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第十四部 輿乗(よじょう)の敵
76 輿乗(よじょう)の敵 前編
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……斯波義銀は津々木蔵人に誘われ、百舌鳥狩のため、山野に出たものの「川狩りの方が」だの「漆が。かぶれる」だの言って捗らず、結局のところ百舌鳥狩それ自体は失敗に終わった。
だが、今川軍の将兵としてはうるさくなくて嬉しかったらしく、弛緩のあまり酒宴を張るという皮肉な展開となっていた。
面白くないのは斯波義銀で、「外された」として顔を赤くして怒った。
その結果、蔵人にも会わないぐらいへそを曲げ、もうすぐ沓掛城だというのに、今川軍のうしろのさらに遠くをゆっくりと輿で行くという有り様になった。
これにはさすがに今川義元もご機嫌うかがいが必要かと思い、何度か迎えを寄越し、自ら馬に乗って同行を誘いに行ったが「放っといてくれ」の一点張りだった。
そうこうするうちに、松平元康の使いの服部正成がやって来て、先に沓掛城に入り、迎えの準備を整えている、と言上した。
「聞いたか、義銀どの。もはや敵地。尾張である。行き違いがあったことは詫びよう。されど、今は一致してことにあたらねば……」
「わかった、わかった」
義銀はうるさそうにそっぽを向いて返事をする。その非礼に蔵人は怒気を発したが、ほかならぬ義元に「こらえよ」と言われてしまい、天を仰いだ。
「では、沓掛城にて、宴としよう。今一度、今一度、合力する仲として、宴を」
蔵人は義元の忍耐力に感歎した。
先日、「双頭の蛇」のひとつの「頭」である美濃がかき乱されたと伝えられ、「頭」としてまるで役立たない状態となり、義元としては歯噛みせざるを得ない状況である。
それでもその美濃を扇動したと思われる武田への掣肘、また、「双頭の蛇」の「胴体」として期待される、息子の氏真と北条氏康への指示連絡等々、義元のやるべきことは山積している。
その上で、この「本命」である海道――陸路の統制と進行をしなければならない。
そういう状況であるのに、義元はその苦労を毛ほども感じさせず、黒い歯を見せて、笑って義銀を酒宴へと誘っているのだ。
一方の義銀は、「まあ、義元どのがそこまで言うのであれば」ともったいをつけた態度を取り、蔵人は義元の目が無ければ、憤りを爆発させるところだった。
「ではでは、先に沓掛に行って、酒宴の支度をして参る」
おどけて白馬に乗る義元。
その時、義銀は何を考えたのか、その白馬へと近寄った。
「ふむ。これが今川どのの乗馬か。輿の方が良いの」
そんな嫌味を言いに、わざわざ行くな。
蔵人は義銀の袖を引っ張るようにして、義元の白馬から引きはがし、義元に行くようにうながした。
「ではの」
義元は白馬を「どうどう」と御しながら行く。
相変わらず馬術は苦手のようで、汗をかきつつ、どうにか前へと進んでいるようだ。
*
「フン、なかなかの善き騎馬武者ぶりだったではないか」
この男が褒める時は何かある。
短い日数ではあるが、蔵人は義銀の為人を把握しつつあった。
換言すれば、義銀の器がそれだけ「浅い」ということでもあるが。
だがその義銀が、とんでもないことを口にした。
今、義元は相当遠くまで離れ、逆に言うとあれから義銀がもたもたしていて、ようやくにして輿を用意させているところだった。
「ここから沓掛までどれほどあるか知らぬが……あの白馬はどこまで保つのかのう?」
「……どこまで?」
蔵人は無遠慮にもそのまま反問する。
義銀はしかし上機嫌に返した。
「蔵人よ……先の百舌鳥狩は冴えなかったが……ひとつだけ収穫があったぞ」
義銀がほくそ笑む。
その義銀の袖から、一枚の葉を出した。
百舌鳥狩の手甲手袋の義銀の手につままれた、その葉は。
「そうよ。漆よ。あの白馬の鞍の下に、忍ばせてやったわ……くくく。あの白馬、かぶれにどこまで保つのかのう?」
……斯波義銀のこの悪戯が、この国の歴史を変えてしまうとは、この時、誰にも予想できなかった。
*
海。
北条氏康は、今川氏真を伴って、白波を蹴立てつつ、北条水軍を進ませつつあった。
あと少しで知多半島というところで、珍客があった。
「手前、服部友貞と申す」
何と、尾張海西郡の服部党の頭領、服部友貞自らの登場である。
しかも、服部水軍を率いている。
「服部党、服部友貞と申さば、尾張の津島、海西郡の方が根城とか。いかにして、ここまでやって来たのか」
知多半島には、水野家とその水軍が控えているはず。
だからこその、今川水軍に加えての北条水軍である。
その水野水軍の監視と警戒を、どう潜り抜けて来たのか。
当然の疑問である。
「そこはそれ」
友貞は髭もじゃの顔の相好を崩して笑った。
がはは、と。
どうやら典型的な海賊といった男らしい。
「知多の連中、どうやら貝のように引きこもることに決めたらしい。水軍は出て来なかった」
知多半島にあごをしゃくる友貞。
その表情から、もし水野が出て来たとしても、一蹴してやるという自信があったらしい。
「それでは、根城の津島や海西郡の方は大丈夫なのか。留守を狙って……」
「伊勢・志摩のことなら心配無用。連中、今は九鬼というやんちゃが過ぎる地頭を、伊勢国司の力を借りた他の地頭が攻めている真っ最中だ。海西郡どころじゃねえよ」
言い方が早速砕けて来た。
海の男とは、こういうものだと言われればそれまでだが、どうもその物腰から、馴れ馴れしいというか無遠慮な感じがする。
尾張の海、伊勢湾を押さえているのは自分であるという誇りにして、驕りか。
「成る程……道理で氏真どのでなく、おれにも出ろというわけだな、あの海道一の弓取りが」
こういう男の相手は、氏真ではいささか荷が重いということだろう。
氏真は貴公子であり驕ることはないが、そこが付け込まれるかもしれないといったところか。
「何か言ったか?」
「いや別に」
澄ました顔で氏康は服部党への水先案内を頼んだ。
服部友貞は「ま、いいだろう」と胸を張って答えた。
実に偉そうな態度であり、これならあの信長包囲網とやらの時、ちっとも動かなかったというのも納得がいく。
「……この時期、この海は荒れる。服部党がいて、良かったな」
「……たしかに、荒れそうだな」
氏康がはるか西に目を向けると、黒雲が広がりつつあるのが、見えた。
*
尾張。
沓掛。
沓掛城の近くのその田んぼのそばに。
その小屋はあった。
小屋の中には、三人ほどの人影が。
そのうちひとつの影が「出てくる」と述べる。
「……また、田んぼの中で見るのですか、政綱どの」
「……ああ」
政綱――簗田政綱は、織田信長の「輿を探せ」という命を受け、かねてから用意していたこの忍び小屋に入った。
この忍び小屋は、沓掛城が織田から今川に転向した時に設置した。
その時は、いずれこのような大攻勢が来るとは考えず、ただ単に沓掛城とその出入りを探るため、という狙いだった。
だが今や、この忍び小屋の役割は大きく変化を遂げ、今川の大軍の、その流れに乗ってやって来る輿――斯波義銀の動向を把握するための重要拠点と化した。
「…………」
政綱は忍び小屋の扉の陰から周囲を窺う。
誰もいない。
出るか。
俊敏な動作で忍び小屋を出た政綱は、瞬時に田んぼに――泥田の中に滑り込み、そしてそのまま泥の中にその姿を溶け込ませた。
口に藁の管をくわえ、稲の中に紛れ込ませ、息を吸う。
そして時折顔を上げ、沓掛の城を見るのだ。
泥中の目で。
凝と。
凝と。
……もうこんな観察行動を何日もつづけている。
いや、何日経ったかは忘れた。
ある日、木綿藤吉と前田利家が合流したことぐらいは覚えているが、それ以外、目立った出来事は無い。
定期的に、太田又助がこの忍び小屋と清州城を報告に行き来しているが、それも又助に任せており、自身はこの観察行動に傾注、否、没入している政綱であった。
「…………」
忍び小屋はひとつではなく、あといくつかあるが、そのうちのひとつに、毛利新介と毛利長秀がこもっている。
彼らもまた、息をひそめて見守っているだろう。
おれは――おれたちは、目だ。
織田信長の、否、織田家という生き物の、目だ。
政綱は最近、自分たちのことをそう思うようになっていた。
そして今、織田家どころではなくて、もっと何か――織田家という生き物ではなくて、もっと巨大な何かの目なのではないか、と感じている。
「………」
その目が、這うように動いて来る群れを捉えた。
「群れ。今川か」
その群れ――今川軍の先頭には、白馬に乗った武者がいた。
「今川、義元――か」
求める相手は輿の上の斯波義銀である。
白馬に乗った今川義元ではない。
だが、そこで。
織田を――今川を――そして天下を揺るがす事態が起きた。
「義元さまッ」
誰が叫んだのか、分からない。
あとで思えば、義元の護衛役、四宮左近だったかもしれない。
とにかく、その義元が。
否、白馬が。
「義元さま! 馬から、馬から、お降りくだされえッ」
義元の白馬が小刻みに震え出したかと思うと、ついに何かに耐えかねたのか、棹立ちになって後ろ足のみで立ち上がった。
義元はかねてからの疲労のせいか、その馬の首に抱きつくしかできない。
その時、政綱の泥中の目は、白馬の鞍から何かの葉が舞い落ちるのを見たが、気にしている場合ではない。
「義元さま!」
沓掛城の城門から、ひとりの若武者が飛び出して来た。
若武者の兜には、三つ葉葵の紋が。
あれは、松平元康か。
元康は必死になって白馬の手綱を握ろうとする。
「それがしが馬を押さえまする! 義元さま、お降りを! 誰か、誰か、義元さまを」
落ちてくる義元さまを受け止めてくれ、と元康は言おうとしたが、遅かった。
義元の手が馬首から滑り落ち。
義元の体も地へ。
そして。
義元は。
地上に。
激突した。
「がはあッ」
「義元さま!」
それでも義元は、頭から落下することはかろうじて避けた。
避けたが、その代わり。
「あ、足が……痛ッ」
義元は足を挫いてしまった。
これではもう、馬に乗れない。
これ以上行軍をつづけるというのなら、馬ではなく、何か別のものに乗るしかない。
「だ……誰かッ! 誰かッ!」
元康は叫ぶ。
「誰かッ! 輿は無いかッ! 輿は無いのかッ!」
――と。
だが、今川軍の将兵としてはうるさくなくて嬉しかったらしく、弛緩のあまり酒宴を張るという皮肉な展開となっていた。
面白くないのは斯波義銀で、「外された」として顔を赤くして怒った。
その結果、蔵人にも会わないぐらいへそを曲げ、もうすぐ沓掛城だというのに、今川軍のうしろのさらに遠くをゆっくりと輿で行くという有り様になった。
これにはさすがに今川義元もご機嫌うかがいが必要かと思い、何度か迎えを寄越し、自ら馬に乗って同行を誘いに行ったが「放っといてくれ」の一点張りだった。
そうこうするうちに、松平元康の使いの服部正成がやって来て、先に沓掛城に入り、迎えの準備を整えている、と言上した。
「聞いたか、義銀どの。もはや敵地。尾張である。行き違いがあったことは詫びよう。されど、今は一致してことにあたらねば……」
「わかった、わかった」
義銀はうるさそうにそっぽを向いて返事をする。その非礼に蔵人は怒気を発したが、ほかならぬ義元に「こらえよ」と言われてしまい、天を仰いだ。
「では、沓掛城にて、宴としよう。今一度、今一度、合力する仲として、宴を」
蔵人は義元の忍耐力に感歎した。
先日、「双頭の蛇」のひとつの「頭」である美濃がかき乱されたと伝えられ、「頭」としてまるで役立たない状態となり、義元としては歯噛みせざるを得ない状況である。
それでもその美濃を扇動したと思われる武田への掣肘、また、「双頭の蛇」の「胴体」として期待される、息子の氏真と北条氏康への指示連絡等々、義元のやるべきことは山積している。
その上で、この「本命」である海道――陸路の統制と進行をしなければならない。
そういう状況であるのに、義元はその苦労を毛ほども感じさせず、黒い歯を見せて、笑って義銀を酒宴へと誘っているのだ。
一方の義銀は、「まあ、義元どのがそこまで言うのであれば」ともったいをつけた態度を取り、蔵人は義元の目が無ければ、憤りを爆発させるところだった。
「ではでは、先に沓掛に行って、酒宴の支度をして参る」
おどけて白馬に乗る義元。
その時、義銀は何を考えたのか、その白馬へと近寄った。
「ふむ。これが今川どのの乗馬か。輿の方が良いの」
そんな嫌味を言いに、わざわざ行くな。
蔵人は義銀の袖を引っ張るようにして、義元の白馬から引きはがし、義元に行くようにうながした。
「ではの」
義元は白馬を「どうどう」と御しながら行く。
相変わらず馬術は苦手のようで、汗をかきつつ、どうにか前へと進んでいるようだ。
*
「フン、なかなかの善き騎馬武者ぶりだったではないか」
この男が褒める時は何かある。
短い日数ではあるが、蔵人は義銀の為人を把握しつつあった。
換言すれば、義銀の器がそれだけ「浅い」ということでもあるが。
だがその義銀が、とんでもないことを口にした。
今、義元は相当遠くまで離れ、逆に言うとあれから義銀がもたもたしていて、ようやくにして輿を用意させているところだった。
「ここから沓掛までどれほどあるか知らぬが……あの白馬はどこまで保つのかのう?」
「……どこまで?」
蔵人は無遠慮にもそのまま反問する。
義銀はしかし上機嫌に返した。
「蔵人よ……先の百舌鳥狩は冴えなかったが……ひとつだけ収穫があったぞ」
義銀がほくそ笑む。
その義銀の袖から、一枚の葉を出した。
百舌鳥狩の手甲手袋の義銀の手につままれた、その葉は。
「そうよ。漆よ。あの白馬の鞍の下に、忍ばせてやったわ……くくく。あの白馬、かぶれにどこまで保つのかのう?」
……斯波義銀のこの悪戯が、この国の歴史を変えてしまうとは、この時、誰にも予想できなかった。
*
海。
北条氏康は、今川氏真を伴って、白波を蹴立てつつ、北条水軍を進ませつつあった。
あと少しで知多半島というところで、珍客があった。
「手前、服部友貞と申す」
何と、尾張海西郡の服部党の頭領、服部友貞自らの登場である。
しかも、服部水軍を率いている。
「服部党、服部友貞と申さば、尾張の津島、海西郡の方が根城とか。いかにして、ここまでやって来たのか」
知多半島には、水野家とその水軍が控えているはず。
だからこその、今川水軍に加えての北条水軍である。
その水野水軍の監視と警戒を、どう潜り抜けて来たのか。
当然の疑問である。
「そこはそれ」
友貞は髭もじゃの顔の相好を崩して笑った。
がはは、と。
どうやら典型的な海賊といった男らしい。
「知多の連中、どうやら貝のように引きこもることに決めたらしい。水軍は出て来なかった」
知多半島にあごをしゃくる友貞。
その表情から、もし水野が出て来たとしても、一蹴してやるという自信があったらしい。
「それでは、根城の津島や海西郡の方は大丈夫なのか。留守を狙って……」
「伊勢・志摩のことなら心配無用。連中、今は九鬼というやんちゃが過ぎる地頭を、伊勢国司の力を借りた他の地頭が攻めている真っ最中だ。海西郡どころじゃねえよ」
言い方が早速砕けて来た。
海の男とは、こういうものだと言われればそれまでだが、どうもその物腰から、馴れ馴れしいというか無遠慮な感じがする。
尾張の海、伊勢湾を押さえているのは自分であるという誇りにして、驕りか。
「成る程……道理で氏真どのでなく、おれにも出ろというわけだな、あの海道一の弓取りが」
こういう男の相手は、氏真ではいささか荷が重いということだろう。
氏真は貴公子であり驕ることはないが、そこが付け込まれるかもしれないといったところか。
「何か言ったか?」
「いや別に」
澄ました顔で氏康は服部党への水先案内を頼んだ。
服部友貞は「ま、いいだろう」と胸を張って答えた。
実に偉そうな態度であり、これならあの信長包囲網とやらの時、ちっとも動かなかったというのも納得がいく。
「……この時期、この海は荒れる。服部党がいて、良かったな」
「……たしかに、荒れそうだな」
氏康がはるか西に目を向けると、黒雲が広がりつつあるのが、見えた。
*
尾張。
沓掛。
沓掛城の近くのその田んぼのそばに。
その小屋はあった。
小屋の中には、三人ほどの人影が。
そのうちひとつの影が「出てくる」と述べる。
「……また、田んぼの中で見るのですか、政綱どの」
「……ああ」
政綱――簗田政綱は、織田信長の「輿を探せ」という命を受け、かねてから用意していたこの忍び小屋に入った。
この忍び小屋は、沓掛城が織田から今川に転向した時に設置した。
その時は、いずれこのような大攻勢が来るとは考えず、ただ単に沓掛城とその出入りを探るため、という狙いだった。
だが今や、この忍び小屋の役割は大きく変化を遂げ、今川の大軍の、その流れに乗ってやって来る輿――斯波義銀の動向を把握するための重要拠点と化した。
「…………」
政綱は忍び小屋の扉の陰から周囲を窺う。
誰もいない。
出るか。
俊敏な動作で忍び小屋を出た政綱は、瞬時に田んぼに――泥田の中に滑り込み、そしてそのまま泥の中にその姿を溶け込ませた。
口に藁の管をくわえ、稲の中に紛れ込ませ、息を吸う。
そして時折顔を上げ、沓掛の城を見るのだ。
泥中の目で。
凝と。
凝と。
……もうこんな観察行動を何日もつづけている。
いや、何日経ったかは忘れた。
ある日、木綿藤吉と前田利家が合流したことぐらいは覚えているが、それ以外、目立った出来事は無い。
定期的に、太田又助がこの忍び小屋と清州城を報告に行き来しているが、それも又助に任せており、自身はこの観察行動に傾注、否、没入している政綱であった。
「…………」
忍び小屋はひとつではなく、あといくつかあるが、そのうちのひとつに、毛利新介と毛利長秀がこもっている。
彼らもまた、息をひそめて見守っているだろう。
おれは――おれたちは、目だ。
織田信長の、否、織田家という生き物の、目だ。
政綱は最近、自分たちのことをそう思うようになっていた。
そして今、織田家どころではなくて、もっと何か――織田家という生き物ではなくて、もっと巨大な何かの目なのではないか、と感じている。
「………」
その目が、這うように動いて来る群れを捉えた。
「群れ。今川か」
その群れ――今川軍の先頭には、白馬に乗った武者がいた。
「今川、義元――か」
求める相手は輿の上の斯波義銀である。
白馬に乗った今川義元ではない。
だが、そこで。
織田を――今川を――そして天下を揺るがす事態が起きた。
「義元さまッ」
誰が叫んだのか、分からない。
あとで思えば、義元の護衛役、四宮左近だったかもしれない。
とにかく、その義元が。
否、白馬が。
「義元さま! 馬から、馬から、お降りくだされえッ」
義元の白馬が小刻みに震え出したかと思うと、ついに何かに耐えかねたのか、棹立ちになって後ろ足のみで立ち上がった。
義元はかねてからの疲労のせいか、その馬の首に抱きつくしかできない。
その時、政綱の泥中の目は、白馬の鞍から何かの葉が舞い落ちるのを見たが、気にしている場合ではない。
「義元さま!」
沓掛城の城門から、ひとりの若武者が飛び出して来た。
若武者の兜には、三つ葉葵の紋が。
あれは、松平元康か。
元康は必死になって白馬の手綱を握ろうとする。
「それがしが馬を押さえまする! 義元さま、お降りを! 誰か、誰か、義元さまを」
落ちてくる義元さまを受け止めてくれ、と元康は言おうとしたが、遅かった。
義元の手が馬首から滑り落ち。
義元の体も地へ。
そして。
義元は。
地上に。
激突した。
「がはあッ」
「義元さま!」
それでも義元は、頭から落下することはかろうじて避けた。
避けたが、その代わり。
「あ、足が……痛ッ」
義元は足を挫いてしまった。
これではもう、馬に乗れない。
これ以上行軍をつづけるというのなら、馬ではなく、何か別のものに乗るしかない。
「だ……誰かッ! 誰かッ!」
元康は叫ぶ。
「誰かッ! 輿は無いかッ! 輿は無いのかッ!」
――と。
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