輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒

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第三章 夢幻の章  第十二部 必勝の策

68 政秀寺軍議 後編

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「……蜂須賀どの、周囲の警戒を今一度お願い申す」

 簗田政綱やなだまさつなが頭を下げて頼むと、蜂須賀小六は恐れ入ったという感じでこちらも頭を下げ、「御免」と呟くと、その場から煙と消えた。
 美濃にほど近い政秀寺では、濃尾国境に拠点を持つ小六の縄張りであるとし、政綱は手下の者を連れて来なかった。それゆえに、頭を下げて頼んだ。
 一方で小六は小六で、その義理を重んじた政綱の態度に感じ入り、頭を下げた、というわけである。
 ……一同が黙したまま待っていると、いつの間にか出現し、「周囲に何も無し」とのみ告げた。

「……で、あるか」

 信長のそのとした声が話の合図となった。
 信長が声を使う。
 それだけで、どれだけ重要で、秘匿すべき話なのかが知れた。

「皆も知っていると思うが、予が上洛した時のことだ、公方さまに予の尾張の支配を認めてもらうつもりだったが……それは立ち消えとなった。今川義元の声があったせいじゃ」

 そして今川義元が声を上げた理由が、尾張守護・斯波義銀しばよしかねは死んではいない、であったという。

「予はこの点について考えた……そしてひとつの結論を得た。それは、今川義元は、尾張守護斯波義銀を奉じて尾張に入り、尾張を義銀の手に戻すという名目で、尾張をにするとう策に気づいた」

 あとは、信長自身の目で駿府で確かめたとおりである。
 義元は斯波義銀を駿府にて、これある時を待っている。
 また、山口教継と教吉が義銀の側にいたことから、他の尾張から放逐された者、逃げた者が駿府に集結していると思われた。

「……たとえば、守護又代・坂井大膳もがいるだろうな。あいつがいれば、それだけで尾張のまつりごとを ことができる」

 そして義元は、いざ尾張入りとなった時には、義銀らを連れてやって来るはずだ。
 旗印とするために。
 統治の御輿とするため。
 そしてその時、義銀は文字通り輿の上にいるのだろう。
 尾張にて輿の上に鎮座するのは、国主たる斯波家の特権であるとして。

「……以前に、予は今川の尾張乱入時には、数限りなくをしかけ、最後には幕府なり大名なりの調停を頼むつもりだと言ったな」

 実際、信長は明智十兵衛を介して、細川与一郎藤孝に織田の窮状を訴え、もし攻められた時は幕府による調停を依頼している。

「そうは言っても、相手が幕府となれば、やはり名門・今川の方が声が通るだろう……そこでだ、こうして斯波義銀が輿の上に座して登場するというのなら、それを討つという策を追加する」

 信長の策は、基本は変わらないが、まず最初に輿の上の斯波義銀を捕捉し、これを討ち、今川義元の尾張入りの大義名分と統治の理由付けを失わせる、という項目が加わった。

「元々……のみというのも、いささか不安が残るところであった。だが、これで、一戦するという芯ができた。これさえ果たせば、あとは清州にでも籠城しても良い。密約している武田も、欲をかいて今川とやり合うかもしれない」

 場の一同は沈黙しているが、それは深い感銘を受けてのことだった。
 絶対不利な状況かと思われた、今川義元の「双頭の蛇」。
 それを信長と帰蝶は丹念に分析し、対策を打ち、ついには有効な打開策まで見出してみせた。

「これなら……やれる」

「うむ、勝てるまでとはいえないが、負けない」

「うまくすれば……今川義元の首を取れるやもしれんぞ」

「そりゃあ、斯波義銀と一緒にいるだろうが……海道一の弓取りだぞ」

「そうそう、そうそう簡単に、首を取れるか」

 場が笑いに包まれた。
 この時、特に記録を取っていないため、どれが、誰のものだかは分からない。
 だが、あとになって、この会話を皆が振り返ることになる。



「そこでだ。義元が、斯波義銀という御輿を連れて来るところを押さえておく必要がある」

 信長がそこまで言ったところで、帰蝶から質問があった。

「それは……になる前に討ち果たそうとするおつもりですか?」

「いや」

 信長は首を振った。

「それをしたら、おそらく義銀の死を隠して、義銀の影武者を使う。あるいは、義銀の弟ふたりのうちひとりが行方不明だが、それをつらまえて、新たな御輿とするだけだ」

 義銀の影武者や、その義銀の弟の行方不明の方、津川義冬を今川が担いだとして、その時は今川の陣中奥深くに秘匿されるだろう。
 それこそ、今川の手引きによる清州入城という段階となって、初めて姿を現すだろう。

「そうなっては駄目だ。手も足も出なくなる。今、この時だ。今、今川義元が攻め入ってくるときにこそ……合戦にて斯波義銀を、輿上よじょうの敵を討ってしまえば」

 動かしがたい「現実」として義銀が「合戦で」死んでしまえば、さしもの義元とて、義銀の影武者を立てられなくなる。あるいは、弟の津川義冬を立てたとしても、その時は、陣中深くに隠されるであろうを「偽物」だと糾弾した上で、「織田が押さえている方の弟」を担ぎ出せばよい。

「織田が押さえている方の弟?」

 帰蝶が怪訝そうな表情をする。
 信長は、つい最近分かったことだと言った。

「毛利新介……いるだろう、馬廻うままわりの」

「ええ」

「あれの一族の毛利十郎という者がな、義銀の弟をひとり、匿っておった。今は毛利長秀というそうじゃ」

「何ですって!」

 一同の関心もそこに集中したため、信長は改めて経緯を説明した。
 信長は最近、斯波家の旧臣で、太田又助信定(のちの太田牛一)という者を召し抱えており、その信定には祐筆の仕事をやらせていた。
 そこでふと、斯波家の遺児の話になり、津川義冬の行方は分からんかと聞くと、人払いをしてくれと言われた。

「……で、義銀の庶弟、毛利長秀なる者のことを教えてくれた」

「何で今まで黙っていたのでしょうか」

「イヤおそらく……旧主への義理立てじゃろう」

 斯波家から見たら、織田家、特に信長は国主から追った仇。遺児を守るのは当然と言えた。

「そこを……太田信定は敢えてこの信長を信頼して、今川から尾張を守るためとして、教えてくれたのじゃ。責めるにはあたらぬ。むしろ、忠義の士と言えよう」

「……そうですね」

 帰蝶がそれを認めると、家臣一同の同じ想いでうなずいた。
 信長もまたうなずくと、「さて」と話題を戻した。

「そこでだが、繰り返すが、輿の上の斯波義銀、奴はおそらくまた得意げに輿の上に鎮座してやって来るだろうから、輿とでも呼ぶか……輿を押さえる。政綱!」

「はっ」

 簗田政綱は改めて拝礼し、そして口を開いた。

「そも、今川が兵を出したとして、その道筋を考えることが肝要。さてその道筋は、駿府を発し、遠江を通って三河に至る……で、三河にて、尾張を、正確には大高城をうかがうとして、どこに来るか」

 政綱はそこで迷いなく地図上の一点を指し示す。

「沓掛。この沓掛の城こそ、今川がやって来るところ。おそらくは三河の松平元康ともここで落ち合い、軍議を開き、大高城を、そして尾張をどうするか話すはず」

「……で、あるか」

 今川義元は戦うにあたって必ずや陣頭に立つであろうから、義元は沓掛にやって来るだろう。
 であれば、斯波義銀もそれに随行して、やって来るにちがいない。

「沓掛……たしか、近藤景春なるものが城主と聞いておりますが、今は例の山口教継・教吉父子の調略により、今川方の城」

 帰蝶の確認のための発言。
 政綱は大いにうなずく。

「さよう……ですがこの簗田政綱、これあるを期して、沓掛の城の周辺に、さまざまな忍び小屋を用意してございます」

 その忍び小屋――拠点から、沓掛の城に網を張り、斯波義銀を捕捉すると、政綱は言った。

「……よし」

 信長は、木綿藤吉と前田利家の方を向いた。

「木綿! 利家! その方らは大高城の兵糧の方に片が付いたら、政綱の方に合流せよ」

「ははっ」

「うけたまわりましてございます」

「これは政綱が輿を見つけるのに傾注するため、木綿に清州との連絡つなぎを頼むためである。そして利家は輿――義銀の顔をつい最近見ている。政綱を助けて、必ず、輿を見つけよ」

 信長はさらに、先ほど話題に出た毛利長秀も、簗田政綱の「組」に合流させると告げた。

「万全を期す。念には念を入れる。弟であるならば、兄である義銀を見つけられよう。それに、はいくつあっても良いからな、こういう時は」

 そして信長は帰蝶の肩に手を置いた。

「なお、美濃の方については、濃に一任する。何しろ『双頭の蛇』が相手だ。こちらも『双頭』でかからねばな」

「ですね」

 帰蝶は笑い、そして立ち上がった。

「さあこれから忙しくなりますよ! みなさん、よろしくお願いします!」

 そのかけ声をきっかけに、皆、だっと駆け出していく。
 それを見て帰蝶も走り出し、信長もそれを追いかけようとする。
 そこで信長はふと中空を見た。 

 ……寺のどこかから、平手政秀が微笑んでいるように感じたのだ。
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