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第三章 夢幻の章  第十二部 必勝の策

70 始まりの終わり

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 尾張守護・斯波義銀しばよしかねの傲慢は、目に余るものであった。
 尾張国主・斯波家の特権だといって、輿こしを新しいものにせよ、輿を担ぐ輿舁こしかきも、見目麗しい者にせよと、要求が度を越えていた。
 それは今川義元に結果ではあるが、今川家の誰もが苦虫を噛み潰したような顔で接していた。
 義元自身も閉口していたが、「斯波義銀による尾張奪還」を名目として使うため、下手なことを言えなかった。
 そこへ津々木蔵人つづきくらんどがやって来たわけである。
 義銀は最初、誰かといぶかしんでいたが、髭と髪が無かった頃の蔵人を面影を感じたのか、ようやくにして「おお、そのほうか」と言った。
 言ったが、手にした酒杯を下ろすことはなく、「久しいの」と儀礼的な台詞を口にし、再び関心を両隣にはべらした女たちに戻した。
 蔵人は冷めた目でその義銀を見て、言った。

「武衛さま」

 武衛。それは兵衛府の唐名である。
 斯波家の当主は左兵衛督さひょうえのかみあるいは左兵衛佐さひょうえのすけとなる。そのため斯波家は、兵衛府の唐名である武衛の家と呼ばれる。
 つまり蔵人は武衛と呼ぶことにより、義銀の足利家の名門としての美意識を喚起したのだ。

「おうおう、その呼び名、武衛……たれも予をそう呼んでくれなかったが、おぬしはそう呼んでくれるか」

「さよう。こたびの尾張入り、斯波家としての面目の回復も意味しております。なにとぞ、武衛という名に思いを致し、その名を惜しまれませ」

「うむ、うむ」

 義銀は機嫌よくうなずいているが、女に回した手を外すことは無い。
 つまるところは、名門として誇ることも、酒や女に手を出すのも、みんな義銀にとっては同じ娯楽なのだ。
 蔵人は心の中でため息をついた。
 たとえばかつての主君・織田信行は欠点もあったが、少なくとも酒や女に入れあげることは無かった。蔵人という寵臣に乗じられることもあったが、織田家を背負って立とうという気持ちを持っていた。
 そして兄・信長に負けたら負けたで、その負けを認めるだけの度量はあった。
 それが、どうだ。
 これではこの斯波義銀が織田信長に下剋上されてしまうのもうなずける。
 だがしかたない。
 蔵人は、浮野の戦いで戦場というものを知った。
 そしてその戦場にて、常に陣頭に立って戦う、今川義元の偉大さを知った。
 蔵人の父・今川氏豊といういわば負け犬の世話までしてくれた。
 当初、父の失った那古野城を取り返すという復讐で動いてきていた蔵人だが、ここ数年で心境に変化が生じた。
 すなわち、義元の覇業を、育ての親たる今川義元のなすべきことを、自らも後押ししたい。できれば、そのあとを追って、自分も戦いたいと思うようになっていた。
 そのためには。

「うわっははは! 今川の兵を用い、大軍をもって一戦すれば、織田など恐るるに足らず!」

 その大軍は、お前のではない。
 今川義元のものだ。
 だが今は、その義元の邪魔をさせないよう、自分がやらねば。

「おそれながら、武衛さまにおかれましては、そのまでは英気を養われたし。今川義元との連絡つなぎは、拙者がいたしましょう」

「そうか、そうか」

 この斯波義銀は、おそらく今川義元のを知っている。
 何かのはずみに、を口にして、義元を激怒させてはならない。
 この大、義元にはなるべく冷静に、そしていつものように大胆でなければならない。
 そのためには、この愚かな・尾張守護と偉大なる海道一の弓取りとの間の、壁となろう。
 それが自分の戦いだ。

「それではまず武衛さま……」

 蔵人の戦いが始まる。



 清州城。
 織田信長は、先の政秀寺での軍議のあと、精力的に政務に取り組んだ。その下で、森可成もりよしなりや河尻秀隆といった家臣たちは、来たるべきに備えて、将兵の調練にいそしんだ。
 帰蝶の方はというと、蜂須賀小六や、木綿の弟である小一郎を従えて、美濃の動きを逐一探らせていた。
 小一郎。
 のちの大和大納言、豊臣秀長である。
 この時点では、兄の木綿藤吉が大高城周辺へ出張っているため、木綿が代役として推薦して、小六の下についた。
 その小一郎に帰蝶は問う。

「美濃の、否、信濃の動きはまだですか」

 小一郎は黙って首を振った。
 信濃と言っているが、実際は甲斐の武田である。
 武田の柱・真田幸綱との一別以来、織田は織田で、今川の動静を探らせていた。
 今川義元が大軍を集めているという情報も得ている。
 だが、いつ動くか、その一点については、やはり今川の同盟国である武田からの情報が確実である。

「もう、先発隊は動いているとの話もあるぞ」

 先ほど、信長に湯漬けを出している時、そんなことを言っていた。
 もっとも信長本人は、今川の間者があることないこと広めているので、そのひとつだろう、とも言っていたが。

「幸綱どのは、と分かる方法で教えるとおっしゃっていたが……」

 そこへ、どたどたという足音が聞こえ、小六が場に乱入して来た。

「お、お方さま」

「どうしました」

「落ち着いて下され」

「落ち着くのはあなたです、小六。どうしました」

 そこで小一郎が水を出すと、小六はそれをがぶがぶと飲み、ふうと息をついてから、言った。

の苗木城の遠山直廉とおやまなおかど、『尾張に向かう』と称し、兵を集めている模様。その数、五百騎余り!」

「東美濃」

 たしか、幸綱は武田が手を伸ばせるのは東美濃がせいぜいと言っていた。
 その東美濃でこの動き。
 これは。

「今川が動く……そういうことですか! こうしちゃいられない!」

 帰蝶は立ち上がって、信長のいるはずの城主の間へと駆けて行った。

「だから、落ち着いてと……」

 まあまあと小一郎に言われて、そして小一郎と共に、帰蝶のあとを追う小六だった。



 そもそも、この時点で美濃では、「あるうわさ」が広まっていた。

「前の国主の斎藤道三は、娘婿の織田信長に国を譲っていた。それを書状に残していた」

「斎藤家の家督にしてからが、その娘、帰蝶に斎藤利治なる名乗りを与え、家督を継がせていた」

 という、うわさである。
 それは実際は事実であるため、かなりの信憑性を伴って、美濃国中を駆け回った。
 むろん、出どころは竹中半兵衛である。
 半兵衛はことあるごとに近隣の国人を招き、を――国譲り状を見せた。

「見よ。亡き大殿、斎藤道三入道の真筆しんぴつである」

「おお」

「さてこそ」

 半兵衛は長良川の戦いにあたり、道三の願いにより大桑城を守り抜いたという実績がある。
 その半兵衛が「実は……」と言って話すと、それは事実以上の迫真を感じさせた。
 そしてまた、最後にはこう言うのだ。

「……ところで最近、一色義龍さまの横暴、目に余ると思わないか」

「それは……」

「いや、たしかに」

 義龍はこの時、今川義元の指示通りに、双頭の蛇のひとつの「頭」として動こうと必死になっていた。
 年貢の取り立て、人員の徴発……それは、戦国大名としては当たり前の「動き」だったが、国人や農民としては「長良川の戦いは終わったのに、何でこんなに」という思いを募らせていた。
 極めつけは、南近江の六角との同盟である。
 尾張攻めに傾注するためと称して、かなりの金品の献上を伴ったそれは、そのまま国人や農民らの負担としてのしかかる。

「これでは、一色義龍さまが国主になったとして、われら味方した国人に、何のうま味も無いではないか」

「というか、大殿・斎藤道三さまが国主だった頃が、まだマシだった。少なくとも、尾張とは和睦して、平和だったし、年貢もだった」

 そこで半兵衛が手に持つ国譲り状に着目が集まるのである。



「世迷言を! 何だその国譲り状とやらは!」

 稲葉山城。
 一色義龍はえた。
 彼とて、今の状態が治政として万全と言えないことぐらい、承知している。
 だがそれも、すぐ終わるのだ。
 今川義元が尾張を制すれば、尾張方面からの負担から解放される。
 信濃方面、つまり東美濃で怪しい動きを見せている武田についても、掣肘されよう。
 そして南近江方面は、出費は痛かったが、六角と同盟ができた。
 だから、今川義元が尾張に来さえすれば、美濃は安泰なのだ。

「あと、少しじゃ。あと少しで今川さまが動く。さすれば……」

 実は、義龍には今川義元からすでに書状が来ている。
 いついつに出陣する、という旨の書状が。
 その書状を見て、義龍はくらい目をした。

「……いっそのこと、兵を出すか」

 どちらにせよ、今川義元の出陣と共に、一色こちらも出陣するつもりだ。
 それならばいっそのこともう出陣し、竹中半兵衛を血祭りにあげ、そしてそのまま尾張へと向かうか。

「そうだ。そうしよう」

 思いつくと、それが名案に思えた。
 義龍は早速に、日根野弘就ひねのひろなりに命じて、兵を集めさせた。
 だがその時。

「苗木城の遠山直廉とおやまなおかどが!?」

 その報が入った。
 義龍の脳内で、遠山直廉と、例の国譲り状が結びつく。

「もしや……遠山直廉は、織田信長こそ美濃の国主と……」

 日根野弘就が、いかがなさいますかと問う。
 義龍は苛立つ。

「ええい! 今考えておる! どうするか……竹中半兵衛か、遠山直廉か……そ、そうだ、義元さまに……」

 義龍は、今川義元の指示を仰ぐことにした。
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