輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒

文字の大きさ
上 下
87 / 101
第十六部 決戦の地

85 「石水混じり」の雨

しおりを挟む
 簗田政綱やなだまさつなと木綿藤吉は、政綱が今川の忍びの者を全て始末して、忍び小屋に隠したのち、言ったとおり、野伏のぶせりのように、あるいは野の獣のように、森を、林を、茂みを走り、ついに今川軍の側面のくさむらに潜むことに成功した。
 政綱はそっと、その草と草の隙間から、今川軍をうかがう。

「……どうやら、進軍を止めるようだ」

「ですな。先手さきてが出たようなので、戻ったらまた」

「いや」

 政綱は空を指差した。
 時折、稲光が走る黒雲がうごめいている。

「もうすぐ雨だ。それにそなえて、どこぞに急ごしらえの陣でもかまえるやもしれぬ」

「……と、なると」

 木綿は考える。
 その、考える木綿を、政綱は黙って見守っている。
 実は、政綱はこのが終わったら、一線から退しりぞこうと思っている。
 自分の心身の最高潮はこのあたりだ、という自覚があったからである。
 人間は年を取る。
 衰えるのは、やむを得ない。
 幸い、忍び働きについては、蜂須賀小六がいる。
 だが、謀臣としては、この木綿藤吉が一番、見所みどころがある。
 過日、それを信長に申し出ると、「そのとおりである」と賛意を示され、こたびのには、必ず木綿を連れて行き、そのはかりごとすべを伝えよと念を押された。

「さて木綿、おれと……信長さまのを、裏切ってくれるなよ」

「……何か申されましたか?」

「いや、ひとりごとよ。それより、どうか」

 どうか、と聞く内容は決まっている。
 このような状況下で、今川軍がどう、そしてどこへ陣をかまえるか、ということだ。

「雨天ゆえ、陣に水が溜まらぬよう、高所へ。それも、大高城や、その他の砦が見られるような高所へ」

「……そうだ」

 政綱は、彼らしくもなく涙を浮かべながら、木綿の肩を叩いた。
 ああ、やはり、自分の潮時は、この時だという感慨があったからかもしれない。

「……あ、政綱さま。敵、動き出しました」

「よし。つけるぞ。ただし、今川の陣の目星がついたら、離れる」

 時が流れている。
 今、陣の場所を確かめることに必要以上に拘っては、織田は負ける。

「松平なり、朝比奈なり……それが戻ることと、何より……海路を迫る、ですな」

「そうだ」

 今川軍、特に今川義元の本陣を見極める。
 ただし、海路から迫る敵が侵掠をする前に。
 ……そういう、矛盾した命題に直面する織田軍であった。



 中嶋砦。
 織田信長は、寝てはいないが瞑目して、簗田政綱と木綿藤吉の到着を待っていた。
 前田利家らのもたらした情報により、今川軍の動向はある程度知れた。
 が、この雨の中、具体的にはどこに陣をかまえるのか。
 それを知らないことには、これからやろうとしていることができない。

「信長さま」

「何だ」

 信長は眉一つ動かさないが、政綱と木綿か、と言いたいことが、帰蝶にはわかった。

「……いえ、柴田勝家さま、この中嶋砦に着陣なさいました」

「……で、あるか」

 信長の態度は変わらない。
 常と変わらぬ態度だ。
 だがその目に、残念そうな色が帯びるのを、帰蝶は見た。

「……湯漬けでも作りましょうか?」

「……頼む」

 それを聞いて、森可成もりよしなりや河尻秀隆も、われもわれもと湯漬けをと言い出す。

「……お前ら」

 信長が失笑すると、帰蝶や皆も笑った。
 ちょうどそこへ、柴田勝家が砦の中のこの場へと入って来た。
 相も変わらず、渋い顔。
 皆とちがって、山賊や偸盗どろぼうの退治をさせられていたからか。
 誰もがそう思う中、勝家は黙然と歩を進めて、信長の前に来て、座して言った。

「信長さま」

「何だ」

「熱田より急報が。焼き討ちに遭っているとのよし

「で、あるか」

 湊から、つまり海路からの焼き討ちであろう。
 これまで散々、ささやかれていた、海路からの――双頭の蛇の残った胴体の――水軍の攻撃が始まったのだ。

「して、焼き討ちの主は」

「三つ鱗ではないとのことです」

 三つ鱗。
 北条家の家紋。
 つまり、このたびの海路から襲撃は、三つ鱗――北条家による大船団の水軍ではなく、やはり服部党。服部友貞によるものと推定されるとのことだった。

「ですがもはや――ことと次第によっては、三つ鱗も出張ってきましょう」

 今川としては、最終目的が何であれ天下であれ、少なくとも尾張を支配下に置くことが当面の目的である。
 その尾張で悪評を高めるのは、なるべくなら避けたいところである。
 服部党がやり過ぎれば、当然、掣肘するために、北条水軍が出よう。

「服部党・服部友貞は歯止めが効かないところがあるからな。さもありなん」

 信長は立ち上がった。
 ことここに至っては、是非もなし。
 今少し、今少し今川義元の居場所を突き止めたかったが、熱田が今、海から攻められている。
 熱田を取られれば、鳴海城、大高城と連携し、今、中嶋砦ここにいる織田軍が孤立する。清州から切り離される。

「雨が」

 誰からともなく言ったその台詞に、信長は外を見た。
 外の雨は強く、もはや視界は遮られている。
 砦の屋根を叩くその音は、石でも降ってきているのかと言いたいぐらい、苛烈だ。
 信長公記に「石水混じり」と記される豪雨であり、もしかするとそれはひょうだったかもしれない。
 だが仕方ない。
 田楽狭間か、桶狭間か。 
 どちらかをつけて、征くしかない。

「いざ……」

 出陣、と言おうとした、その時だった。
 場に、帰蝶が現れた。
 いつの間にか、外に出ていたらしく、髪が、額が濡れている。

「信長さま」

「濃」

 帰蝶は無言で頭を下げた。
 そしてそのうしろから、何人かの影が。

「政綱? それに木綿か?」

「ただ今、戻りました」

「遅うなり申した」

 簗田政綱が毛利新介に抱えられ、木綿藤吉が前田利家に背負われて、場に登場した。
 帰蝶は、新介ら共に、砦の門前で、政綱らの到着を待っていたらしい。
 その当の政綱は、降る雨に濡らされ、と歯を鳴らすほど、寒がっているように見えた。
 だが実際の政綱は、寒がってなどいない。
 木綿の推測で、今川義元の本陣は、ある程度の目星がついた。
 ついたが、それを告げることが。
 そう、今川義元の居場所を告げることが。
 何か、空恐ろしいことのような気がしてならないのだ。
 そう、それは、沓掛城付近で輿の登場を待ちかまえていた時、感じたような。
 自分の目が、織田家という生き物、否、もっと大きな「何か」の目だと感じた、あの時のような。
 今の自分の口もまた、もっと大きな「何か」の口で、それをついと出してしまうと、それは天地を引っくり返す一大事を起こしてしまうような。
 ……そんな、気がするのだ。

「政綱」

 信長が語りかける。
 気がつけば、自分の肩に手を置いている。

「……大儀」

 ああ、自分は報われている。
 この人は、自分の働きをちゃんと見てくれている。
 そういう「大儀」だった。
 ……気がつけば、帰蝶もまた自分の肩に手を置いてくれている。
 そして自分の背にも、木綿のごつごつとした、それでいて力のある手が。

 ……言おう。
 政綱は口を開いて、それを告げた。
 この国の天地を引っくり返すことになる、それを。

輿こしは……輿乗よじょうの敵は、今川は……桶狭間山にあり」

「で、あるか」

 信長の目が炯炯けいけいと輝く。
 ついに、この時が来た。
 信長は語った。
 何故かは知らないが、自分は生まれた時から、こうなることを知っていた、と。

「……そう、何か大きなこと、大きなものが、いずれ自分の前に現われ、が来る、と知っていた。それが何かは分からない……が」

 まだ幼かった信長がそう言うと、父・織田信秀は、ある男を連れて来た。

「お前にこの男をつける。学べ。教われ。さすれば……の助けとなろう」

 信秀は自分の隣に立つその男を、自分の知る限り最高の知と力と……勇気を持つ男だと言った。
 その男の名は平手政秀。
 以後、傅役もりやくとして支え、見守り、死ぬまで信長を助けた硬骨漢である。

「もうこういうことは言うまいと思っていたが……敢えて言おう、親父殿、爺、義父上ちちうえ、見守っていてくれ」

 帰蝶がいつの間にか、隣に立っていた。
 もう、簗田政綱も木綿藤吉も、自らの足で立っている。
 それに毛利新介や前田利家もならび、そして毛利長秀や柴田勝家、気がつけば森可成や河尻秀隆らも、集まってきている。

「信長さま」

 一同を代表してか、帰蝶が言った。

「この石水混じりの雨の中ですが……」

「皆まで言うな」

 信長は笑った。
 それは、人によっては第六天の魔王の如き笑みだったかもしれない。
 だが、この場にいる誰もがそれを頼もしく思った。

「いざ……いざ、出陣!」

 織田信長、中嶋砦を出陣。
 折からの激しい風雨の中であるが、むしろそれを好機として出陣した。
 ……輿乗の敵を討つために。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【短編】輿上(よじょう)の敵 ~ 私本 桶狭間 ~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 今川義元の大軍が尾張に迫る中、織田信長の家臣、簗田政綱は、輿(こし)が来るのを待ち構えていた。幕府により、尾張において輿に乗れるは斯波家の斯波義銀。かつて、信長が傀儡の国主として推戴していた男である。義元は、義銀を御輿にして、尾張の支配を目論んでいた。義銀を討ち、義元を止めるよう策す信長。が、義元が落馬し、義銀の輿に乗って進軍。それを知った信長は、義銀ではなく、輿上の敵・義元を討つべく出陣する。 【表紙画像】 English: Kano Soshu (1551-1601)日本語: 狩野元秀(1551〜1601年), Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

前夜 ~敵は本能寺にあり~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 織田信忠は、本能寺の変の前夜、父・信長を訪れていた。そして信長から、織田家の――信忠の今後と、明智光秀の今後についての考えを聞く。それを知った光秀は……。 【表紙画像・挿絵画像】 「きまぐれアフター」様より

河越夜戦 〜相模の獅子・北条新九郎氏康は、今川・武田連合軍と関東諸侯同盟軍八万に、いかに立ち向かったのか〜

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 今は昔、戦国の世の物語―― 父・北条氏綱の死により、北条家の家督を継いだ北条新九郎氏康は、かつてない危機に直面していた。 領国の南、駿河・河東(駿河東部地方)では海道一の弓取り・今川義元と、甲斐の虎・武田晴信の連合軍が侵略を開始し、領国の北、武蔵・河越城は関東管領・山内上杉憲政と、扇谷上杉朝定の「両上杉」の率いる八万の関東諸侯同盟軍に包囲されていた。 関東管領の山内上杉と、扇谷上杉という関東の足利幕府の名門の「双つの杉」を倒す夢を祖父の代から受け継いだ、相模の獅子・北条新九郎氏康の奮戦がはじまる。

敵は家康

早川隆
歴史・時代
旧題:礫-つぶて- 【第六回アルファポリス歴史・時代小説大賞 特別賞受賞作品】 俺は石ころじゃない、礫(つぶて)だ!桶狭間前夜を駆ける無名戦士達の物語。永禄3年5月19日の早朝。桶狭間の戦いが起こるほんの数時間ほど前の話。出撃に際し戦勝祈願に立ち寄った熱田神宮の拝殿で、織田信長の眼に、彼方の空にあがる二条の黒い煙が映った。重要拠点の敵を抑止する付け城として築かれた、鷲津砦と丸根砦とが、相前後して炎上、陥落したことを示す煙だった。敵は、餌に食いついた。ひとりほくそ笑む信長。しかし、引き続く歴史的大逆転の影には、この両砦に籠って戦い、玉砕した、名もなき雑兵どもの人生と、夢があったのである・・・ 本編は「信長公記」にも記された、このプロローグからわずかに時間を巻き戻し、弥七という、矢作川の流域に棲む河原者(被差別民)の子供が、ある理不尽な事件に巻き込まれたところからはじまります。逃亡者となった彼は、やがて国境を越え、風雲急を告げる東尾張へ。そして、戦地を駆ける黒鍬衆の一人となって、底知れぬ謀略と争乱の渦中に巻き込まれていきます。そして、最後に行き着いた先は? ストーリーはフィクションですが、周辺の歴史事件など、なるべく史実を踏みリアリティを追求しました。戦場を駆ける河原者二人の眼で、戦国時代を体感しに行きましょう!

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

吼えよ! 権六

林 本丸
歴史・時代
時の関白豊臣秀吉を嫌う茶々姫はあるとき秀吉のいやがらせのため自身の養父・故柴田勝家の過去を探ることを思い立つ。主人公の木下半介は、茶々の命を受け、嫌々ながら柴田勝家の過去を探るのだが、その時々で秀吉からの妨害に見舞われる。はたして半介は茶々の命を完遂できるのか? やがて柴田勝家の過去を探る旅の過程でこれに関わる人々の気持ちも変化して……。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

女の首を所望いたす

陸 理明
歴史・時代
織田信長亡きあと、天下を狙う秀吉と家康の激突がついに始まろうとしていた。 その先兵となった鬼武蔵こと森長可は三河への中入りを目論み、大軍を率いて丹羽家の居城である岩崎城の傍を通り抜けようとしていた。 「敵の軍を素通りさせて武士といえるのか!」 若き城代・丹羽氏重は死を覚悟する!

処理中です...