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第十三部 策謀の国

72 静かなる戦い 前編

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 今川義元より「委細承知。武田など気にせず、苗木城を攻めるべし」との書状をもらい、一色義龍は勇躍して兵を出した。
 とはいっても「本命」である尾張攻めを控えているため、半数の軍を日根野弘就ひねのひろなりに与えて、苗木城へ向かわせた。

「良いか、苗木城の遠山直廉は五百騎もの兵を出している。おそらく城は手薄。落とせるのなら、落としてしまえ」

 義龍は景気よく、そのまま日根野の城にしても良いとまで言った。
 こうなると弘就は意気盛んである。

「長良川の戦いでは、大桑城おおがじょうで竹中半兵衛に空城の計でが……見ていよ、その汚名、返上してくれる」

 義龍の言ったとおり、苗木城は城主である遠山直廉と主力の将兵が不在だ。力攻めに攻め立てれば、赤子の手をひねるがごとく、造作もなく落ちよう。

「それに、いくら何でも……あの今孔明・竹中半兵衛に匹敵する知恵者が、そうそういるわけでもあるまいて」

 そう弘就が言うと、物見の兵が戻って来た。
 もうすぐ、苗木城に着く。
 それゆえに、弘就は念のためにと物見を放っていたのだ。

「どうだ、城の方は。静まり返っているか」

「……はい」

 物見の兵の回答の「間」が気になり、弘就はどうしたと問いただす。

「いえ……地元の農民らが言うには、この前、城に変な旗がかかげられていた、と」

「変な旗?」

 どこが変なんだと聞くと、物見の兵は、農民の言葉のですが、と断りを入れてから答えた。

「何でも……丸が六つで、こう……二段で、上の段に三つの丸と、下の段に三つの丸の六つの丸の旗だ、と……」

「はあ? 何だそりゃ?」

 もしや、山賊や野武士のたぐいが、苗木城を分捕ってしまったのか。
 だとすると、好機。
 盗られた城を取り返して進ぜる、という名目で、苗木城をいただこう。

「……よし、くぞ!」

 日根野弘就は馬を躍らせて、先へ進んだ。



 菩提山。
 一色義龍が苗木城へ兵を向かわせたという報に接し、菩提山の竹中半兵衛はほくそ笑んだ。

「よし。これで苗木城に美濃の耳目が集まる……そして、この隙に」

 半兵衛は文房四宝(筆、墨、硯、紙)を取り出し、一色義龍へ向けての書状を書いた。
 弾劾状である。
 豪胆にも半兵衛は単身、その弾劾状を手にして、堂々と稲葉山城の城門に現れた。

「拙者、菩提山の竹中半兵衛と申す。こちらの書状をぜひ、一色義龍さまに渡されたい」

 門番が恐れ入ったかのように平伏して受け取ると、そのまま城門の前にて鉄扇を広げてあおぎ出した。
 文句があるならいつでも聞くぞ、という姿勢である。



「何だこの書状は! 予をにしているのか!」

 稲葉山城。
 城主の間。
 一色義龍は竹中半兵衛の手による弾劾状を見て、ぶるぶると怒りに震えていた。
 その弾劾状にいわく――
 一色義龍なる者、断りもなく足利家名門・一色家の名を僭称する不届き者なり。
 そも、美濃国は斎藤道三入道利政が国主であり、その斎藤家の家督は斎藤利治に継がれている。よって、一色義龍なる者は勝手に美濃を奪った、簒奪者さんだつしゃである。
 一色義龍なる者は急ぎ、一色家の名乗りを取りやめ、偽の一色であることを認め、美濃の国も斎藤利治とそのつまである織田信長に返上すべきである。
 以上、この竹中半兵衛重治の名において宣するものである。
 なお、一色義龍なる者がこの弾劾状に従えない場合、不肖竹中半兵衛重治、天に代わりて稲葉山城を取り上げる所存――

「ふざけるな!」

 義龍はその弾劾状をくしゃくしゃにして、放り投げた。
 放り投げた先は、西美濃三人衆、安藤守就あんどうもりなり氏家直元うじいえなおもと(のちの卜全ぼくぜん)、稲葉良通いなばよしみち(のちの一鉄)が座っていた。
 彼ら三人は、ちょうど国譲り状の騒動について、話し合おうとして義龍のもとへとやって来ていて、そして、こんな騒動の最中にと兵を出せるかということを主張するつもりでいた。
 三人のうち、まず守就が弾劾状を拾って広げて読んでいる最中にも、義龍は吼える。

「何が稲葉山城を取り上げるだ! できるものなら、やってみるがいい! 慮外者め!」

「……しかし、この竹中半兵衛、かつて大桑城を空城の計にて守り抜いた今孔明という……」

 守就の言葉に義龍が噛みつく。

「だから何だと言うのだ! くだらん! それに、予が勝手に一色を名乗っておるだと! 世迷言を! 予はちゃんと公方さまより御内書ごないしょをいただいておる!」

 義龍はわざわざ、脇に置いた文箱からその書状を出して見せる。

「おお、それではちまたで嘘一色だの偽一色だのいわれているあれは……それで一蹴できますな」

「誰がそんなことを言うた! 貴様か! 貴様か!」

 恐慌状態の義龍に指を差されて、直元と良通は渋い顔をした。
 こいつはもう駄目だな。
 聞く耳を持たん。
 そういう渋い顔だった。

「とにかく」

 守就は良通に弾劾状を渡しながら、澄ました顔で言上する。

「今、その竹中半兵衛がこの稲葉山城の城門にいるそうですが、どうなさいますか?」

「どうなさいますか、だと?」

 斬れ、と言おうとした義龍だが、とどまった。
 竹中半兵衛とやら、たしか例の国譲り状を持っているはず。
 いい機会だ。
 その国譲り状を取り上げて、びりびりに引き裂いてやる。

「……呼べ」

 己の嗜虐心を象徴するがごとく、義龍は犬歯を見せながら、半兵衛を呼ぶよう命じた。



「そのほうが竹中半兵衛か」

「お初にお目にかかります」

「くだらん挨拶はいい」

 義龍は端座する半兵衛のそばにまでと歩いて行き、手を出した。

「出せ」

「出せ……とは?」

「とぼけるな。国譲り状だ。そのような代物があるからこそ、今、美濃は混乱している。ならばまず、それが本物かどうか、予自ら見分してやろう……出せ」

「言葉を返すようですが」

 半兵衛は座ったままだが、その視線はつよく、迷いがない。
 逆にめつけているのは半兵衛の方ではないか、と安藤守就あたりは思った。

「……それならばこちらの方こそ、例の『一色』と称する所以ゆえんとなった御内書ごないしょを見せていただきたい。それこそ、混乱のもとではありませぬか」

「……何だと?」

 義龍は意表を突かれたように目を見開く。
 だが、次の瞬間には、また怒気をあらわにした。

「つけあがるなよ、小僧。対等と思うな。お前は今、斬り殺されても文句を言えぬ立場……口を慎め」

 誰が国譲り状と交換で御内書を渡すものかと、義龍は吐き捨てた。
 ところが、ここで物言いが入った。
 安藤守就である。

「あいやしばらく……それがしたちも、ぜひ、その御内書を拝見いたしたく」

「何!?」

 義龍が守就の方を見ると、稲葉良通と氏家直元もうなずいている。

「そういえば、いきなり一色といわれましたが……その御内書を見せてもらっておらん」

「御内書御内書いわれても……本物を見ないことには、のう」

「…………」

 義龍は今川義元の工作により国主に祭り上げられたため、そのあたりの「一色」を称するという説明や根拠を見せないまま、これまで過ごしていた。
 そしていかに義龍であろうとも、西美濃三人衆を相手にここまで言われて、何もしないのはまずいと感じた。

「……よかろう」

 義龍は御内書を床に広げた。
 自分のの床に。

「…………」

 見に来いということか。
 あるいは、盗られないためか。
 意外と、了見の狭い奴だ。
 ……西美濃三人衆が目でそういう会話をした。

「ではこちらも」

 一方の半兵衛はというと、わりとあっさりと守就に国譲り状を手渡した。
 守就が国譲り状をと広げると、両隣の直元と良通も目を見開いて読む。
 守就も読んでいたが、そのとき、義龍の視線を痛いほど感じていた。
 寄越せ。
 破れ。
 そう言っている視線だ。

「…………」

 痺れを切らしたのか、義龍が守就らに近づこうとする。
 忍び足で。
 良通が一喝してやろうと立ち上がる。
 そこへ。

「……申し上げます!」

「……何だ」

 直元が返事をする。
 義龍がとして固まっていたからである。
 駆けつけた若党が、片膝をついてから言上する。

「明智城の長井道利さま、離反を表明しました」

「な……な、何!?」

 長井道利といえば、義龍と共に、義龍の弟の孫四郎、喜平次らを謀殺した男である。いわば義龍の共犯者であり、それなりの仲であったが、最近は道利の増長が気に食わなくなったのか、義龍から疎んじられ、遠ざけられていた。
 それが。

「以後、武田につくと申しております」

「ば、ばかな!」

「……これはこれは」

 わざとらしく驚いたふりをする半兵衛。
 義龍は半兵衛を睨みつけた。

「貴様か! 貴様のしわざか!」

「これはしたり。拙者のような城主に、どうやって武田を動かすことができようか。いわんや、長井どのを」

「……く。ならばもう良い! こうなったら仕方ない……日根野だ! 日根野弘就を呼び戻せ!  そして西美濃三人衆! 汝らもだ! 汝らと日根野の兵で、明智城の長井を挟み撃ちにせよ! しかるのちに余勢をかって尾張を……」

「その、日根野さまですが」

 ここで若党が発言した。
 何だ、まだいたのかという義龍の目を受けてその若党はひるんだが、守就に「言ってみよ」と励まされて、言葉をつづけた。

「何でも、戦わずして勝つと称して、苗木城をしばらく囲むことにした、と使いの者を寄越しました」

「何だと!」

 そう言ってわなわなと震える義龍の背を、半兵衛はただじっと見ていた。
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