そのささやきは、今や余裕が生じて来た、今川軍の兵からのものだった。
「妙って、何だ」
その兵の隣の兵が、槍を振るいながら聞き返す。
「だってお前……よく考えたら織田の一の武者って、佐々孫介だろ」
「あほか。ありゃ死んだ」
かつての織田家の一の武者、佐々孫介は稲生の戦いで死んだ。
それを知らないのか、と言いたげな口ぶりだった。
だが最初にささやいた兵は首をかしげた。
「じゃあ……今の織田の一の武者って……誰だ?」
「誰って……」
そこで会話は中断した。
織田家の河尻秀隆が林秀貞に代わって、攻勢に出たからである。
……もしこの場に、津々木蔵人なり松平元康なりがいれば、先ほどの会話に違和感を感じたかもしれない。
四宮左近。
武神ともいうべき一の武者だが、その武に徹するあまり、余計なことをしないという流儀のあまり、その辺のことを捨象するきらいがあった。
*
「こちらです。お早く」
事前に簗田政綱が今川軍に小者として埋伏させておいた手下が――老爺が誘う。
木綿藤吉が老爺の出自を問うと、平手家の従僕で、平手政秀麾下の足軽だったという。
それでは仇を取りたいか、と木綿が気を利かせると、老爺は首を振った。
「最初は仇を取りたいと思いましたが、不思議なもので――」
今川義元は、それはそれはおおらかな人物で、老爺にも偶さかに酒を賜り、共に痛飲したという。
「もし仮に――平手さまより先に今川さまに出会うておりましたなら、わしはあなたさまがたに、刀を向けておりましょう」
それだけの魅力を具えている人物だったという。
ですが、めぐり合わせが悪しゅうございましたな、と老爺は言った。
その老爺が指し示す、桶狭間山の間道に、輿が見えた。
「何でも、足を痛めていると言って、寄りかかる大樹があった方が戦いやすいと」
義元の凄まじいところは、このような状況においても、自ら戦うことを期して、かように動くことにある。
それは――四宮左近が、命じた獲物を獲って来るまでは生き延びようとする、獣としての本能か。
あるいは――左近が心置きなく戦えるよう、という将としての気遣いか。
「よし。追おう」
政綱が間道を見て、手ぶりで後方に控えた三人を呼んだ。
その三人、すなわち、毛利新介、毛利長秀、そして服部小平太は、無言で政綱のそばにきて、やはり無言で間道の奥を見た。
「行くぞ」
政綱がまず間道に入る。
だがすぐ振り返って、老爺に言った。
「お前はここで待て。ここまででいい」
「それは」
「仮の主従とはいえ、思うところはあろう。ここまででいい」
老爺は、ほっとしたような表情をしたが、誰もそれを咎めなかった。
「よいか! 手はずどおりに! 手はずどおりに動くぞ! 首はいい! 余人の首など要らぬ! 取るは……今川義元の首ひとつ!」
信長は奔る。
帰蝶も奔る。
これまで、多くの苦労を重ねて来た。
時には、これでいいのかと迷うこともあった。
だが今「それでいい」と言ってくれた。
そんな気がした。
それは織田軍の将兵も皆、同様で、特に柴田勝家などは、憧れた平手政秀に倣い、こう叫ぶのだった。
「かかれえ!」
……と。
*
今川義元は輿に乗っていたから、それが分かった。
近づく敵の姿を。
遅れて聞こえてくる、馬蹄の轟きを。
そして「かかれ」と襲いかかって来るのを。
「迎え撃て!」
義元は輿を二回叩いて、反転。
事前に定めておいた合図である。
さすがに海道一の弓取りであり、その反応は速かった。
今川軍の残、三百の将兵もまた、反転して迎撃のかまえを取る。
「義元さま!」
護衛役の四宮左近が駆けよって来る。
「ここは先にお逃げ下さい。拙者の愛馬を差し上げまするので」
「馬には乗れぬ。知っていよう」
義元の足は傷んでいる。
とてもではないが、乗馬はかなわない。
「で、ですが、乗るだけでも。誰ぞに引っ張らせて……」
「くどい。さような真似をして、逃がしてくれる相手と思うか」
見よ、と扇で織田軍を指し示す。
織田木瓜の旗印が、早くも今川軍の先鋒に食い込んでいる。
「……その勢い、天魔の如し。ここは受けるの一手」
「しかし」
そこで義元はふっと笑った。
そして何も死に花を咲かせたいわけではないと言った。
「それにな、左近」
「何ですか」
「これは……好機ぞ。むしろ織田に勝つ好機でもある」
「な、何ゆえ」
そこで義元は意味ありげに耳に片手のひらを当てた。
すると聞こえてくる。
「織田上総介信長、見参! 今川治部大輔、いざ尋常に、尋常に勝負!」
どうやら信長は、先陣を切って今川軍に襲いかかっているらしい。
それは、今川軍と織田軍の激突のその場から聞こえた。
「やはりな。これほどのいくさ、織田の小倅……否、言い直そう、織田信長それ自身が出てくるはず。さすがは……さすがは織田信秀の子ぞ。平手政秀の子ぞ」
褒めているわりには、義元は人の悪い笑顔を浮かべる。
左近は何故笑うのかと考え、そして思い至った。
「……まさか」
「そう、そのまさかじゃ」
義元はにたりと笑った。
左近は、今さらながらに自身の主の恐ろしさを思い知った。
「頼むぞ左近。征け。そして織田信長の首を、取って参れ」
「……承知つかまつりました」
この危機に遭ってなお、それを逆手にとって、勝ちをつかもうとする、その姿勢。その智嚢。
それに敬服して頭を下げ、左近は戦場に向かった。
今川家一の武者、四宮左近。
敢えて彼を護衛役にしていたのは、このような事態に備えてである。
それが海道一の弓取り、今川義元、最後の秘策。
……だがそれすらも、織田信長に読まれているとは、この時、義元と左近には、知る由もなかった。
*
今川軍三百騎は死兵と化した。
死兵とはこの場合、死を覚悟した兵のことである。
「義元さまを守り参らせよ!」
「死守だ! 死守すれば! 松平か朝比奈が来る!」
兵たちを支えるのは、今川義元さえ生き残れば、あとは何とかなるという思いである。
義元さえ逃げ延びれば、松平元康や朝比奈泰朝の兵がかけつける。そして勝利する。
自分たちの残された妻子のことなら、きっと義元が何とかしてくれる。
それだけの兵からの信頼が、義元にはあった。
「さすがは海道一の弓取りよ。そしてその兵たちよ。一筋縄ではいかぬ……やはり」
信長は自ら刀を振るって、今川三百騎の先鋒と斬り結んでいる。
その脇には帰蝶が弓をかまえて、遠くから射かける敵を、逆に射返している。
「十兵衛! 次はどこからですか!」
「あっちや! もうちぃと右の方や!」
明智十兵衛が、その目で見て、帰蝶に指示する。
十兵衛は二つ玉を撃った衝撃と、これまでの疲労で、もはや得物は持てない。
だが、その最大の武器である目で以て、帰蝶の弓射を支えていた。
「お方さまと十兵衛どのにのみ、やらせておらりょうか! かかれ!」
柴田勝家が槍をしごいて突進する。つづく勝家の兵も喚き声を上げて、今川軍に突っ込んだ。
これには今川軍もたまらず、後退を余儀なくされる。
このまま押してやる、と勝家がさらに「かかれ」と叫ぼうとした時だった。
「……見事な攻めだ」
場が冷え込む。
空気が変わる。
今川軍の中から、その兵が自ら避けるようにして、道を開けた。
今川家一の武者、四宮左近の道を。
「参る」
四宮左近は余計なことは言わない。
今川義元、最後の秘策――織田信長の首。
それを悟られてはならないという思惑ではなく、四宮左近の流儀がそうであるからだ。
余計なことは口にせず、ただひたすらに、ひたぶるに。
狙った獲物を確実に仕留める。
それが、四宮左近の流儀。
それが、左近が一の武者たる所以。
「いざ」
左近が奔る。
信長に向かって。
その速さは、誰より速く。
止められる者など、ありやしない。
そう――思われた。
「お覚悟」
左近の背にある素槍が閃く。
背から前へ。
素早く弧を描くそれは、信長の首筋に迫って。
「……何ッ」
静止した。
素槍が静止した。
横合いから、鋭く突き出た、十文字槍によって。
がぎいん、と。
金属的な衝突音が、今になって、聞こえる。
「さすがは、今川の一の武者」
十文字槍の持ち主は、その槍を持つ手がまだ衝撃に震える中、強引に前へと突き出した。
「……くっ、まだ震える。大したもんだ、四宮左近」
「お前は」
十文字槍を握る、自らの手をがぶりと噛みながら、その武者は名乗った。
「われこそは……森三左衛門可成。四宮左近、わが主の首が欲しくば、まずおれを倒せい!」
「貴公があの『攻めの三左』か、だが邪魔だ。そこをどけ」
左近は好敵来たりと喜ぶ男ではない。そういう流儀ではない。
この時もただ、森可成を障害物と認識し、排除をのみ、思った。
「フン、噂どおりのつれない男だ……が、言われて素直に退く森三左ではないわ!」
森可成は四宮左近のその流儀を好ましく思ったが、それと信長に命じられた策とは、また別である。
そして可成は、信長に命じられたとおりに、派手に左近と戦う。
「さあ、いざ尋常に勝負! 通りたければ、己が力で通るが良いわ!」
「……ではそうさせていただく」
左近の正確無比な素槍が突きだされる。
可成は十文字槍を器用に動かして、その突きをいなす。
左近は特に残念がることもなく、二の突き、三の突きと繰り出してくる。
その都度、可成の十文字槍が小刻みに動いて、突きを弾き飛ばす。
「……ぐっ、言うだけあって、今川の一の武者は、いちいち槍が重い!」
「厭ならそこをどけ」
「くっ……この……」
四宮左近が徐々に森可成を押していく。
この左近の戦いぶりに、今川軍も勢いづいて、柴田勝家らを押し返していく。
林秀貞などは、そのあまりの激しさに、一時撤退をしたほどだ。
だが信長は動かない。
それは森可成を信頼しているということもあるが、ある狙いがあったからである。
「……妙だぞ」
そのささやきは、今や余裕が生じて来た、今川軍の兵からのものだった。
「妙って、何だ」
その兵の隣の兵が、槍を振るいながら聞き返す。
「だってお前……よく考えたら織田の一の武者って、佐々孫介だろ」
「あほか。ありゃ死んだ」
かつての織田家の一の武者、佐々孫介は稲生の戦いで死んだ。
それを知らないのか、と言いたげな口ぶりだった。
だが最初にささやいた兵は首をかしげた。
「じゃあ……今の織田の一の武者って……誰だ?」
「誰って……」
そこで会話は中断した。
織田家の河尻秀隆が林秀貞に代わって、攻勢に出たからである。
……もしこの場に、津々木蔵人なり松平元康なりがいれば、先ほどの会話に違和感を感じたかもしれない。
四宮左近。
武神ともいうべき一の武者だが、その武に徹するあまり、余計なことをしないという流儀のあまり、その辺のことを捨象するきらいがあった。
*
「こちらです。お早く」
事前に簗田政綱が今川軍に小者として埋伏させておいた手下が――老爺が誘う。
木綿藤吉が老爺の出自を問うと、平手家の従僕で、平手政秀麾下の足軽だったという。
それでは仇を取りたいか、と木綿が気を利かせると、老爺は首を振った。
「最初は仇を取りたいと思いましたが、不思議なもので――」
今川義元は、それはそれはおおらかな人物で、老爺にも偶さかに酒を賜り、共に痛飲したという。
「もし仮に――平手さまより先に今川さまに出会うておりましたなら、わしはあなたさまがたに、刀を向けておりましょう」
それだけの魅力を具えている人物だったという。
ですが、めぐり合わせが悪しゅうございましたな、と老爺は言った。
その老爺が指し示す、桶狭間山の間道に、輿が見えた。
「何でも、足を痛めていると言って、寄りかかる大樹があった方が戦いやすいと」
義元の凄まじいところは、このような状況においても、自ら戦うことを期して、かように動くことにある。
それは――四宮左近が、命じた獲物を獲って来るまでは生き延びようとする、獣としての本能か。
あるいは――左近が心置きなく戦えるよう、という将としての気遣いか。
「よし。追おう」
政綱が間道を見て、手ぶりで後方に控えた三人を呼んだ。
その三人、すなわち、毛利新介、毛利長秀、そして服部小平太は、無言で政綱のそばにきて、やはり無言で間道の奥を見た。
「行くぞ」
政綱がまず間道に入る。
だがすぐ振り返って、老爺に言った。
「お前はここで待て。ここまででいい」
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