輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒

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第十部 東西の謀(はかりごと)

60 京(みやこ)往還記 還の巻

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 京。

 織田信長は将軍・足利義輝との謁見を終えた。
 結局、帰蝶は母親である山崎屋おと会えずじまいのまま、尾張へ帰る日がやって来た。
 義輝は「すまぬのう、すまぬのう」と言っていた。
 悪い人ではないと思うのだが、いささか夢見がちなところがある人である。
 いずれ幕府が天下を取り返した時には必ず、と言われた時には、どうしようかと思ったくらいだ。
 信長は心得たもので、「ありがたき幸せ」と頭を下げていた。
 そうか、こうするのか。
 帰蝶は同じように下を向いてから、苦笑した。

 ……そうこうするうちに、尾張へ帰る日がやって来たというわけである。



「何や、申し訳ないのう」

 これは取次をしてくれた細川与一郎藤孝ほそかわよいちろうふじたかであり、彼は心底すまなそうに詫びていた。
 隣の十兵衛も頭を掻いた。

「堺くんだりまで行って来たが、やっぱり無いわ、宗易そうえきはんからの連絡つなぎ

 明智十兵衛は「やることが無いから」と言って、京に到着したあとに、すぐに堺へ発ってくれた。
 おに同行した、千宗易せんのそうえきという茶人の、商人としての商家・魚屋ととやが堺にあるため、そこでおがどこにいるか調べるためである。
 宗易は商売の必要上もあって、不定期に魚屋ととやに書状を送って来ていた。

「まア元々、定まってふみィ送るゥ約束やない言われたけれど……あと、もう堺か京こちらに向かっとるさかい、ふみが無いとも言われたけれどなア」

 十兵衛が唇を尖らせると、その表情が面白くて帰蝶は笑った。

「ほほ……まあ、おうちがどこにあるか分かっただけでも、儲けものです」

 居場所が分からなければ、手紙も書けない。
 でもこれからは、少なくとも手紙のやり取りはできる。
 今回のところは、藤孝に手紙を託すことにした。
 
「ほんま、すまんなぁ……だがこのふみは、細川与一郎藤孝、必ずお届けいたす」

 その藤孝の古式ゆかしいに、彼の心意気が知れた。

「濃」

 背中から声がかかった。
 振り向かずとも分かった。
 帰蝶のことを濃と呼ぶのは、ひとりしかいない。

「信長さま」

「……行こう」

「ええ」

 信長が何とか滞在期間を延ばしてくれた。
 が、それもどうやら限界のようだ。

「帰りましょう、尾張へ」

 だがその途次で美濃でやることがあるのだが、それは言わなかった。
 美濃の一色義龍の間者が、いつどこで聞いているか分からないから。



 妙覚寺を出て、東へ。
 往路と同じ道を行き、京を出た。

「信長さま、お方さま」

 出たところで、木綿藤吉が待ち受けていた。
 彼は、蜂須賀小六と共に、ある目的のため、美濃へ潜行していたが、その目星がついたため、ここまでやって来たのである。
 蜂須賀小六は美濃の出身で、長良川の戦いで主・斎藤道三が敗死して以降、信長に仕えていた。

「小六どののおっしゃるには、やはり十兵衛さまのおっしゃった『あのお方』が最適とのこと」

「で、あるか」

「それと、これは簗田政綱やなだまさつなさまからの伝言ですが」

 簗田政綱は信長の謀臣で、今は海道――三河・遠江・駿河方面に網を張っている。
 今川の動きを細大漏らさず把握するために。

「今川義元、駿府にて武田信玄、北条氏康とうたらしい……とのよし

「……で、あるか」

 義元め。
 わざわざ同盟相手を呼びつけて、何を話したのやら。
 あるいはそれは……尾張入りへの「支度したく」ということか。
 こうしてはおれん。

とう!」

 信長が馬上の人になった、その時だった。

「お待ち下され、お待ち下され!」

 振り返ると、京の方から誰かが駆けてくる。
 大柄の男と、小柄の女だ。
 大柄の男に見覚えはない。
 小柄の女にも、見覚えはない。
 だが、面影はあった。

「……まさか。濃! 濃!」

「何ですか」

 帰蝶が来ると、「見よ」と信長は指を差した。

「あ」

 向こうの小柄の女も気がついたらしく、大きく手を振っていた。

「……帰蝶! 帰蝶ですね! おです!おです!」

「……母上! 母上!」

 かなりの日にちは過ぎたが、ついに小柄の女――山崎屋おは、大柄の男――千宗易せんのそうえきは、帰蝶に会うことができた。



「お急ぎとのことなので、すぐに立ち去ります」

 おは帰蝶とと抱き合ったあと、そう言った。
 信長はぜひ尾張へと言いたいところだったが、帰るべき尾張は戦場となる。ましてや、途中の美濃には、心情の面からも通りたくないであろう。

「いいのです」

 すべてを悟ったようなおの笑顔に、これが道三を惚れさせた顔か、と皆思った。

「あの人のふみにもありましたが……誰が聞いているか分かりませんから、多くは申しません」

 おもまた、戦国の世の商家の女である。秘するべきことは秘す。それは分かっていた。
 帰蝶も信長もまた、それを知ってうなずいた。
 この場に蜂須賀小六や簗田政綱がいれば、そういう輩を排除できようが、今はいない。何より、まだ京の近郊で、人の目や耳からのがれられない。

「ですので、言えることだけ……昔、あの人は――当時は長井新九郎といったそうですが――諸国を放浪しました。そして多治比さまという方に会ったそうです」

 多治比は当時、守護あるいは守護代というべき大名から攻められていた。その兵力は、多治比の五倍。まさに、危急存亡のときであった。

「そこへ、あの人が颯爽と現れたそうでございます」

 おがうっとりとした表情でそれを述べると、帰蝶はわが母ながら、惚気のろけではないかと思った。

「……まあ、いろいろとあったそうですが、川を渡って攻めてくるその『敵』を多治比どのは破りました。それにはあの人の知恵と槍が欠かせなかったそうです」

 そして多治比と道三は別れる時、共に天下をと誓い合った。
 だが、その誓いは成されることはなく今に至り、道三は散った。

「昔語りを終えた多治比さまは、あの人の最期と、帰蝶、あなたのを聞いて、こう言いました」

 自分もまた、初陣の頃から、家督を継いだあとも、そして数年前も、苦境に、危機に遭った。
 だからこそ言うが、諦めずに「道」を探して欲しい。
 困難な状況ではあるが、むしろそれをだと思って――。

? それは……」

 帰蝶が首をかしげると、隣にいた信長が「ホレ、アレだ」とある小唄の出だしを口ずさんだ。
 するとおは驚いて、よく分かりましたねと言った。

「そうです、それです。多治比さまは、あの人から教えてもらったと言って、その小唄を唄ってくれました」

 ――死のふは一定いちじょう しのび草には何をしよぞ 一定かたりをこすのよ

「…………」

 帰蝶が口ずさむとおは目を閉じて聞き入った。
 まるでそこに、故・斎藤道三が唄っているかのように、目じりに涙を浮かべて。
 それを見て、信長は深くうなずいた。

「……そうだな、歎いていても始まらん。むしろこれを名を残す、語り草を残すと捉えねば」

 そう思うと、全身に活力がみなぎる信長であった。
 帰蝶も同様である。

「父上、ありがとうございます」

 帰蝶は手を合わせた。おも信長も、そして宗易も手を合わせた。



「母上、また会いましょう」

「ええ。体に気をつけるのですよ、帰蝶」

 今こうしている間にも、今川義元の策謀は動いている。
 一刻も早く帰る必要があった。
 それをおも知っているので、笑顔で別れを告げた。
 それに、また会える。
 また会えると約束した。
 それは、この状況を必ず乗り越えるとの決意である。

「そういえば」

 すでに馬上の人となった信長は、鞍にげていた袋をつかみ、その中のものを取り出した。

「宗易どの」

「はい」

「礼だ」

 信長がを無造作に放り投げると、宗易も何気なく両手で受け止めた。
 ただし宗易は受け止めたあとで、驚倒した。

「こっ、これは……天目や無いですか? こ、こないなもんをそんな雑に……」

「でないと宗易どのは受け取らないであろう? だからだ」

 そして信長はからからと笑うと、「行くぞ」と帰蝶に手を伸ばし、彼女を馬に乗せた。

「わが妻の母上の世話の礼……安くはない。でも安いくらいよ……では御免!」

 信長が手綱を振ると、馬はいななきを上げ、それを合図に織田家五百の将兵は前進を始めた。
 こうなっては、宗易も黙って見送るしかなかった。
 ただおだけが、いつまでも、いつまでも手を振っていた。



「……ふぅ、大した御仁や」

 宗易は冷や汗を出しながら、手にした天目を改めて眺めた。
 横からおが「そんなに値打ち物なんですか?」と聞いてくる。

「値打ちも何も……一国に値するやで」

「え、そんなに!?」

 千宗易は、それだけの価値のある働きをしてくれたと、信長と帰蝶は認めたのだ。そして、並の方法では受け取らぬと、おそらく細川藤孝あたりに聞いていて。

「あないな……放り投げるゆう、無体な方法をったんや」

「まあまあ……」

 感歎するお
 そして宗易は何を思ったか、笑い出した。

面白おもろい……面白おもろいわ、織田の信長はんと帰蝶はん……これは……『買い』や」

「買い?」

「せや、こないな真似するゥお人、面白いわ……きっと、伸びるでェ」

 しばし感心したようにうなずいていた宗易は「ほな」と言っておと元来た道を戻った。
 二人は一度京に戻り、そしてまた堺へ行くことになっていた。
 ……今は亡き斎藤道三のをかなえるために。
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