輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒

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第三章 夢幻の章  第十二部 必勝の策

67 政秀寺軍議 前編

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 その日――記録には残されていないので、「その日」と記す――政秀寺は客を迎えていた。
 客はひとり、ふたりと増えていき、ある程度のまとまった人数になると、寺は門を閉じた。
 住職である沢彦宗恩たくげんそうおんは、弟子である若い僧に命じ、寺に近づく者を警戒するように命じた。
 のちに火車輪城(小牧山城)が築城される小牧山の南にある政秀寺は、濃尾平野の中央に位置し、周りを見渡すことができる。

百舌鳥もずでもいれば、飛ばしてんだけどなぁ」

 若い僧はそうひとちていたが、それは誰の耳にも入らなかった。



 政秀寺本堂。
 その客たち――織田家の面々は、そこに集まっていた。

「さて――」

 織田信長は、妻の帰蝶を隣にして、家臣たち一同と輪になって座っていた。
 車座である。
 車の中心には、地図がある。
 濃尾の地図が。

「これから話すことは、皆も知っていることもあると思う。思うが、こういうことは確認の意味もある。今さらと思っても、そこは聞いてくれ」

 信長がそう語り出すと、一同うなずいた。

「では――まず今川義元の『双頭の蛇』についてだが、これのひとつの『頭』である、美濃・一色義龍。この義龍への策として、先般、上洛の帰りにて、濃が美濃にて動いてくれた」

 それを受けて、濃、つまり帰蝶は美濃での出来事を説明した。
 菩提山城の竹中半兵衛に国譲り状を託し、が起きたら、動いてもらうことを約束してくれたこと。
 その半兵衛との会見の際に、武田家の柱である真田幸綱と邂逅し、武田の都合――織田と今川がせめぎ合うこと――により、そういう面では協力してくれると言ってくれたこと。

「……なお、半兵衛どのにおかれましては、あくまでもわが父、斎藤道三の知遇に応えるために動くのであって、織田はあずかり知らぬこととして欲しい、今回これきりで、今後はやらないと申されました」

「で、あるか」

 動いてくれるのであれば、御の字だ。
 半兵衛との関係は、また今後いろいろとあるだろうが、その時また構築すれば良いだろう。
 そう信長は考え、今は半兵衛への感謝にとどめ、次の話題へと移った。

「武田の協力だが、これがどこまでのものか、見当もつかぬ。だがそれは限られたものであり、とは分からぬものであろう……こちらとしては、美濃にを出してくれればそれで良い……ゆえに、今はそれを措く」

 実は、竹中半兵衛と真田幸綱の画策は、信長と帰蝶の予想を遥かに上回るものであるのだが、それはまた別の話である。

「……そして、だ。濃が義父上ちちうえの墓で……道三塚で会ったという老人、その正体は置いておいて、その発言は、実に示唆しさに富んだものであった」

 ――雨の降る日にすれば良い。

 そう、帰蝶の出会った老人は言っていた。
 故・斎藤道三ならそう言うだろうと韜晦とうかいしていたが、実際はその老人が雨天を狙ってをしたことがあるのだろう。

「雨天を……これじゃ。これじゃと予は思った」

 信長は、謀臣である簗田政綱やなだまさつなに目配せする。
 政綱は「では」と一言言ってから、説明を始めた。

「まず、今川の尾張への牙城ですが、これは鳴海と大高の城でござる」

 鳴海城は、信秀から信長への代替わりの際に、城主である山口教継・教吉親子が投降したため、そして大高城はその山口親子の調略により、今川の手に落ちた。

「……そういう経緯により、山口教継と教吉が入っておった両城でござるが、先般、、今川彦五郎氏真の不興をこうむったとして、城は召し上げとなりました」

 その『何らかの理由』を知る信長と前田又左衛門利家まえだまたざえもんとしいえは、目を合わせて人の悪い笑みを浮かべる。帰蝶はやれやれといった表情をして、ため息をつく。

「まったく……命知らずにもほどがあります」

「許せ、濃」

「お方さま、もっと言ってやって下さい」

「おい、裏切るのか、又左」

「大義親を滅す」

「分かった風な口をくな!」

 場が笑いに包まれたが、簗田政綱が咳ばらいをすると、しんと静まり返る。

「おほん……で、この鳴海と大高の両城には、今川から城代が入りました。鳴海には、今川家中で武勇の誉れ高い、岡部元信」

 おお、というどよめきが洩れる。
 岡部元信。
 のちに、その堅守を買われて今川滅亡時に武田家に召し抱えられ、高天神城の城将となった。そして徳川家の執拗な攻めに耐えつづけたが、最後には城外突撃を敢行して散った、悲運の勇将である。

「……しかるに、大高城には鵜殿長照。こちらは母親が今川義元の妹でござるからして……相応の人物を配置したと見えます」

 鵜殿家の領地は三河の東西を結ぶ地点にあり、今川家としては取り込みに精を出し、結果、鵜殿長照は今川家の御一門となり、義元から重用されている。

「ええ……この両城に対して、当家、織田家としては鳴海城に丹下・善照寺・中嶋の三つの砦を。大高城には丸根・鷲津の砦を設けておる。それによって、両城の連絡つなぎってござる」

「そう。それだ」

 信長は扇の先で、地図上の大高城をつつく。

「この……大高城に入りしは、いわば義元の義理の弟。その危機とあらば、救わんと出てくるだろう……あの大蛇が」

 大蛇とは言い得て妙だ、と帰蝶はと笑った。
 その大蛇は海道と尾張、そして美濃という鎌首をもたげるつもりなのだろうから。

「で……その大高城を締め上げる。締めをきつくして、雨の日……というか、雨の時期にうまく義元が出てくるようにしたい。何か、案はあるか」

 そこで信長は、家臣一同に考えを振る。
 大枠としての案は示したので、あとはその先を考えられるものに、を託そうという腹である。

「あの」

 そこで手を上げた者がいた。

「それがしにお任せいただけますか」

 木綿藤吉であった。



 木綿がまずお断りしますと言ってから、京、山崎屋おの名義で、矢銭(軍用金)の寄付があったと告げた。

「これはそれがしが台所奉行を拝命していたから知り得た話でございます。ゆえに申し上げました。そして今、この話を聞いて、それがしと同じことを思いついた方がいらっしゃったら、その方にそれ同じことをお任せしようと思います」

 木綿の言っていることは、一見、正々堂々としたものであるが、よくよく考えると、自分と同じことを思いつけるのなら、思いついてみろという挑戦的な言辞である。

「うぬ……」

 柴田勝家などは、なにくそとうなったが、それでも思いつかなかった。

「もうよい」

 木綿の意図を精確に読み取った信長は、ここで中断すべきだと判断した。
 これから木綿が申し出ることは、ある意味邪道であり、正攻法ではない。思いついても誰もやりたがらないだろう。
 だからこそ、木綿は敢えて挑戦的な言い方をした。他の家臣は、という言い訳をできるようにした。そういうをしたのだ。
 だから信長は木綿の気遣いに感謝し、もうよいと言ったのだ。
 そして。

――人間、策なんてものは大体が思いつくものだ……だが、問題はだ。ともいうがね。

 駿府で出会った相模の獅子、北条氏康はそう言った。
 なら早速にその助言に従おうではないか。
 信長はほくそ笑む。

「許す。申してみよ、木綿」

「はっ。ではおそれながら、現状での三つの砦による大高城の包囲は継続しつつ、城へのありとあらゆる連絡つなぎを断ちます」

 それはさっき聞いた、と勝家は言ったが、木綿は無視して話をつづける。

「そしてまた……城への兵糧の搬入も断ちます……というか、数を調整しましょう」

 ここで勝家の表情が固まった。傾聴に値する話のぎつけたらしい。

「どうやって調整するか? それにはまず、大高城の周囲の村々から米を買い取ります。さすれば大高城は、米を売買したり略奪したりしようにも、そのが無い」

「買い取る……だがそんな銭はどこに……この前も今川への示威といって、また最新式の鉄砲を入手したばかり……」

 利家がうなると、横にいた森可成が「木綿は最初に何と言った?」とささやく。

「……あっ」

「さよう。山崎屋おどのの矢銭。これを使いまする。矢ではなく米に」

 ちなみにおの名を出しているが、実際は堺の魚屋ととや千宗易せんのそうえきの出資である。そして宗易はのちにこの銭の使い道を知り、「さてこそ」と膝を叩いたという。

「そして……大高城に入る米を調し、生かさず殺さず、うまく……雨の時期にに、落城寸前になるよう持って行きます」

「よし、それだ!」

 信長が快哉を叫ぶ。
 下手に攻めては、そのまま合戦となって、なし崩し的に今川義元の乱入を招く。
 それが雨の降らない時期だったら、目も当てられない。
 だが、兵糧攻め、しかも木綿の提案する様相の兵糧攻めなら、義元への助けを求める時期を調整できる。意図していたより早く使いなりふみなり出そうものなら、それこそ三つの砦を機能活用して、遮断してしまえば良い。

「思いついた以上、言った以上、やれる自信はあるのだろうな、木綿」

 敢えて大上段に。
 でないと、木綿が周囲の嫉視を買う。
 木綿もそれを心得たもので、平伏して「あります」と答えた。

「……で、あるか。ならば良し! 木綿、おどのの矢銭、すべて持って行け!」

「ありがたき幸せ!」

「なお、目付として、前田利家に随行を命ず。そんな顔するな、お前は三河や遠江、駿河に詳しい。あと、木綿の護衛役だ」

「……ははっ」

 利家には、傾奇者の時代に、海道を漫遊した経験がある。木綿の作戦行動中に、もし海道から、今川からの不穏な動きがあらば、察知して逃げて来いという意味の命令でもあった。

 ……そしてもうひとつ、ある目的があって、利家は大高城周辺へと旅立つことになる。
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