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第十三部 策謀の国
74 静かなる戦い 後編
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静まり返っていた。
どこまでも、静まり返っていた。
稲葉山城。
城主の間。
一色義龍は、ついこの間まで美濃すべての主であった。国主であった。
だが今。
「東美濃に中美濃、北美濃……みんな予の言うことを聞かぬだと!?」
東美濃はまだいい。
元々、武田の手が伸びていた。
苗木城主・遠山直廉が五百の兵を率いて尾張に向かったというが、よくよく考えてみたら今川軍四万五千に比べれば、雀の涙程度でしかない。
むろん、今川義元としてはご自慢の「双頭の蛇」に蟻の一穴たりとも許せないという気持ちもあるだろう。
だが、しょせんはその程度なのだ。気持ちだけだ。
しかし中美濃、北美濃はいかにもまずい。
これでは義龍の領土の大半が離れたに等しい。
その中美濃と北美濃を影響下にしている長井道利。彼は、斎藤道三の「弟」であることばかりが着目されるが、元々、長井家というのは、美濃の守護又代(つまり、尾張で言うと坂井大膳の立ち位置)の家柄である。
それが離反を表明したことは、美濃国内にかなりの影響を及ぼしている。
それこそ、一色などという出来星のような家よりもよほど、ずっと。
「う……ぬ……」
そのうなり声が、義龍の発した、せめてもの抵抗である。
「双頭の蛇」のひとつの「頭」として出兵すれば。
尾張という共通の目的のために、皆が兵を出せば。
しかも、あの今川義元が音頭を取っているのだ。
「あと少し……今少し……何故皆……待てないのか!」
それは――義龍が「あと少し」あるいは「今少し」を理由にして、国内の統治やら調整やらを怠って来た結果ではないか。
それが、その場にいる義龍以外の者、すなわち安藤守就、氏家直元、稲葉良通――竹中半兵衛の共通する思いである。
「とにかく」
茫然自失の状態の義龍では、もうこの場は仕切れないとばかりに、安藤守就が口を開く。
「この状況、何とかしないと尾張をどうこうするどころではない。国が――美濃が亡ぶ」
直元と良通もうんうんとうなずき、そして凝と半兵衛を見た。
「貴殿――貴殿が今のこの状況を作り上げたのだろう? いや、韜晦はもう良い。それよりも――作り上げた貴殿ならば、何とかできよう」
守就らの、いわば期待のこもった言葉に、半兵衛は黙然としていたが、やがて国譲り状を手に取り、おもむろに引き裂いた。
「な……なっ!?」
義龍が目を剥く。
そんなことをしてどうするのか、と言いたいらしく、口をぱくぱくとしている。
「さよう――この半兵衛、すべてとは言いませぬが、今の美濃のこの状況、作り上げてござる」
そして今、この状況を止めまする、と言って、半兵衛は国譲り状だった紙をさらにびりびりと千切って、投げ放った。
舞い散る紙吹雪に、誰もが茫然とした。
いち早く自分を取り戻すことに成功した守就が、それで良いのかと半兵衛に聞いた。
「それとは……?」
「それとは、それだ。国譲り状! いいのか、それで……おそらく信長さまなり帰蝶さまなりに……」
「今のも含めて、託されておりまする」
にべもなく言い放つ半兵衛。
そして彼の言うとおり、帰蝶と、そして信長は、国譲り状をこれはという人物に託す時、その始末も任せるという判断をしていた。
このことに半兵衛はいたく感心したが、「それで貸し借り無し。織田と半兵衛さまは、それでお互い知らぬ仲に戻りましょう」と帰蝶は断言した。
国譲り状を持っていては、美濃で狙われる立場になる。
ならばそれを成したあとは、国譲り状を破り捨て、織田とは知らぬ関係になった方が、半兵衛のためになる。
……そういう意味での判断だった。
「――さて、苗木城の方でござるが」
半兵衛は内心の想いについて、毛ほども洩らさぬほどの平静さで話をつづけた。
「これは遠山直廉どのが戻れば、直廉どのに城を戻すように話がついておりまする」
そうすれば、苗木城は武田と一色双方への両属状態に戻り――つまりは元の鞘に収まる。
「付け加えて申し上げますと、遠山直廉どのは、尾張にて、苗木勘太郎なる名乗りを名乗りまする。織田と今川――そのせめぎ合いにて、どちらに転んでも、そのどちらにもつけるように動くよう、これも話がついておりまする」
ゆえに、今川が尾張を制した場合、美濃の一色としては「双頭の蛇」のひとつの「頭」としての役割を果たしたかたちを取れる。
「だ、だが」
ここで一色義龍が自失から回復する。
今や、半兵衛にすがるように目を向け、口を開く。
「……だが、明智城の長井道利はどうするのだ? あれこそ、武田の調略の最たるものぞ。今さら、一色に戻れなどと……」
「いえ、それは」
東美濃の遠山直廉が苗木城に帰れば、連動して日根野弘就は解放される。
つまり、日根野弘就の軍は「復活」するのだ。
「だ、だが。いかに日根野が戻ったとて」
「そこで国譲り状を破り捨てました」
半兵衛は西美濃三人衆の安藤守就、氏家直元、稲葉良通を見る。
守就は「あっ」と叫んだ。
「そうか……われらが渋っていた理由、国譲り状は、もはやこの世に存在しない」
「さよう……西美濃三人衆と日根野どの、そして義龍どのの旗本らが合わされば、いかに長井どのとはいえ、うかうかといくさに出られませぬ」
感心したようにうなずく西美濃三人衆だが、そこで稲葉良通があることに気づいた。
「いや、そういえば武田は? 先ほどの話だと、長井どのは武田の援軍を期待しておられるとのこと」
「その場合、武田は兵を出しまするが……東美濃のあたりで『遠い』と言って引き返すようでござる」
「…………」
東美濃には苗木城がある。
そしてその時点では、苗木城に遠山直廉が戻っている頃で、武田と一色両属の遠山としては、一色に利することのない、武田の援軍を通すわけにはいかない。
「信玄公としては、遠山どのの顔を立て……なおかつ、遠山どのに『そこまでしたのだから』と、より取り込もうとなさるおつもりでござろうが、これはもはやどうにもなりませぬ……」
元々、東美濃は武田の勢力圏内という認識がある。
それならば、まだ中美濃と北美濃を守った方が良い。
半兵衛のその判断に、まず破顔したのは安藤守就である。
「わっはっは! 面白い! 実に面白いのう! ……ところでおぬし、独り身か?」
「……は?」
安藤守就はこの日、竹中半兵衛を唖然とさせるという偉業を達成した。
そして次に、愕然とさせるという偉業も達成する。
「……おい、どうなんだ? それぐらいは、教えてくれてもいいだろう?」
「……独り身ですが」
それが何か、と言いたげな半兵衛の視線を受けて、守就はにやりと笑った。
「気に入った。おぬし、おれの娘を娶っていいぞ」
「……は?」
半兵衛が愕然とした表情をした隙を衝いて、守就は半兵衛の肩を抱く。
……かつて、斎藤道三が半兵衛に組み付いた時のような、そんな感じに。
「……いいから娶っておけ。お前のためだ」
守就はささやく。
これほどの騒動を起こした以上、おとがめなしでは済まされぬ。
ならば、西美濃三人衆の身内となっておけば。
「……そこの一色義龍なる男が、何を言っても、もう、手も足も出せぬわい」
「…………」
……こうして、竹中半兵衛は安藤守就の娘を娶った。
やがてその縁により、のちに半兵衛は、守就と共に稲葉山城を攻め取ることになるが、それはまた別の話である。
*
尾張。
苗木勘太郎を名乗る遠山直廉は、一路、尾張まで至ると、すぐに出迎えを受けた。
「わざわざのお越し、痛み入る」
何と、織田信長当人の出迎えである。
直廉としては恐れ入るしかない。
「まさか、信長さま自ら」
「うむ。で、早速であるが」
信長は尾張の地図を取り出し、志賀・田幡の地にて陣を構えていただきたいと言った。
「ここはかつて……安藤守就どのが村木砦の戦いの時に陣を張った場所。ここで、ご随意に動いていただきたい」
ここまでは真田幸綱に教えられたとおりである。
だが信長は、それ以上のことを言い出した。
「なお、予の妹をひとり、お預けしたい」
「……え?」
「どうせ、今川が攻めてきたら、亡国の憂き目に遭うのだ。それならば、今のうちに生き延びる道をつけてやりたい」
直廉が預かってくれれば、もし今川が尾張を攻め取ったとしても、武田との縁を言い立てて、信長の妹は生き残ることができよう。
信長はそう言いたいのだ。
しかし、受け取りようによっては、信長の妹を娶ってくれと言っているようなものである。
つまり。
「安藤どのと同じく……留守居役を務めてくれるとありがたい、ということじゃ」
「……はあ」
何だか話がちがうような気もするが、直廉も妹を任せるとまで言われて、悪い気はしない。
少なくとも、織田と今川の決着がつくまでは、ここで睨みを利かせるか、と思った。
*
信長が清州に戻ると、帰蝶が茶を点ててくれた。
「……美濃の方は、どうやらうまくいきそうです」
竹中半兵衛から「以後、お互いの連絡は不要」と告げて来た。
為すべきことを為し、再び一色の臣に戻るとのことらしい。
「濃、国譲り状は本当にあれで良かったのか」
濃とは美濃から来た帰蝶の愛称である。
信長は、帰蝶の美濃の時代を象徴する国譲り状――父である斎藤道三の手紙を破り捨ててしまうことになり、帰蝶の心情に思いやったのだ。
「……ええ」
たしかに残念であり、亡き父を偲ぶ縁が失われたのは惜しいと帰蝶は思ったが、それ以上に、亡き父の「想い」を果たす方が、よほど良いと感じ、そう決めたのだ。
その方が――よほど斎藤道三の語り草となるであろう、と。
「さあ、ここまでやってしまったのです。わたしたちも、やろうではありませぬか……のちのちの、語り草となるべきことを」
「……で、あるか」
信長は茶碗を傾けて、帰蝶の点てた茶をじっくりと味わうと、立ち上がった。
「……よし! 斯波義銀を、輿の上の敵を討ち、今川義元の度肝を抜いてやる! 濃、軍議ぞ! 皆も集まっておる!」
「……はい!」
帰蝶もまた立ち上がり、信長と共に城主の間へと向かった。
……輿の上の敵を討つ。
その戦略が正しかったことは、のちの歴史が証明している。
ただし、信長と帰蝶はこの時点では思いも至らなかった。
その輿の上の敵が、つまり誰が輿に乗るか、ということを。
どこまでも、静まり返っていた。
稲葉山城。
城主の間。
一色義龍は、ついこの間まで美濃すべての主であった。国主であった。
だが今。
「東美濃に中美濃、北美濃……みんな予の言うことを聞かぬだと!?」
東美濃はまだいい。
元々、武田の手が伸びていた。
苗木城主・遠山直廉が五百の兵を率いて尾張に向かったというが、よくよく考えてみたら今川軍四万五千に比べれば、雀の涙程度でしかない。
むろん、今川義元としてはご自慢の「双頭の蛇」に蟻の一穴たりとも許せないという気持ちもあるだろう。
だが、しょせんはその程度なのだ。気持ちだけだ。
しかし中美濃、北美濃はいかにもまずい。
これでは義龍の領土の大半が離れたに等しい。
その中美濃と北美濃を影響下にしている長井道利。彼は、斎藤道三の「弟」であることばかりが着目されるが、元々、長井家というのは、美濃の守護又代(つまり、尾張で言うと坂井大膳の立ち位置)の家柄である。
それが離反を表明したことは、美濃国内にかなりの影響を及ぼしている。
それこそ、一色などという出来星のような家よりもよほど、ずっと。
「う……ぬ……」
そのうなり声が、義龍の発した、せめてもの抵抗である。
「双頭の蛇」のひとつの「頭」として出兵すれば。
尾張という共通の目的のために、皆が兵を出せば。
しかも、あの今川義元が音頭を取っているのだ。
「あと少し……今少し……何故皆……待てないのか!」
それは――義龍が「あと少し」あるいは「今少し」を理由にして、国内の統治やら調整やらを怠って来た結果ではないか。
それが、その場にいる義龍以外の者、すなわち安藤守就、氏家直元、稲葉良通――竹中半兵衛の共通する思いである。
「とにかく」
茫然自失の状態の義龍では、もうこの場は仕切れないとばかりに、安藤守就が口を開く。
「この状況、何とかしないと尾張をどうこうするどころではない。国が――美濃が亡ぶ」
直元と良通もうんうんとうなずき、そして凝と半兵衛を見た。
「貴殿――貴殿が今のこの状況を作り上げたのだろう? いや、韜晦はもう良い。それよりも――作り上げた貴殿ならば、何とかできよう」
守就らの、いわば期待のこもった言葉に、半兵衛は黙然としていたが、やがて国譲り状を手に取り、おもむろに引き裂いた。
「な……なっ!?」
義龍が目を剥く。
そんなことをしてどうするのか、と言いたいらしく、口をぱくぱくとしている。
「さよう――この半兵衛、すべてとは言いませぬが、今の美濃のこの状況、作り上げてござる」
そして今、この状況を止めまする、と言って、半兵衛は国譲り状だった紙をさらにびりびりと千切って、投げ放った。
舞い散る紙吹雪に、誰もが茫然とした。
いち早く自分を取り戻すことに成功した守就が、それで良いのかと半兵衛に聞いた。
「それとは……?」
「それとは、それだ。国譲り状! いいのか、それで……おそらく信長さまなり帰蝶さまなりに……」
「今のも含めて、託されておりまする」
にべもなく言い放つ半兵衛。
そして彼の言うとおり、帰蝶と、そして信長は、国譲り状をこれはという人物に託す時、その始末も任せるという判断をしていた。
このことに半兵衛はいたく感心したが、「それで貸し借り無し。織田と半兵衛さまは、それでお互い知らぬ仲に戻りましょう」と帰蝶は断言した。
国譲り状を持っていては、美濃で狙われる立場になる。
ならばそれを成したあとは、国譲り状を破り捨て、織田とは知らぬ関係になった方が、半兵衛のためになる。
……そういう意味での判断だった。
「――さて、苗木城の方でござるが」
半兵衛は内心の想いについて、毛ほども洩らさぬほどの平静さで話をつづけた。
「これは遠山直廉どのが戻れば、直廉どのに城を戻すように話がついておりまする」
そうすれば、苗木城は武田と一色双方への両属状態に戻り――つまりは元の鞘に収まる。
「付け加えて申し上げますと、遠山直廉どのは、尾張にて、苗木勘太郎なる名乗りを名乗りまする。織田と今川――そのせめぎ合いにて、どちらに転んでも、そのどちらにもつけるように動くよう、これも話がついておりまする」
ゆえに、今川が尾張を制した場合、美濃の一色としては「双頭の蛇」のひとつの「頭」としての役割を果たしたかたちを取れる。
「だ、だが」
ここで一色義龍が自失から回復する。
今や、半兵衛にすがるように目を向け、口を開く。
「……だが、明智城の長井道利はどうするのだ? あれこそ、武田の調略の最たるものぞ。今さら、一色に戻れなどと……」
「いえ、それは」
東美濃の遠山直廉が苗木城に帰れば、連動して日根野弘就は解放される。
つまり、日根野弘就の軍は「復活」するのだ。
「だ、だが。いかに日根野が戻ったとて」
「そこで国譲り状を破り捨てました」
半兵衛は西美濃三人衆の安藤守就、氏家直元、稲葉良通を見る。
守就は「あっ」と叫んだ。
「そうか……われらが渋っていた理由、国譲り状は、もはやこの世に存在しない」
「さよう……西美濃三人衆と日根野どの、そして義龍どのの旗本らが合わされば、いかに長井どのとはいえ、うかうかといくさに出られませぬ」
感心したようにうなずく西美濃三人衆だが、そこで稲葉良通があることに気づいた。
「いや、そういえば武田は? 先ほどの話だと、長井どのは武田の援軍を期待しておられるとのこと」
「その場合、武田は兵を出しまするが……東美濃のあたりで『遠い』と言って引き返すようでござる」
「…………」
東美濃には苗木城がある。
そしてその時点では、苗木城に遠山直廉が戻っている頃で、武田と一色両属の遠山としては、一色に利することのない、武田の援軍を通すわけにはいかない。
「信玄公としては、遠山どのの顔を立て……なおかつ、遠山どのに『そこまでしたのだから』と、より取り込もうとなさるおつもりでござろうが、これはもはやどうにもなりませぬ……」
元々、東美濃は武田の勢力圏内という認識がある。
それならば、まだ中美濃と北美濃を守った方が良い。
半兵衛のその判断に、まず破顔したのは安藤守就である。
「わっはっは! 面白い! 実に面白いのう! ……ところでおぬし、独り身か?」
「……は?」
安藤守就はこの日、竹中半兵衛を唖然とさせるという偉業を達成した。
そして次に、愕然とさせるという偉業も達成する。
「……おい、どうなんだ? それぐらいは、教えてくれてもいいだろう?」
「……独り身ですが」
それが何か、と言いたげな半兵衛の視線を受けて、守就はにやりと笑った。
「気に入った。おぬし、おれの娘を娶っていいぞ」
「……は?」
半兵衛が愕然とした表情をした隙を衝いて、守就は半兵衛の肩を抱く。
……かつて、斎藤道三が半兵衛に組み付いた時のような、そんな感じに。
「……いいから娶っておけ。お前のためだ」
守就はささやく。
これほどの騒動を起こした以上、おとがめなしでは済まされぬ。
ならば、西美濃三人衆の身内となっておけば。
「……そこの一色義龍なる男が、何を言っても、もう、手も足も出せぬわい」
「…………」
……こうして、竹中半兵衛は安藤守就の娘を娶った。
やがてその縁により、のちに半兵衛は、守就と共に稲葉山城を攻め取ることになるが、それはまた別の話である。
*
尾張。
苗木勘太郎を名乗る遠山直廉は、一路、尾張まで至ると、すぐに出迎えを受けた。
「わざわざのお越し、痛み入る」
何と、織田信長当人の出迎えである。
直廉としては恐れ入るしかない。
「まさか、信長さま自ら」
「うむ。で、早速であるが」
信長は尾張の地図を取り出し、志賀・田幡の地にて陣を構えていただきたいと言った。
「ここはかつて……安藤守就どのが村木砦の戦いの時に陣を張った場所。ここで、ご随意に動いていただきたい」
ここまでは真田幸綱に教えられたとおりである。
だが信長は、それ以上のことを言い出した。
「なお、予の妹をひとり、お預けしたい」
「……え?」
「どうせ、今川が攻めてきたら、亡国の憂き目に遭うのだ。それならば、今のうちに生き延びる道をつけてやりたい」
直廉が預かってくれれば、もし今川が尾張を攻め取ったとしても、武田との縁を言い立てて、信長の妹は生き残ることができよう。
信長はそう言いたいのだ。
しかし、受け取りようによっては、信長の妹を娶ってくれと言っているようなものである。
つまり。
「安藤どのと同じく……留守居役を務めてくれるとありがたい、ということじゃ」
「……はあ」
何だか話がちがうような気もするが、直廉も妹を任せるとまで言われて、悪い気はしない。
少なくとも、織田と今川の決着がつくまでは、ここで睨みを利かせるか、と思った。
*
信長が清州に戻ると、帰蝶が茶を点ててくれた。
「……美濃の方は、どうやらうまくいきそうです」
竹中半兵衛から「以後、お互いの連絡は不要」と告げて来た。
為すべきことを為し、再び一色の臣に戻るとのことらしい。
「濃、国譲り状は本当にあれで良かったのか」
濃とは美濃から来た帰蝶の愛称である。
信長は、帰蝶の美濃の時代を象徴する国譲り状――父である斎藤道三の手紙を破り捨ててしまうことになり、帰蝶の心情に思いやったのだ。
「……ええ」
たしかに残念であり、亡き父を偲ぶ縁が失われたのは惜しいと帰蝶は思ったが、それ以上に、亡き父の「想い」を果たす方が、よほど良いと感じ、そう決めたのだ。
その方が――よほど斎藤道三の語り草となるであろう、と。
「さあ、ここまでやってしまったのです。わたしたちも、やろうではありませぬか……のちのちの、語り草となるべきことを」
「……で、あるか」
信長は茶碗を傾けて、帰蝶の点てた茶をじっくりと味わうと、立ち上がった。
「……よし! 斯波義銀を、輿の上の敵を討ち、今川義元の度肝を抜いてやる! 濃、軍議ぞ! 皆も集まっておる!」
「……はい!」
帰蝶もまた立ち上がり、信長と共に城主の間へと向かった。
……輿の上の敵を討つ。
その戦略が正しかったことは、のちの歴史が証明している。
ただし、信長と帰蝶はこの時点では思いも至らなかった。
その輿の上の敵が、つまり誰が輿に乗るか、ということを。
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