輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒

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第十一部 輿上(よじょう)の敵

64 輿上(よじょう)の敵 中編

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 一方の織田信長は。

「今川義元の尾張乱入。これに対するには、を数限りなくしかけ、嫌がらせをする。しかるのちに消耗しきったところで、幕府なり他の大名なりに仲介を頼み、和する」

 という、現実的な対策を考えていた。
 当時、斯波義銀しばよしかねという存在をまるで念頭に置いておらず、信長はあっさりと義銀を追放した。
 この時、殺せば良かったのではという考えもあるが、義銀は信長に対して策謀を企んだだけで未遂であり、未然で防がれたからこそ信長もおいそれと始末はできず、追放とした。
 隣国の美濃の一色義龍との差を強調したかったことと、旧斯波家家臣団で使える者たちを召し抱えていたという事情もある。
 ところが、尾張統一を成し遂げて上洛した時に。

「すまぬの、織田どの。そなたの尾張の支配、予は認められぬのじゃ」

 将軍・足利義輝はそう言って詫びて来た。
 ここで義輝は、尾張守護は飽くまで斯波家とか、斯波義銀生存中は無理とでも言えば良かったが、人の良い義輝は「今川がそう言って来たから」とつい洩らしてしまった。
 それがだった。

「何故、が言って来るのじゃ? 嫌がらせか?」

 そこで、気がついた。
 今川が尾張を支配したいとしたら、どうするか――を。

「もしかして――斯波義銀を御輿みこしに使う気か」

 そうすれば、いわば形骸化したお飾りと化していた斯波義銀に、今川義元が敢えて接近してきたことも、納得がいく。
 あとは芋づる式だった。

「斯波義銀を尾張の国主に復す。今川はその後ろ盾となる。そうすれば……尾張は事実上、今川のもの」

 そして斯波義銀を尾張守護にということは、これ以上ない大義名分を義元に与える。
 へたに、今川義元自身が尾張を直接支配するよりも、よっぽど聞こえが良い。
 そういえば、かつて、義元の父である今川氏親も、子である氏豊を那古野に送り込んだこともあるが、それは失敗したではないか。
 ほかでもない、信長の父である、織田信秀と平手政秀の手によって。

「今度こそ、尾張をわが手に、か……そして」

 そして尾張の周囲にも――美濃にも。
 その美濃の一色義龍は、南近江の六角義治と結んだと聞くから、隙が無い。

「なかなか……やるではないか」

 尾張を手中にすること。
 それだけではなく、その周りも。
 大局を見据える今川義元という巨人の存在を感じ、信長は震えた。
 だが同時に奮えた。

「この義元の野望をくじくことができれば……それこそ、のちの世への語り草ではないか」

「おっしゃるとおりだと思います」

 帰蝶には、美濃で一旦別れる際にこれについて話しておいた。
 帰蝶は信長のを肯定し、なおさら、今川義元を破るべきであると主張した。

「むしろ……その義元の野望を食って、そして美濃を盗って、信長の野望としちゃいましょう」

「おいおい……」

 笑顔でそう言う帰蝶に、空恐ろしさを感じつつ、やはり妻だと思う信長であった。



 駿府。
 織田信長は、前田利家を供として商人に変装して、この殷賑な町へとやってきた。
 そして首尾よく目当ての輿こし――斯波義銀を見つけた。
 義銀は斯波家の尾張国内の特権である輿に乗っていた。ここ駿府は尾張ではなく駿河であるが、未だに自分は尾張国主であるという意識のあらわれだろうか。

「どこへ行くつもりなんでしょうね」

 利家は久々に見た義銀が、あいかわらずの高慢な表情をしていたので、少し苛々いらいらしていた。

「……さアな」

 信長としては、求める輿が見つけられたので、もうこれ以上この場にいる必要なしと立ち去るつもりでいた。
 早く帰って、帰蝶と共に、これからの策を練らねば。
 そう思っている時だった。

「おや?」

 輿上よじょうの斯波義銀が、こちらに気づいたらしく、近くの者二人に探って来いと言っているようだった。

「三十六計逃げるにかず!」

 信長と利家は二手に分かれて、走り出した。
 駿府の大路は人だかりができている。
 信長に土地鑑は無いが、義銀の追っ手を上出来だ。

「これっ! そこな者!」

 声をよく聞くと、信長の方の追っ手は山口教継やまぐちのりつぐだ。
 かつて、信秀から信長の代替わりの時に織田から今川に寝返り、赤塚の戦いで戦った相手である。
 すると、利家の方の追っ手は、教継の子・教吉のりよしか。

「利家は駿府に行ったことがあるから、まあ大丈夫だろう」

 万一の際に落ち合う場所は決めてある。
 ならば、この信長がうまく逃げれば、勝ちだ。
 そう思うが、なかなかことができない。
 さまよい走るうちに、川べりに出た。
 うしろを振り向くと、人影は見えない。
 少なくとも、見える範囲にはいない。



「ようやくか……疲れたな」

 少し休むかと川原へと下りると、太公望釣り人の侍がいた。
 その侍は寝ており、竿は竿受けに置かれていた。
 ただ、その竿が。

「おいッ! 引いてるぞ!」

「え? あ、ああ……おわっ」

 侍があわてて竿を持つと、結構大物らしく、あたふたと右へ左へ。

「見ちゃいられない」

 信長が一緒に竿を持つ。
 呼吸を合わせ、一気に持ち上げる。

「やったッ」

 侍は釣り上げた鯉の大きさに狂喜乱舞し、文字通り信長の手を取って踊り出した。

「お、おいおい……ちょ、ちょっと」

「ありがたいッ! 実にありがたいッ!」

 壮年のその侍は、これで娘夫婦に良い手土産ができたと喜んで、何度も何度も信長に礼を言った。
 信長としては、分かったから、先を急ぐからと侍から離れようとしたが、遅かった。

「あっ! 見つけたぞ! 何で斯波さまを見ていた!」

 まずい。
 山口教継の奴、こんな折りに見つけてくるとは。
 あわてて逃げようとする信長を、その侍は「待て待て」と言って、背後に隠した。

「おっ! おい何の真似だ、お前! うしろにそいつを隠すんじゃあないッ!」

 侍は簡素な格好をしていたので、山口教継からすると、身分が下に見えた。
 そしてかさにかかって怒鳴りつける。

「おそれおおくもわれこそは、今川治部大輔いまがわじぶだゆうの臣、山口教継なり! ……さあ、隠すとためにならんぞ! さっさとそいつを渡せ!」

 気がつくと、わらわらと人が集まってきている。おそらく、山口家の家来たちだろう。

「……えらいことになったな」

 侍は肩をすくめる。

「……そも、山口うじとやら、こちらの御仁はただその……『見ていた』というだけなのであろう? であればここまですることは無いのでは?」

「黙らっしゃい!」

 教継は怒鳴る。今川家の権威と人数にものを言わせてやるというところだろうか。
 信長がさてどうするかと思っていると、何と侍はその相手の人数を数えていた。

「ひい……ふう……八人か」

「いや、もうおれは逃げる……逃げますんで、おかまいなく」

「まあ待て」

 侍は、おれは八万を相手にしたこともあるし、最悪何とかなるから、とささやいた。

「……おい、そんな目で見るな。本当だぞ。それも、あいつの言っている今川治部大輔が相手だったんだぜ」
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