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第十部 東西の謀(はかりごと)
58 幕間狂言 前編
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駿河。
善得寺。
かつて……甲相駿三国同盟という、武田、北条、今川の三国すなわち三家の同盟が結ばれたという、伝説の地である。
今、三人の男が、その善得寺の一室に鎮座していた。
「……で」
一人目の男――北条氏康が口を開く。
「駿河どのにおかれましては、われらにいかなる用が?」
二人目の男――武田信玄も大いにうなずく。
「尾張のことは、お手前が勝手にやればよろしい。われらには遠く及ばぬこと」
三人目の男――今川義元は鷹揚に笑った。
「そう邪険にせんでも……これだけの大いくさ、一枚噛んでみたいと思わんか?」
「…………」
「…………」
彼らの前に一枚の地図がある。
海道と尾張、美濃、信濃――今日でいう中部地方の地図が。
「故・太原雪斎禅師の菩提を弔いたいから、お微行で来よというから来てみれば」
氏康が地図を弄ぶように手に取り、くるくると回す。手から離れ、飛んでいく。
信玄が器用にその地図をはっしと受け取る。
「そも」
信玄は今さらながらと言ってから、三国同盟とは、お互いに干渉しないのが基本だと主張した。
「ご立派じゃの」
義元はほくそ笑んだ。
「先年……越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)とのいくさで、そちらの北条の地黄八幡・北条綱成どのを援軍に派してもらった信玄どのが言うと、特にな」
「…………」
弘治三年、武田信玄は川中島にて長尾景虎との三度目の対峙をした(第三次川中島合戦)。
その対峙にあたって、信玄は北条に援軍を要請、北条は武勇の誉れ高い地黄八幡・北条綱成を援軍に送った。
地黄八幡とは、北条五色備えという五つの部隊のうち、黄色の黄備えを綱成が受け持ち、そして彼は「八幡」と大書された枯れ草色の旗を旗印としていたところからの異称である。
そしてそういう異称を持つ以上、綱成の武勇は天下に鳴り響き、中でも河越夜戦での半年間にわたる河越城籠城、そして夜戦の時の開城突撃のすさまじさが知れ渡っていた。
それほどの武将を、北条は武田に寄越した。それを知った長尾景虎は直接対決を避け、あくまでも兵を対峙させることにとどめた。
「そこを」
義元は、黒く染めた歯を見せて、にいっと微笑む。
「予が仲介し取り持ち、武田と長尾の和睦に持って来たわけだが?」
「……分かった分かった」
信玄は両手をぶらぶらとさせて、義元に降参の意志を示した。
氏康は「お前は兵を出してないだろ」と言いたげな視線を送ったが、何も言わなかった。
すると義元の方が氏康に向かって口を開いた。
「さて氏康どの」
「何だ」
「先ごろ……また、駿河の河東に野心を示していたの?」
「……何のことやら」
「何じゃ、今の間は」
「…………」
わざとらしく口笛を吹く氏康に、義元はきつい目つきで見つめていた。
河東一乱という、駿河の東半分――河東をめぐる、今川と北条の争いがあった。
それは北条家の祖・伊勢新九郎盛時(北条早雲のこと)が駿河と伊豆の境にある興国時城を得た時からのいさかいではあるが、今川義元が北条氏康に、河越夜戦をめぐる一連の大規模二正面作戦をしかけ、その結果として、現在、河東は、今川領である。
「だというのに……三国で同盟までしたというのに……油断ならぬことよ」
義元は扇で口元を隠して「ほほ」と笑う。
その扇の陰には、牙があるんじゃないかと氏康は疑ったが、それを確認しても詮無きことなので、やはり「降参」と肩をすくめた。
今川義元が三河に美濃にと暗躍している隙を狙ったのは事実である。
「ちなみにそれは、故・太原雪斎禅師の調べか?」
「さにあらず、さにあらず。予の調べよ……じゃが、同盟したそのあとこそ、用心しておけとの、師の教えじゃ。遺訓とも言う」
「……恐るべき禅師よ。死してなお、ここまでやるとはな」
「前置きは分かった」
舌打ちする氏康の横で、信玄は言った。
義元は周到だ。ここまで地固めしている以上、もはや話を聞くしかあるまい。
信玄は、そういう表情をしていた。
氏康もまた、その信玄を見て、威儀を正した。
「そうだな……聞こう。何が望みだ」
「そうじゃのう……」
義元はそこで扇子を下ろし、口を開いた。
「また、河越をやりたい」
義元のその言葉に、信玄と氏康は無言だった。
そして無表情だった。
だがその胸中は荒れ狂っていた。
河越。
河越夜戦。
今川・武田連合軍は駿河の河東を攻め、今川と同盟した山内上杉と扇谷上杉は、関東諸侯を糾合し、八万の軍で河越を攻める。
その大いなる双頭の蛇は、北条を食らわんと双つの口を開いた。
が。
今川は首尾よく河東を手にしたものの、山内上杉と扇谷上杉、そして古河公方(両上杉に要請されて出陣していた)は撃破され、その戦い――河越夜戦により、北条氏康と北条綱成は天下にその名を轟かせた。
「……ただの援軍のお願いではなさそうだな」
「しかし、このおれに向かって『河越』とはな」
信玄と氏康は、改めて地図に見入った。
そして義元は、新たなる『河越』――双頭の蛇について話した。
善得寺。
かつて……甲相駿三国同盟という、武田、北条、今川の三国すなわち三家の同盟が結ばれたという、伝説の地である。
今、三人の男が、その善得寺の一室に鎮座していた。
「……で」
一人目の男――北条氏康が口を開く。
「駿河どのにおかれましては、われらにいかなる用が?」
二人目の男――武田信玄も大いにうなずく。
「尾張のことは、お手前が勝手にやればよろしい。われらには遠く及ばぬこと」
三人目の男――今川義元は鷹揚に笑った。
「そう邪険にせんでも……これだけの大いくさ、一枚噛んでみたいと思わんか?」
「…………」
「…………」
彼らの前に一枚の地図がある。
海道と尾張、美濃、信濃――今日でいう中部地方の地図が。
「故・太原雪斎禅師の菩提を弔いたいから、お微行で来よというから来てみれば」
氏康が地図を弄ぶように手に取り、くるくると回す。手から離れ、飛んでいく。
信玄が器用にその地図をはっしと受け取る。
「そも」
信玄は今さらながらと言ってから、三国同盟とは、お互いに干渉しないのが基本だと主張した。
「ご立派じゃの」
義元はほくそ笑んだ。
「先年……越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)とのいくさで、そちらの北条の地黄八幡・北条綱成どのを援軍に派してもらった信玄どのが言うと、特にな」
「…………」
弘治三年、武田信玄は川中島にて長尾景虎との三度目の対峙をした(第三次川中島合戦)。
その対峙にあたって、信玄は北条に援軍を要請、北条は武勇の誉れ高い地黄八幡・北条綱成を援軍に送った。
地黄八幡とは、北条五色備えという五つの部隊のうち、黄色の黄備えを綱成が受け持ち、そして彼は「八幡」と大書された枯れ草色の旗を旗印としていたところからの異称である。
そしてそういう異称を持つ以上、綱成の武勇は天下に鳴り響き、中でも河越夜戦での半年間にわたる河越城籠城、そして夜戦の時の開城突撃のすさまじさが知れ渡っていた。
それほどの武将を、北条は武田に寄越した。それを知った長尾景虎は直接対決を避け、あくまでも兵を対峙させることにとどめた。
「そこを」
義元は、黒く染めた歯を見せて、にいっと微笑む。
「予が仲介し取り持ち、武田と長尾の和睦に持って来たわけだが?」
「……分かった分かった」
信玄は両手をぶらぶらとさせて、義元に降参の意志を示した。
氏康は「お前は兵を出してないだろ」と言いたげな視線を送ったが、何も言わなかった。
すると義元の方が氏康に向かって口を開いた。
「さて氏康どの」
「何だ」
「先ごろ……また、駿河の河東に野心を示していたの?」
「……何のことやら」
「何じゃ、今の間は」
「…………」
わざとらしく口笛を吹く氏康に、義元はきつい目つきで見つめていた。
河東一乱という、駿河の東半分――河東をめぐる、今川と北条の争いがあった。
それは北条家の祖・伊勢新九郎盛時(北条早雲のこと)が駿河と伊豆の境にある興国時城を得た時からのいさかいではあるが、今川義元が北条氏康に、河越夜戦をめぐる一連の大規模二正面作戦をしかけ、その結果として、現在、河東は、今川領である。
「だというのに……三国で同盟までしたというのに……油断ならぬことよ」
義元は扇で口元を隠して「ほほ」と笑う。
その扇の陰には、牙があるんじゃないかと氏康は疑ったが、それを確認しても詮無きことなので、やはり「降参」と肩をすくめた。
今川義元が三河に美濃にと暗躍している隙を狙ったのは事実である。
「ちなみにそれは、故・太原雪斎禅師の調べか?」
「さにあらず、さにあらず。予の調べよ……じゃが、同盟したそのあとこそ、用心しておけとの、師の教えじゃ。遺訓とも言う」
「……恐るべき禅師よ。死してなお、ここまでやるとはな」
「前置きは分かった」
舌打ちする氏康の横で、信玄は言った。
義元は周到だ。ここまで地固めしている以上、もはや話を聞くしかあるまい。
信玄は、そういう表情をしていた。
氏康もまた、その信玄を見て、威儀を正した。
「そうだな……聞こう。何が望みだ」
「そうじゃのう……」
義元はそこで扇子を下ろし、口を開いた。
「また、河越をやりたい」
義元のその言葉に、信玄と氏康は無言だった。
そして無表情だった。
だがその胸中は荒れ狂っていた。
河越。
河越夜戦。
今川・武田連合軍は駿河の河東を攻め、今川と同盟した山内上杉と扇谷上杉は、関東諸侯を糾合し、八万の軍で河越を攻める。
その大いなる双頭の蛇は、北条を食らわんと双つの口を開いた。
が。
今川は首尾よく河東を手にしたものの、山内上杉と扇谷上杉、そして古河公方(両上杉に要請されて出陣していた)は撃破され、その戦い――河越夜戦により、北条氏康と北条綱成は天下にその名を轟かせた。
「……ただの援軍のお願いではなさそうだな」
「しかし、このおれに向かって『河越』とはな」
信玄と氏康は、改めて地図に見入った。
そして義元は、新たなる『河越』――双頭の蛇について話した。
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