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第十五部 敦盛の舞
79 前夜 前編
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「何や楽しくなってきたなぁ」
明智十兵衛が人の悪い笑みを浮かべる。
「十兵衛どのには、清州の留守居を」
「そないな、つれないこと言うてくれるな、お姫《ひい》さま」
「しかし」
これは織田信長の言葉である。
彼もまた、十兵衛には清洲城の留守居あるいは京へ上って、将軍にこの窮状を訴えてもらう……つまり安全なところにいてもらいたいと思っていた。
十兵衛は片手を振る。
「こないな機会ィ、滅多にないで。ほれ、あれや……義を見てせざるは勇無きなり、や」
おどけているが、十兵衛の目は真剣だ。
もしかして、彼は彼なりに、斎藤道三の仇を討とうとしているかもしれない。
「……で、あるか」
確かに将兵はひとりでも多い方が良い。
特に、明智十兵衛のような将は。
信長が改めて城主の間を眺めると、森可成や河尻秀隆といった将も鎮座している。
彼らは特に何も言わない。
それは、もうそのつもりでいることと、もうひとつ、察していることがあるからだ。
「……せっかくの申し出だ。では、佐々政次、千秋季忠らと共に、鳴海城の方の、中嶋砦へ行ってもらいたい」
佐々政次は、稲生の戦いで散った佐々孫介の兄で、つまり佐々成政の兄である。
千秋季忠は、熱田神宮の大宮司であり、かつ、社領を守る、武士という一面もある。
「……では、われは十兵衛どのを見送る。濃、皆が疲れておろう。休ませてやれ」
「……はい」
信長の目配せに、帰蝶も察する。
そして信長は十兵衛の耳に何事かささやくと、十兵衛は神妙な顔をしてうなずき、「……わかった」と珍しく畿内の言葉ではない、美濃の言葉で答えた。
「さあ、皆、戻りなさい。これから信長さまはお寝みになります」
帰蝶のその言葉に素直に従うのは、やはり森可成や河尻秀隆、柴田勝家、そして林秀貞である。
秀貞すら文句のひとつも言わずに帰るところに、いぶかしい、と思う者がいたかもしれない。
だが、その秀貞らにくっついて、そそくさと帰る家臣や小者、侍女たちには、そう思うことが、余裕が無かった。
……一刻も早く、この清洲城の様子を、流れ者の明智十兵衛に佐々政次と千秋季忠を率いさせ、寡兵で今川勢とやり合わせようとしている情報を、伝えねばと必死だったからである。
伝える相手はその今川勢の、津々木蔵人である。
*
沓掛城。
今川義元は言葉どおり、酒宴を催した。
それは沓掛城周辺の民をも招いた、大規模なものだったが、ひとりだけ招いていない者がいた。
元尾張国主・斯波義銀である。
「な、何故じゃ、何故、予が、このようなむくつけき奴らに閉じ込められねばならぬのじゃ」
義銀は沓掛城主・近藤景春により、一室に閉じ込められた。
むくつけき、と言われた景春は嫌な顔をしていたが、この酒宴にて、義元手ずから酒杯を賜ると、相好を崩した。「あのような輩、いつまででも沓掛城にて閉じ込め、おっと失敬、お預かりいたしましょう」と請け合った。
「よしなに、よしなに」
黒い歯を光らせて、義元は笑う。
笑いたいのは、津々木蔵人も同様である。
彼は、ついに斯波義銀という桎梏から解放され、本来携わるつもりであった、尾張国内の諜報活動へと専念した。
事前に潜ませていた間者、あるいは金銭をつかませていた侍女や小者から、早速に知らせが来る。
「義元さま、織田は流れ者の明智十兵衛とやらに、小勢を預けて今川軍に向かわせたとの由」
「ふむ」
義元は髭をつまんで持ち上げながら、酒杯をあおった。
一気に呑み込み、そして息を吐く。
「……おおかた、予想できたことじゃが、やはり織田はそう来たか」
「そうとは」
松平元康が、義元の杯に酒を注ぎながら問う。
「うむ」
義元は上機嫌にその酒を呑み干してから、話をつづけた。
「あの三河忩劇。あれよ、あれをやりたいのよ……織田は」
三河忩劇とは、数年前、三河で発生した国人らの叛乱で、散発的に国人らが各所で挙兵したため、三河を支配する今川――正確には、その支配を任されている松平元康としては、あちらをたたけば、こちらが火の手を上げるといった有り様で、相当手を焼いた叛乱である。
「あれを尾張でやられると……たしかに厄介ですな」
「うむ」
だが義元は取るに足らないと発言した。
そして元康に、お前をばかにしているわけではない、とも言った。
「三河の場合は、誰が首魁だか判別できなかった……まあ実際は美濃の斎藤道三だったが。とにかく、三河国内においては、国人のそれぞれが、それぞれが頭だった。だが見よ、尾張は――今の尾張は、織田の小倅が頭じゃ。なればその頭をたたくのみ」
義元が強く拳を握る。
そして空を打つ。
まるで、そこに織田信長がいるかのように。
「まあそうやって、小勢で小いくさを際限なくしかけてきて……最後は清州で粘り、幕府なり何なりに、調停を頼む腹づもりよ」
そうなる前に、と義元はまた空に擬せられた信長を打つ。
「元康よ。まずは大高城じゃ。大高に兵糧を入れよ。しかるのちに、後詰めを遣わす。後詰めと合流したのちは、鷲津・丸根の両砦を落とせい」
「はっ」
松平元康はこの夜、つまり永禄三年五月十八日夜に、行動を開始する。
沓掛城を発した松平軍は、今川軍接近の報に動揺する鷲津・丸根砦の間を通り抜け、大胆にも大高城へまっすぐと進み、そのまま入城してしまう。
これで、松平軍の運んできた兵糧により、大高城は城塞として「復活」した。つまり、今川軍の三河防衛拠点から、今川軍の尾張攻撃拠点と化した。
大高城「復活」の報を聞いた義元は、まず祝杯を上げ、次いで宿将である朝比奈泰朝に出陣を命じた。
泰朝はその夜のうちに遠江の井伊直盛らを引き連れて、大高城の元康に合流。
払暁を待って、鷲津・丸根の両砦を攻撃するつもりで、休息を取る予定だったが、元康の申し出に度肝を抜いた。
「こっ、このまま、深更(深夜のこと)の今、攻めると?」
「さよう」
元康が言うには、敵方・織田家の方は、今川義元の変貌を知らない。清州へ目指していくという戦略を知らない。
そしてまた、大高城への兵糧補給がかなったことを知り、ひとまずは――今夜はまず攻めないであろうと油断しているであろう、と。
「何より――今の義元さまのこと、早くに鷲津と丸根を制し、明日には鳴海城をと望まれるに相違ござらん」
「な、なんと」
朝比奈泰朝も、宿将として従軍しているため、今川義元の変貌を知っている。
だが聞いた上でのことだ。
見てはいない。
沓掛城の酒宴の場で、義元と酒を酌み交わしたが、特に今までと変わらぬ態度であった。
しかし僚将の四宮左近から、「たしかに、変わられた」と言われた。
そして松平元康は変貌を「見ていた」のだ。
「わ、分かった。夜討ち朝駆けは兵家の常よ。異論はない」
こうして朝比奈泰朝は、寝ぼけまなこの井伊直親を励まし、鷲津砦へと向かった。
同時に松平元康も丸根砦へと向かう。
時、あたかも永禄三年五月十九日、午前三時。
戦国で最も長い一日が、今、始まる――。
*
北条水軍と服部党は、その夜、今川義元より総攻めの伝令を受けた。
形式上、総帥の立場にある今川氏真は「義父上に任せる」と氏康に言って、その後は何も言わず、軍議の席に腰かけたまま、ひとりにこにことしていた。
服部党を率いる服部友貞は、あからさまにばかにしたような笑みを浮かべ、では船出をと提案した。
「ここからこの大船団で伊勢湾に入れば、そしてそのまま尾張に上陸すれば、織田は終わりだ」
すでに松平元康が大高城を救ったという話もある。
服部友貞としては、自身も手柄を立て、来たるべき今川による尾張支配において、少しでも有利な立場になろうと必死だった。
「あのいけ好かない斯波義銀に尻尾を振ってきたのも、このためだ。早く、海陸双方のこの攻めにおいて、海路が先手を打ち、駿河・遠江・三河・尾張という海道の海路を結ぶ交易圏のあがりをせしめるのは、今よ」
今川義元とは、海道の海路の東を今川家御用商人の友野家が、西を服部党の服部友貞が仕切るということで話がついている。
これならば、今まで熱田や津島の商人にしてやられてきたことも、帳消しにできる。
服部友貞としては、算盤の上からでも、何としてもこの尾張入りを成功させたいところである。
「しかも最近、堺の魚屋とかいうのがしゃしゃり出て、津島や熱田の方とつるんで、悪ふざけをしてやがる」
悪ふざけ、というのはあがりを収奪する、という意味である。
堺の魚屋――千宗易は、自らの商売の繁盛も兼ねて、海道へと進出を始めていた。
そしてそれは服部党の収入を圧迫し出していた。
「……だが、これでそれも終いよ。今川さまが尾張を盗ったら最後、奴らを締め出してくれる」
――そういう諸々の事情を、北条氏康は知っていた。かつ、今川義元の変貌の情報も、自身の忍びである風魔小太郎から入手している。
ここは一番、義元の言うとおりに、服部友貞の望みどおりに、伊勢湾へと進出すべきだろう。
だが。
「何か……ヒリヒリする。背筋が。そう……河越夜戦のような」
河越夜戦という、乾坤一擲の大いくさ。
氏康はその勝負に出る時、その感覚を味わった。
あのときは――河越夜戦のときは、それを振り切って、氏康は勝った。
だが通常は、その感覚を感じたら、退くべきなのだ。
「乗り越えねばならない、そういう場合でなければ、避けるべきだな」
「――はあ?」
どうやら、つい口に出ていたようだ。
服部友貞が、何だこいつは、と言いたげな顔で見ている。
しかしそれすらも気にならないくらい、粘着く雰囲気を感じる。
今、今川義元が進軍するであろう、知多の方と、海の向こうから。
――これが自分が総大将なら、退くんだがな。
今度は口に出さずに、そう思った。
思ったが、今はあの今川義元が総大将だ。
目の前の服部友貞がどう囀ろうが気にならないが、この場にいない今川義元に睨まれるのは御免だ。
「……仕方ない」
いざという時は、その義元の御曹司・氏真を預かっていることを盾に、勝手にさせてもらおう。
氏康は、出撃することに決めた。
「それでは服部どのは、自身の舟に、戻られよ……出るぞ」
「承知」
遅いと言いたげな目をしていたが、それでも意気揚々と服部友貞は服部党の船団へと戻った。
そして、相も変わらずにこにことしている今川氏真をしり目に、氏康は出帆を命じた。
「さて……鬼が出るか蛇が出るか」
明智十兵衛が人の悪い笑みを浮かべる。
「十兵衛どのには、清州の留守居を」
「そないな、つれないこと言うてくれるな、お姫《ひい》さま」
「しかし」
これは織田信長の言葉である。
彼もまた、十兵衛には清洲城の留守居あるいは京へ上って、将軍にこの窮状を訴えてもらう……つまり安全なところにいてもらいたいと思っていた。
十兵衛は片手を振る。
「こないな機会ィ、滅多にないで。ほれ、あれや……義を見てせざるは勇無きなり、や」
おどけているが、十兵衛の目は真剣だ。
もしかして、彼は彼なりに、斎藤道三の仇を討とうとしているかもしれない。
「……で、あるか」
確かに将兵はひとりでも多い方が良い。
特に、明智十兵衛のような将は。
信長が改めて城主の間を眺めると、森可成や河尻秀隆といった将も鎮座している。
彼らは特に何も言わない。
それは、もうそのつもりでいることと、もうひとつ、察していることがあるからだ。
「……せっかくの申し出だ。では、佐々政次、千秋季忠らと共に、鳴海城の方の、中嶋砦へ行ってもらいたい」
佐々政次は、稲生の戦いで散った佐々孫介の兄で、つまり佐々成政の兄である。
千秋季忠は、熱田神宮の大宮司であり、かつ、社領を守る、武士という一面もある。
「……では、われは十兵衛どのを見送る。濃、皆が疲れておろう。休ませてやれ」
「……はい」
信長の目配せに、帰蝶も察する。
そして信長は十兵衛の耳に何事かささやくと、十兵衛は神妙な顔をしてうなずき、「……わかった」と珍しく畿内の言葉ではない、美濃の言葉で答えた。
「さあ、皆、戻りなさい。これから信長さまはお寝みになります」
帰蝶のその言葉に素直に従うのは、やはり森可成や河尻秀隆、柴田勝家、そして林秀貞である。
秀貞すら文句のひとつも言わずに帰るところに、いぶかしい、と思う者がいたかもしれない。
だが、その秀貞らにくっついて、そそくさと帰る家臣や小者、侍女たちには、そう思うことが、余裕が無かった。
……一刻も早く、この清洲城の様子を、流れ者の明智十兵衛に佐々政次と千秋季忠を率いさせ、寡兵で今川勢とやり合わせようとしている情報を、伝えねばと必死だったからである。
伝える相手はその今川勢の、津々木蔵人である。
*
沓掛城。
今川義元は言葉どおり、酒宴を催した。
それは沓掛城周辺の民をも招いた、大規模なものだったが、ひとりだけ招いていない者がいた。
元尾張国主・斯波義銀である。
「な、何故じゃ、何故、予が、このようなむくつけき奴らに閉じ込められねばならぬのじゃ」
義銀は沓掛城主・近藤景春により、一室に閉じ込められた。
むくつけき、と言われた景春は嫌な顔をしていたが、この酒宴にて、義元手ずから酒杯を賜ると、相好を崩した。「あのような輩、いつまででも沓掛城にて閉じ込め、おっと失敬、お預かりいたしましょう」と請け合った。
「よしなに、よしなに」
黒い歯を光らせて、義元は笑う。
笑いたいのは、津々木蔵人も同様である。
彼は、ついに斯波義銀という桎梏から解放され、本来携わるつもりであった、尾張国内の諜報活動へと専念した。
事前に潜ませていた間者、あるいは金銭をつかませていた侍女や小者から、早速に知らせが来る。
「義元さま、織田は流れ者の明智十兵衛とやらに、小勢を預けて今川軍に向かわせたとの由」
「ふむ」
義元は髭をつまんで持ち上げながら、酒杯をあおった。
一気に呑み込み、そして息を吐く。
「……おおかた、予想できたことじゃが、やはり織田はそう来たか」
「そうとは」
松平元康が、義元の杯に酒を注ぎながら問う。
「うむ」
義元は上機嫌にその酒を呑み干してから、話をつづけた。
「あの三河忩劇。あれよ、あれをやりたいのよ……織田は」
三河忩劇とは、数年前、三河で発生した国人らの叛乱で、散発的に国人らが各所で挙兵したため、三河を支配する今川――正確には、その支配を任されている松平元康としては、あちらをたたけば、こちらが火の手を上げるといった有り様で、相当手を焼いた叛乱である。
「あれを尾張でやられると……たしかに厄介ですな」
「うむ」
だが義元は取るに足らないと発言した。
そして元康に、お前をばかにしているわけではない、とも言った。
「三河の場合は、誰が首魁だか判別できなかった……まあ実際は美濃の斎藤道三だったが。とにかく、三河国内においては、国人のそれぞれが、それぞれが頭だった。だが見よ、尾張は――今の尾張は、織田の小倅が頭じゃ。なればその頭をたたくのみ」
義元が強く拳を握る。
そして空を打つ。
まるで、そこに織田信長がいるかのように。
「まあそうやって、小勢で小いくさを際限なくしかけてきて……最後は清州で粘り、幕府なり何なりに、調停を頼む腹づもりよ」
そうなる前に、と義元はまた空に擬せられた信長を打つ。
「元康よ。まずは大高城じゃ。大高に兵糧を入れよ。しかるのちに、後詰めを遣わす。後詰めと合流したのちは、鷲津・丸根の両砦を落とせい」
「はっ」
松平元康はこの夜、つまり永禄三年五月十八日夜に、行動を開始する。
沓掛城を発した松平軍は、今川軍接近の報に動揺する鷲津・丸根砦の間を通り抜け、大胆にも大高城へまっすぐと進み、そのまま入城してしまう。
これで、松平軍の運んできた兵糧により、大高城は城塞として「復活」した。つまり、今川軍の三河防衛拠点から、今川軍の尾張攻撃拠点と化した。
大高城「復活」の報を聞いた義元は、まず祝杯を上げ、次いで宿将である朝比奈泰朝に出陣を命じた。
泰朝はその夜のうちに遠江の井伊直盛らを引き連れて、大高城の元康に合流。
払暁を待って、鷲津・丸根の両砦を攻撃するつもりで、休息を取る予定だったが、元康の申し出に度肝を抜いた。
「こっ、このまま、深更(深夜のこと)の今、攻めると?」
「さよう」
元康が言うには、敵方・織田家の方は、今川義元の変貌を知らない。清州へ目指していくという戦略を知らない。
そしてまた、大高城への兵糧補給がかなったことを知り、ひとまずは――今夜はまず攻めないであろうと油断しているであろう、と。
「何より――今の義元さまのこと、早くに鷲津と丸根を制し、明日には鳴海城をと望まれるに相違ござらん」
「な、なんと」
朝比奈泰朝も、宿将として従軍しているため、今川義元の変貌を知っている。
だが聞いた上でのことだ。
見てはいない。
沓掛城の酒宴の場で、義元と酒を酌み交わしたが、特に今までと変わらぬ態度であった。
しかし僚将の四宮左近から、「たしかに、変わられた」と言われた。
そして松平元康は変貌を「見ていた」のだ。
「わ、分かった。夜討ち朝駆けは兵家の常よ。異論はない」
こうして朝比奈泰朝は、寝ぼけまなこの井伊直親を励まし、鷲津砦へと向かった。
同時に松平元康も丸根砦へと向かう。
時、あたかも永禄三年五月十九日、午前三時。
戦国で最も長い一日が、今、始まる――。
*
北条水軍と服部党は、その夜、今川義元より総攻めの伝令を受けた。
形式上、総帥の立場にある今川氏真は「義父上に任せる」と氏康に言って、その後は何も言わず、軍議の席に腰かけたまま、ひとりにこにことしていた。
服部党を率いる服部友貞は、あからさまにばかにしたような笑みを浮かべ、では船出をと提案した。
「ここからこの大船団で伊勢湾に入れば、そしてそのまま尾張に上陸すれば、織田は終わりだ」
すでに松平元康が大高城を救ったという話もある。
服部友貞としては、自身も手柄を立て、来たるべき今川による尾張支配において、少しでも有利な立場になろうと必死だった。
「あのいけ好かない斯波義銀に尻尾を振ってきたのも、このためだ。早く、海陸双方のこの攻めにおいて、海路が先手を打ち、駿河・遠江・三河・尾張という海道の海路を結ぶ交易圏のあがりをせしめるのは、今よ」
今川義元とは、海道の海路の東を今川家御用商人の友野家が、西を服部党の服部友貞が仕切るということで話がついている。
これならば、今まで熱田や津島の商人にしてやられてきたことも、帳消しにできる。
服部友貞としては、算盤の上からでも、何としてもこの尾張入りを成功させたいところである。
「しかも最近、堺の魚屋とかいうのがしゃしゃり出て、津島や熱田の方とつるんで、悪ふざけをしてやがる」
悪ふざけ、というのはあがりを収奪する、という意味である。
堺の魚屋――千宗易は、自らの商売の繁盛も兼ねて、海道へと進出を始めていた。
そしてそれは服部党の収入を圧迫し出していた。
「……だが、これでそれも終いよ。今川さまが尾張を盗ったら最後、奴らを締め出してくれる」
――そういう諸々の事情を、北条氏康は知っていた。かつ、今川義元の変貌の情報も、自身の忍びである風魔小太郎から入手している。
ここは一番、義元の言うとおりに、服部友貞の望みどおりに、伊勢湾へと進出すべきだろう。
だが。
「何か……ヒリヒリする。背筋が。そう……河越夜戦のような」
河越夜戦という、乾坤一擲の大いくさ。
氏康はその勝負に出る時、その感覚を味わった。
あのときは――河越夜戦のときは、それを振り切って、氏康は勝った。
だが通常は、その感覚を感じたら、退くべきなのだ。
「乗り越えねばならない、そういう場合でなければ、避けるべきだな」
「――はあ?」
どうやら、つい口に出ていたようだ。
服部友貞が、何だこいつは、と言いたげな顔で見ている。
しかしそれすらも気にならないくらい、粘着く雰囲気を感じる。
今、今川義元が進軍するであろう、知多の方と、海の向こうから。
――これが自分が総大将なら、退くんだがな。
今度は口に出さずに、そう思った。
思ったが、今はあの今川義元が総大将だ。
目の前の服部友貞がどう囀ろうが気にならないが、この場にいない今川義元に睨まれるのは御免だ。
「……仕方ない」
いざという時は、その義元の御曹司・氏真を預かっていることを盾に、勝手にさせてもらおう。
氏康は、出撃することに決めた。
「それでは服部どのは、自身の舟に、戻られよ……出るぞ」
「承知」
遅いと言いたげな目をしていたが、それでも意気揚々と服部友貞は服部党の船団へと戻った。
そして、相も変わらずにこにことしている今川氏真をしり目に、氏康は出帆を命じた。
「さて……鬼が出るか蛇が出るか」
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