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第十六部 決戦の地

86 開戦

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「頼みがある」

 畿内の訛りのその声は、明智十兵衛によるものだった。
 十兵衛は千秋季忠、佐々政次を今川軍との前哨戦で失ったことを気にしていた。
 当初、織田信長は十兵衛にを演じてもらったあと、この中嶋砦の副将格として、守将である梶川高秀を支えてもらおうと思っていた。
 明智十兵衛はそもそも美濃の人であり、尾張のに、そこまで傾注することは無い。
 そういう、信長の気遣いであった。

らぬお世話や」

 だが十兵衛はそう断言して、今度は帰蝶に頭を下げた。

「頼む。頼んます。この大一番、大殿、斎藤道三入道の真の仇、今川義元を討つこの大。何としても合力ごうりきしたいんや」

「……許します」

 帰蝶にそう言われると、信長としても返す言葉が無い。
 明智十兵衛は、元々、美濃の人にして、斎藤家の臣である。
 つまり、斎藤家を家督した斉藤利治こと帰蝶が許せば、信長としては何も言えない。

「……それだけやないで。こうなった以上、織田の殿サンにも……否、殿のためにも尽くすつもりや。遠慮う命じたってや」

「よかろう」

 信長がそう言うと、十兵衛は勇躍して火縄銃を片手に馬に乗った。



「……では、よいな」

 信長が言うと、乗馬している者も、徒歩かちでいる者も、皆、一様いちようにうなずいた。
 信長もうなずく。

「……開門!」

 ぎぎ、という音がして、門が開く。
 開けた先は、嵐の吹きすさぶ、豪雨の渦中だ。

「よいか! 狙うは今川義元の首ひとつ! これから征く先には、今川の兵がところどころにたむろしていよう。だがそれらをくぐり抜け、桶狭間山のにいるという、今川義元を討ち取るのじゃ」

 簗田政綱と木綿藤吉は、ある程度の推測で今川義元の本陣を導き出していたが、直接その目で見て確認したわけではない。
 熱田の焼き討ちや、松平元康あるいは朝比奈泰朝の合流を考えると、ぎりぎりといえる時間まで粘ったのだが、やはりそこまではかなわなかった。
 だが、将兵らの会話や、その陣取り、そして地図と現場での高所の確認から、大体およその場所の見当をつけるまでは至った。

「……義元の本陣に着くまでは、全員、一丸となって攻める。そして本陣に、輿こしを見つけたら、に動け。では、征くぞ!」

 横殴りの「石水混じり」の雨の中。
 信長が吶喊とっかんする。
 つづく、帰蝶、森可成、河尻秀隆、林秀貞、柴田勝家、明智十兵衛、簗田政綱、毛利新介、毛利長秀、木綿藤吉、服部小平太らも、おめき声を上げて雨中へと突入した。
 追っ手飛び出た兵も含め、彼らの共通する思いは、ひとつである。

「のちの世に、語り草となるをするべき時は今」

 織田軍、二千。
 中嶋砦から出陣し、一路、桶狭間山へ。

 ……この国の伝説となる戦いが、今、始まる。



 桶狭間。
 今川軍本陣。
 津々木蔵人は、今川義元の護衛役・四宮左近に「密で」と言われ、本陣の最奥、義元の居所へと忍んで入った。

「よう、来た」

 迎え入れた義元は、まだ、輿から下りていない。
 今もまだ、の最中である。
 その姿勢を、輿に乗ることで如実に示していた。
 だがその顔は、苦痛に歪んでいた。

「ど、どうなされた」

「何の、何の……その、アレよ、例の落馬の時の、アレよ」

「まさか」

 蔵人は臍を噛んだ。
 元・尾張守護にして、輿の「前の持ち主」、斯波義銀しばよしかね
 その義銀の仕掛けた悪戯いたずらにより、義元は落馬した。
 その落馬を奇貨として、義元は豁然大悟かつねんたいごするに至るのだが、それはそれとして、肉体上の損傷として、足を挫いてしまった。
 精神が肉体を凌駕した豁然大悟により、その「きず」から回復、あるいは痛みは減じたと思っていたが。

「さすがに……こう、一昼夜を経ると、さすがに、わ」

 義元の足は、赤黒く腫れていた。
 これでは、戦場で満足に戦えない。

「いやいや……いくら何でも、そうなったら、オレとて戦うわ。戦場では、いつ何時、どんなことがあろうと、戦わねばならぬし、の」

 そう強がる義元を見て、蔵人は思い出すものがあった。

「もしや」

 出陣前の、沓掛城内での散策。
 あれで、義元は人糞を踏んでしまうという粗相を犯したが。
 それは。
 あの時、すでに義元の足は。
 言ってくれれば、出陣は取りやめ、あるいは延ばしたのに。

「いやいや」

 義元はそれを否定する。
 そして言う。
 には波というものがある。
 流れというものがある。

「それを……オレひとりの都合で止めるなど、できようか。できようはずがあるまい?」

 そうだ。
 そういう男だった、今川義元という男は。

「しかし……いささか痛い。薬師くすしに膏薬をもらうにしても、将兵に感づかれても困る」

 将兵というのは、大将の些細なことでも気になるものだ。
 ましてや、怪我となると、士気に関わる。
 また今、今川軍には織田の間者が紛れ込んでいる可能性が高い。
 足を挫いたことを知られてはいるだろうが、それがここまで悪化していると悟られたら、どうなるか。

輿こしというのが幸いした。とにかく、痛み止めをして、それでこの雨がやんできたら、すぐに大高城に入ろう」

 これが馬であれば、誰かにおぶってもらう羽目になったろうが、今は斯波義銀から分捕った輿である。
 輿ならば、その上で座っていればよい。
 そしてそのためには。

「そこでじゃ、蔵人。土地鑑のある汝を密かに呼んだのは、このため……太原雪斎の師より、薬草の手ほどきは受けていようの?」

「……はい」

 薬師にも察せられないように痛み止めを得るためには。
 この桶狭間山に自生する薬草を摘んでくるほかない。
 土地鑑と薬草の知識という面で、津々木蔵人は最適な人材だった。
 ……義元の足の状態の秘匿という面でも。

「安んじてお任せあれ。今少しお待ちいただければこの蔵人、痛み止めの薬草を手に入れて参りましょう」

「頼むぞ。酒宴の主役にこんなことを任せるのは心苦しいが、今は一刻も早く、痛み止めが欲しい」

「承知。では、御免!」

 蔵人はもはやそれ以上、語る時間すら惜しいとばかりに、飛び出していった。
 途中、服部正成とすれ違ったが、「火急の件につき」と強引に振り切った。
 正成は有意の武者だが、松平家の者だ。
 いくら何でも、義元の足のことを洩らすわけにはいかない。

 ……遠くで雷が轟いていた。



 織田軍は今川軍のある部隊を捕捉していた。
 織田信長は、簗田政綱と木綿藤吉からある程度の今川義元の本陣の推測を首肯し、そこからさらに本陣の場所を特定するために、ある策を思いついていた。

「まず、今川のへ行く先にある、この先の誰ぞの陣、じゃ、それを叩く。叩いて、逃げて行く先を追う」

 そこで物見を放って探らせたところ、山の中腹に、ちょうど休んでいる一部隊を発見した。

「どんな様子か」

「酒量は少なめ。しかし、こちら側に何やら柵を設けている様子」

「柵か」

 信長も自ら木陰から覗くと、確かに簡素ながらに柵が設置されていた。

「故・太原雪斎の教えか。休むときにも油断なく、か」

 だがここを突破しないことには、今川義元のいる本陣に至るなど、夢のまた夢。
 もうすぐ雨が止む。
 雨が止んだら、それこそ視界が広がって、このような奇襲などできないであろう。
 猶予は無い。

「……よし。十兵衛」

「何や」

 信長は明智十兵衛を小声で呼び寄せ、十兵衛の背の、こもで包まれた火縄銃を指で弾いた。

「お前の火縄を、おれにれ」

「な、何言うとるんや、火縄を撃て言うんなら、わいが撃つわ」

「そうではない」

 信長は懐中からを取り出して、十兵衛に見せた。
 そのとは――紙で包まれた鉄砲の玉で、包まれた弾丸は二つ――つまり、ふただまだった。
 それは、橋本一巴はしもといっぱが最期に信長に渡した、二つ玉である。

「こ、これは……一巴はんが死ぬ前に……そ、それを」

「そうだ。これあるを期して……というわけではないが、いざという時、使え、ということなのだろう」

 そして二つ玉の威力は凄まじく、おそらく発射した火縄銃はしまい、二度と使い物にならなくなるだろう。
 下手をすると、火縄銃の発射中に爆発して、射手の身も危ない。

「だから」

 十兵衛の火縄銃を呉れと言っているのだ。
 信長自身がその暴発の危険を冒し、かつ、その火縄銃を駄目にしてしまう腹づもりである。

「何言うとるんや」

 十兵衛はその手を差し出した。
 二つ玉をれ、と言っているらしい。

「わいはもう……殿サンに仕えるゥ言ってるんやで、遠慮は不要。その二つ玉で撃てェ言えばええねん。さあ」

「……頼む」

 信長と十兵衛が、敵陣をうかがうこの木陰は、ちょうど雨風を防いでいる。
 火縄銃を放つには、良いであった。

「ええか、わいはこのから二つ玉を撃つ。ほしたら、や。わいがかまへん。そん時ゃ、んやで」

「……分かった」

 信長は身振りで主だった将を呼び寄せる。

「来よ。そして今のやり取りで分かったな。今から十兵衛が敵の柵を玉は二つ玉。柵は吹っ飛んで壊れよう……そこを征く。分かったな」

 諸将がうなずいて、それぞれ最適の配置につく。
 何も言葉を交わさないが、普段の稽古げいこ、これまで合戦から、誰が先陣で誰が後詰めかどうかは定まっており、そのとおりにそれぞれの「い場所」を見つけ――そしてそののだ。
 それが故・平手政秀の定めた、陣法じんぽうである。

「……よし」

 かぶと眉庇まびさしを濡らしながら、信長は、今が攻め時であると判断した。

「やれ、十兵衛」

「はいな」

 十兵衛はすでに菰から火縄銃を出している。
 その筒先から、二つ玉を入れた。

「一巴はん」

 二つ玉を、棒で筒の奥まで押し込む。

「殿サンの門出や」

 火縄銃の筒をこんこんと指で叩き、調子を確認する。

「……頼むでェ」

 火縄に火をつける。
 もう、後戻りはできない。
 この先、今川の諸将の陣がいるか分からない。
 だが。
 いようとも、それらを食い破り、征くしかない。
 ……輿乗よじょうの敵の、いる場所へ。

「いくでえ!」

 火縄の火が至る。
 十兵衛は無造作に筒先を、今川の陣の柵に向けた。

「一番や!」

 ごう。
 そんな音が聞こえた。
 十兵衛には、筒先から何か魔物が飛び出したように思えた。
 その魔物は、一瞬にして今川の陣に到達し――

 爆散した。
 轟音。
 火柱。

 今川の兵には、それは落雷かと感じられただろう。
 それほどのとどろきであり、衝撃である。

「う、うわっ」

「な、何だ」

「か、雷か」

 飛び出した今川の兵が見たものは。
 見るも無残な、柵の残骸であった。
 唖然としている彼らの前に。
 視線の先に。
 見えてくる、一陣の風のようなもの。
 それは。

「織田家中、森三左衛門可成もりさんざえもんよしなり! 一番槍を、つかまつる!」

 「攻めの三左」とうたわれた、可成の突撃であった。
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