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第十部 東西の謀(はかりごと)
62 菩提山 後編
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「国譲り状……」
竹中半兵衛は帰蝶から手渡されたその書状を矯めつ眇めつ見た。
たしかに、あの時言っていた。
あの時――長良川の戦いの時に、斎藤道三は言っていた。
尾張の織田信長に、国を譲ると。
それをわざわざ書状に残していたとは。
「書状」
そうか、と半兵衛は膝を打った。
美濃が双頭の蛇のひとつの「頭」と化す時。
つまり、今川義元というもうひとつの「頭」が、尾張を食らわんとする時。
この書状を使って、美濃をかき乱せ、美濃を「頭」でなくしてしまえ、と道三は策したのだ。
「大殿……」
そしておそらく、そのかき乱すことを期待されたのは、この半兵衛。
長良川の戦いの前夜のやり取りから、それを期待されるのは、この半兵衛とたどりつく。
道三はそう考え、そしてこの半兵衛ならやれると。
そう見込んだのだ。
「士は、己を知る者のために死す、と言います」
半兵衛は謹直にそう言いながらも、頭の中ではある思いがむくむくと立ち上って来るのを、止めることができなかった。
楽しくなってきた。
のちの世の語り草となるべき活躍を見せる時は、今。
……そう、思い始めていた。
「その話、われらも一枚噛ませてください」
気がつくと、庭にいる木綿の隣に、端然とたたずむ旅僧がいた。
一徳斎である。
*
「……いやあ、何かのぞき見していて悪いなぁ、とは思ってたんですよ」
そう言うわりには、悪びれない態度で上がり込む一徳斎である。
木綿は仰天して声も出ない。
半兵衛と小六は抜刀しようとしたが、帰蝶が「まあまあ」と抑えた。
「わたしたちを妨害したいなら、最初から国譲り状を奪えば良い……でも、一番この中で強い半兵衛どのに渡るのを黙って見ていた……そこは信頼していいんじゃないでしょうか」
一徳斎はつるりと顔面をなで、そこまで考えられていたのか、と感歎の声を上げた。
「いやはやなかなか……なかなかのお方ですね」
「感心してないで、名を名乗れ」
これは小六の台詞である。
「一徳斎と言ったはずだが?」
「韜晦するな……では、『われら』とは誰のことだ」
一徳斎は、ふむ、とあごに手をやって、「ま、いいか」とつぶやいた。
「あまり大きな声では言えんが、武田家だ」
意外とそれは大きな声だったので、木綿が「わあわあ」とさらに大きな声を出して、打ち消した。
半兵衛は知らぬ顔をしていたが、彼の犀利な頭脳は答えを導き出していた。
「たしか出家する前は……真田幸綱と名乗っておられた方かな」
「さよう。お見知りおきを」
いっそ堂に入ったほどの挨拶を施す幸綱。
真田幸綱。
真田一徳斎幸隆として後世に名を残す知将にして、真田昌幸の父であり、真田信繁(幸村)の祖父である。
*
「鬼弾正・真田幸綱といえば、鬼美濃・原虎胤や名軍師・山本勘助とならんで、武田家の柱と聞く。その柱がなぜ」
いつの間にか帰蝶を守るように位置していた半兵衛が問うと、幸綱はため息をついた。
「いやまあ……実は信玄さまが、甲相駿三国同盟に基づいて、その双頭の蛇の一環として、一色義龍の後詰めにされて、それが気に食わないゆえに、何とかしろとの仰せで」
かなり機密の情報をぺらぺらとしゃべる幸綱。
これには冷徹な半兵衛も度肝を抜いた。
帰蝶や木綿、小六も同様に唖然とした。
「そも、東美濃の方は何とかなるのでござる。あの辺は武田家とも誼を通じておられる」
たとえば東美濃の遠山家は、戦国のならいとして、各方面へいい顔をしており、それは斎藤家や一色家でもあり、武田家でもあった。
「でも、西美濃の方は堅い。西美濃三人衆なんてのまでいる……ま、どっちにしろ、西美濃にがたを入れるには、ちとひと苦労、と思っていたところでござる」
やれやれ、と幸綱は竹筒を取り出して、水を飲んだ。
ぷはあ、と息をついてから、幸綱は言う。
「そうしたら、ちょうど織田家が上洛からの帰りで、そこから何やら人影が分かれ出でた、という寸法で……」
「武田は今川を裏切るのですか」
帰蝶の刃を突きつけるようなその問いに、さすがの幸綱も言葉に詰まった。
裏切るというか、今川と織田がいい感じにせめぎ合って欲しい、というのが正確なところである。
武田信玄としては、海道一の弓取り・今川義元が尾張を征服するまでは良いが、美濃まで恣にするのは気に食わない。
信玄には、美濃への征服欲があった。
「海道一の弓取りは、海道一の弓取りのままでいてもらおうか」
そう言って信玄は、幸綱に美濃の調略を命じた。
義元が尾張で戦っているうちに、あわよくば、美濃を盗ってしまうつもりである。
それこそ、一色義龍が双頭の蛇の「頭」として役に立たないと称して。
*
「……ですがまあ、美濃全部を盗るのは無理でしょう。たぶん、東美濃がせいぜいでしょう。そこで提案です。手を組みませんか」
幸綱は笑顔でそう言ってのけた。
だがその目は油断なく、国譲り状に注がれている。
断れば、盗るということか。
幸綱はそれ以上は黙して言わない。
あとは任せるということだろう。
「手を組みましょう」
帰蝶はわりとあっさりと答えた。
小六に木綿、半兵衛までが「えっ」と叫んだ。
「そ、そんな」
「性急にもほどがありますぞ」
「もう少し考えてから……」
「半兵衛どの」
帰蝶の落ち着いた声。
その声は、皆をも落ち着かせる効果があった。
「おそらく、この機を逃がせば、武田との縁が切れます」
「む」
もし幸綱が甲相駿三国同盟に基づいて、今川と同盟している武田の者だとして、一色義龍に告げ口したら、どうなるか。
「そうか……それはそれで、菩提山に一色軍討ち入り、となるわけか。すると、武田としては東美濃から西美濃へと触手を伸ばす機会となる……」
「それも分の悪い賭けでござるよ。何より、今川さまにばれたらことだ」
肩をすくめる幸綱。
だがそういう賭けになってもかまうまい、という目をしている。
半兵衛はため息をついた。
「どうやら幸綱どのと手を組んだ方が、ましのようだな」
「ましと言うか」
幸綱は手を伸ばした。
半兵衛はその手に国譲り状を渡す。
幸綱はほうほうと言いながら読み、終わると半兵衛に返す。
帰蝶はそれをにこにこと見守っている。
小六は動揺しているが、その横で木綿もうなずいている。
「お手前……この幸綱も、武田も計算に入れて、何かを思いついたのでござろう?」
知らぬ顔をして、と幸綱が付け加えると、半兵衛は笑った。
竹中半兵衛は帰蝶から手渡されたその書状を矯めつ眇めつ見た。
たしかに、あの時言っていた。
あの時――長良川の戦いの時に、斎藤道三は言っていた。
尾張の織田信長に、国を譲ると。
それをわざわざ書状に残していたとは。
「書状」
そうか、と半兵衛は膝を打った。
美濃が双頭の蛇のひとつの「頭」と化す時。
つまり、今川義元というもうひとつの「頭」が、尾張を食らわんとする時。
この書状を使って、美濃をかき乱せ、美濃を「頭」でなくしてしまえ、と道三は策したのだ。
「大殿……」
そしておそらく、そのかき乱すことを期待されたのは、この半兵衛。
長良川の戦いの前夜のやり取りから、それを期待されるのは、この半兵衛とたどりつく。
道三はそう考え、そしてこの半兵衛ならやれると。
そう見込んだのだ。
「士は、己を知る者のために死す、と言います」
半兵衛は謹直にそう言いながらも、頭の中ではある思いがむくむくと立ち上って来るのを、止めることができなかった。
楽しくなってきた。
のちの世の語り草となるべき活躍を見せる時は、今。
……そう、思い始めていた。
「その話、われらも一枚噛ませてください」
気がつくと、庭にいる木綿の隣に、端然とたたずむ旅僧がいた。
一徳斎である。
*
「……いやあ、何かのぞき見していて悪いなぁ、とは思ってたんですよ」
そう言うわりには、悪びれない態度で上がり込む一徳斎である。
木綿は仰天して声も出ない。
半兵衛と小六は抜刀しようとしたが、帰蝶が「まあまあ」と抑えた。
「わたしたちを妨害したいなら、最初から国譲り状を奪えば良い……でも、一番この中で強い半兵衛どのに渡るのを黙って見ていた……そこは信頼していいんじゃないでしょうか」
一徳斎はつるりと顔面をなで、そこまで考えられていたのか、と感歎の声を上げた。
「いやはやなかなか……なかなかのお方ですね」
「感心してないで、名を名乗れ」
これは小六の台詞である。
「一徳斎と言ったはずだが?」
「韜晦するな……では、『われら』とは誰のことだ」
一徳斎は、ふむ、とあごに手をやって、「ま、いいか」とつぶやいた。
「あまり大きな声では言えんが、武田家だ」
意外とそれは大きな声だったので、木綿が「わあわあ」とさらに大きな声を出して、打ち消した。
半兵衛は知らぬ顔をしていたが、彼の犀利な頭脳は答えを導き出していた。
「たしか出家する前は……真田幸綱と名乗っておられた方かな」
「さよう。お見知りおきを」
いっそ堂に入ったほどの挨拶を施す幸綱。
真田幸綱。
真田一徳斎幸隆として後世に名を残す知将にして、真田昌幸の父であり、真田信繁(幸村)の祖父である。
*
「鬼弾正・真田幸綱といえば、鬼美濃・原虎胤や名軍師・山本勘助とならんで、武田家の柱と聞く。その柱がなぜ」
いつの間にか帰蝶を守るように位置していた半兵衛が問うと、幸綱はため息をついた。
「いやまあ……実は信玄さまが、甲相駿三国同盟に基づいて、その双頭の蛇の一環として、一色義龍の後詰めにされて、それが気に食わないゆえに、何とかしろとの仰せで」
かなり機密の情報をぺらぺらとしゃべる幸綱。
これには冷徹な半兵衛も度肝を抜いた。
帰蝶や木綿、小六も同様に唖然とした。
「そも、東美濃の方は何とかなるのでござる。あの辺は武田家とも誼を通じておられる」
たとえば東美濃の遠山家は、戦国のならいとして、各方面へいい顔をしており、それは斎藤家や一色家でもあり、武田家でもあった。
「でも、西美濃の方は堅い。西美濃三人衆なんてのまでいる……ま、どっちにしろ、西美濃にがたを入れるには、ちとひと苦労、と思っていたところでござる」
やれやれ、と幸綱は竹筒を取り出して、水を飲んだ。
ぷはあ、と息をついてから、幸綱は言う。
「そうしたら、ちょうど織田家が上洛からの帰りで、そこから何やら人影が分かれ出でた、という寸法で……」
「武田は今川を裏切るのですか」
帰蝶の刃を突きつけるようなその問いに、さすがの幸綱も言葉に詰まった。
裏切るというか、今川と織田がいい感じにせめぎ合って欲しい、というのが正確なところである。
武田信玄としては、海道一の弓取り・今川義元が尾張を征服するまでは良いが、美濃まで恣にするのは気に食わない。
信玄には、美濃への征服欲があった。
「海道一の弓取りは、海道一の弓取りのままでいてもらおうか」
そう言って信玄は、幸綱に美濃の調略を命じた。
義元が尾張で戦っているうちに、あわよくば、美濃を盗ってしまうつもりである。
それこそ、一色義龍が双頭の蛇の「頭」として役に立たないと称して。
*
「……ですがまあ、美濃全部を盗るのは無理でしょう。たぶん、東美濃がせいぜいでしょう。そこで提案です。手を組みませんか」
幸綱は笑顔でそう言ってのけた。
だがその目は油断なく、国譲り状に注がれている。
断れば、盗るということか。
幸綱はそれ以上は黙して言わない。
あとは任せるということだろう。
「手を組みましょう」
帰蝶はわりとあっさりと答えた。
小六に木綿、半兵衛までが「えっ」と叫んだ。
「そ、そんな」
「性急にもほどがありますぞ」
「もう少し考えてから……」
「半兵衛どの」
帰蝶の落ち着いた声。
その声は、皆をも落ち着かせる効果があった。
「おそらく、この機を逃がせば、武田との縁が切れます」
「む」
もし幸綱が甲相駿三国同盟に基づいて、今川と同盟している武田の者だとして、一色義龍に告げ口したら、どうなるか。
「そうか……それはそれで、菩提山に一色軍討ち入り、となるわけか。すると、武田としては東美濃から西美濃へと触手を伸ばす機会となる……」
「それも分の悪い賭けでござるよ。何より、今川さまにばれたらことだ」
肩をすくめる幸綱。
だがそういう賭けになってもかまうまい、という目をしている。
半兵衛はため息をついた。
「どうやら幸綱どのと手を組んだ方が、ましのようだな」
「ましと言うか」
幸綱は手を伸ばした。
半兵衛はその手に国譲り状を渡す。
幸綱はほうほうと言いながら読み、終わると半兵衛に返す。
帰蝶はそれをにこにこと見守っている。
小六は動揺しているが、その横で木綿もうなずいている。
「お手前……この幸綱も、武田も計算に入れて、何かを思いついたのでござろう?」
知らぬ顔をして、と幸綱が付け加えると、半兵衛は笑った。
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