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第三章 夢幻の章 第十二部 必勝の策
69 出陣、そして
しおりを挟む駿府。
今川義元はその報に接し、いささか自分に都合の良すぎる展開に、かえって戸惑った。
「大高城の兵糧が無い?」
最初は、小競り合いだったと聞く。
そのうちに、織田が砦を築いた。
丸根・鷲津の砦を。
そこから、また小競り合いかと思ったが。
*
「連絡ができない?」
大高城主にして、義理の弟である鵜殿長照(義元の妹が妻であるため)から、何の連絡も入らない、逆にこちらからの使いや文も送れない、つまり……封じ込められているとのことがわかった。
「さて、どうするか」
開戦の口実としては、少々弱い。封鎖して連絡を断っている、というだけでは。
「大高城の方から何とか突破できぬのか。今川の名折れぞ」
単に封じられた、だけでは今川が戦わずして負けを認めているような雰囲気となる。
こういう雰囲気というのは、あっという間に将兵に伝染して、いくさに影響が出る。
義元としては、そこを憂慮した。
そうこうするうちに、五月になった。
季節は梅雨、雨期である。
織田信長の鉄砲対策として、義元は雨期開戦を目論んでいたが、こういう雰囲気のままではどうか、と考えあぐんでいたところ、珍しくも大高城の鵜殿長照から使いがやって来た。
そこで冒頭の義元の台詞が出た、という次第である。
「彼奴ら……織田は、卑劣にも、大高城周囲の米を買い占めてござる」
ひと粒たりとも、今川に渡らないぐらいに、織田は米を買いあさった。
結果、仮に掠奪しようにも、村に米が無いという事態になった。
「そしてそれを伝えることもできず……苦しんでいたのでござった」
そこで使いは気絶した。
思った以上に、大高城は窮乏していると見える。
こうなると、雰囲気がどうこうなどと、言っていられなくなる。
むしろ、味方を救うためであると奮起を促した方が良い。
「元康はどうしているか」
義元が左右の者に聞くと、ようやくにして三河忩劇とそれにつづく三河国内の混乱を鎮定し、兵を出せる状態になった、とのことだった。
「ならば良し。何か乗せられているような気もしないではないが、好機である。兵を集めよ、いざ……いざ、出陣!」
織田としては三河忩劇がまだまだつづいていた方が良かったのだが、こうして義元の出兵の契機となったことを考えれば、まだ幸いであったと言えよう。
今川義元、出陣。
それは稲妻のように周辺諸国に伝えられ、やがてそれの結果が、この国全土を大きく揺るがすことになるが、それはまた別の話である。
とにもかくにも、今川の同盟国である相模の北条と甲斐の武田は動きを示した。
すなわち、北条は水軍の派兵、そして武田は東美濃への策動である……。
*
相模。
小田原。
北条水軍を率いる北条氏康は、珍客に遭遇していた。
自ら水軍を引き連れて来た今川氏真である。
「義父上、こたびはよろしゅう」
「いくら今川の要請とはいえ、よくぞ自ら……」
「これくらいの礼を示さねば、虎の子の水軍を出したくないでしょう……この雨の季節に」
「……雨」
そういえば、今川義元は織田信長の鉄砲を警戒していた。
そして鉄砲と、双頭の蛇の『胴体』たる水軍を天秤にかけた結果、鉄砲を警戒する方向で、今の季節を選んだということか。
「……まあ、父上が言うには、海路の方は少なくとも、伊勢湾にいてくれ、見せつけてくれ、とのこと」
「そうか」
伊勢湾に出現し、そのままいてくれれば、つまり見せつければ、それだけで織田は立ち往生する。
そう義元は読んでいるのだ。
織田には水軍が無い。
あったとしても、それは、今川・北条水軍に抗するだけの水軍ではない。
「だが果たして、そううまくいくだろうか……」
歴戦の猛者である氏康には、何か感じるものがあった。
しかし氏真はその氏康の危惧を払うかのように笑った。
「何とかなるのではないですか。とにかく参りましょう義父上。仔細はお任せします」
屈託のない氏真の笑みに、思わず氏康も顔をほころばせた。
まあ、この男と一緒ならば、少なくとも必死にならぬ方向でやればいい。
その点は、河越の時とちがって気楽だ。
「……では、出帆!」
北条・今川連合水軍は出帆する。
小田原の港では、留守居役を命じられた北条綱成が、氏康らを見送っていた。
*
甲斐。
古府中。
武田信玄は、かねてからの策により、まず美濃に潜伏している真田幸綱に、今川義元出陣の旨を急ぎ伝えさせた。
「勘助。その後の動きは……分かっていようの?」
「委細承知」
武田の謀臣・山本勘助は、美濃にて諜報活動をおこなっていた真田幸綱からの報告と要請により、いろいろな準備に追われる毎日を送っていた。
だがその日々も報われる。
「まずは……お館様の書状を、例のあの方に」
「うむ」
「次いで……東美濃の遠山さまに、例の命令を」
「よしよし」
信玄は立ち上がった。すると、小姓たちがわらわらとやって来て、信玄の体に甲冑をつける。
「では、行くとするか……信濃に」
今川義元に言われたとおり、信玄は信濃へと出陣し、美濃の一色義龍の後詰めを果たし、かつ、駿河への野心無きことを示すことにした。
表向きは。
*
今川義元は出陣にあたり、藤枝に寄り、長らく臥せったままの弟・今川氏豊を見舞った。
「誰も入ってはならぬ」
氏豊の屋敷には、義元ひとりで入った。
鳥小屋の百舌鳥のさえずりを聞きつつ、義元は氏豊の体の世話を終え、最後にこう語った。
「弟よ……そなたを放逐した織田を討つ。そして尾張を手に入れてみせようぞ」
だが反応は無い。
義元も別に期待して発言したわけではない。
氏豊は織田信秀の詭計により、那古野城を奪われた。その後、京へと落ち延び、窮乏の末、駿河へと舞い戻った。
舞い戻った先の駿河は花倉の乱という争乱の真っ最中で、乱の一方の雄・今川良真(義元と氏豊の兄)の手により、氏豊は毒を盛られ、このように眠ったままの状態となってしまった。
その良真も、乱のもう一方の雄・義元の手によって討たれ、花倉の乱は終結した。
だが恨みは残った。
よりによって、氏豊の子の心に。
「……おれは」
その呟きは、義元のものではない。
まるで、かつての良真のような。
そういう呪いを感じさせるような、声。
「何奴!」
義元は刀の柄に手をかけた。
すると、人払いをしているはずの屋敷の庭の一角から。
人影がぬうっと出現した。
その人影には、見覚えがあった。
「蔵人……? 蔵人ではないか」
津々木蔵人と名乗るその青年、氏豊の子は、浮野の戦い以降、行方知れずとなっていた。
義元も手を尽くして探したが、敵地・尾張での出来事であるため、結局のところ見つからなかった。
蔵人は、氏豊の子として、尾張那古野城を奪還するという執念がある。
義元としては、せめてものこととして、その執念をかなえさせるべく行動させていたが、それがついに蔵人を亡き者にしてしまったかと思っていたが。
「生きていたのか」
「……はい。こたび、伯父上の出陣の旨を聞き、馳せ参じました」
よく見ると蔵人は、かつての色男ぶりを放棄したように髭を伸ばし放題、髪も伸び放題である。
「……思うところがありまして、己をもう一度鍛え直して参りました」
「……そうか」
義元は理由を詳しく聞こうとはしなかった。
男が思うところがあると言っているのだ。
それ以上の理由は無い。
「それで蔵人よ」
「はい」
「そなた、出陣の旨を聞いてとのことだが……この義元と共に、尾張へ征きたいと申すか」
「さよう」
目をつぶって一礼する蔵人。
自然な一礼だが、覚悟のほどを伝えてくれた。
「そなたには、駿府にて留守居役を果たすという道もあると思うのだが……」
「いえ、征かせてください」
「そうか」
義元は振り返って氏豊を見た。
むろん、反応は無い。
起き上がって息子を止めろというつもりはない。
それができないのが、毒に倒れるということだ。
結局のところ、今川家の長として、あるいは甥の伯父として。
決めるのはこの今川義元である。
そして義元という男は、内なるものに突き動かされるということ――その衝動に身を委ねるということが、嫌いではない。
「よかろう」
「では」
「予の供を命ず。ちょうど、斯波義銀を御輿に、尾張の衆を連れて来たところよ……だから敢えてこの名で言うぞ、津々木蔵人よ、その尾張衆をまとめよ」
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「あの斯波義銀はな、心中、予のことを舐めておる……ゆえに、予の甥だというても駄々をこねるだけよ」
「……ゆえに、津々木蔵人のままでいろ、とのことですね。承知しました」
何故、斯波義銀が今川義元のことを舐めているのか。
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「…………」
常なら表情豊かな義元が、その時に限って、無表情だったからである。
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