輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒

文字の大きさ
上 下
59 / 101
第十部 東西の謀(はかりごと)

57 京(みやこ)往還記 往の巻

しおりを挟む
 織田信長は、五百の兵を率いて上洛の途に着いた。
 その途次、堂々と美濃に入った。
 これには事前に河尻秀隆と明智十兵衛を、稲葉山城の一色義龍のもとへと向かわせ、「説明」を行わせていた。
 そして秀隆によると重々しく、十兵衛によると苦虫を噛み潰したように、美濃通行を許可したという。
 もっとも、十兵衛については、義龍からすると道三に味方したやからと見られているからでもあるが。

「で、あるか」

 それを聞いて信長は満面の笑みを浮かべて、美濃へ、そして京へと向かった。
 これに妻である帰蝶も同行しており、実は義龍はそこが一番の難色を示したところだが、ほかならぬ将軍・足利義輝が「離れ離れになった母子を再会させたい」と御内書で言っている以上、拒否する術はなかった。
 そもそも、「一色」義龍にしてからが、将軍・義輝から「一色」姓の公称を許されている、という経緯もあるので、そこは仕方なく、黙認するしかなかったのである。

「……このままではいられるか、予も京へ」

 ここで義龍は妙に対抗意識を燃やし、あるいは美濃を盗ったことを、帰蝶によって将軍に「讒言ざんげん」されることを警戒し、信長が上洛を遂げてすぐに義龍も上洛することになる。
 信長としては、義龍があわただしくなることは願ったりかなったりではあったが。



「……ということで、なら、京への往還のうち、還の方、つまり帰りです」

「……で、あるか」

 今ではすっかり信長の美濃方面の謀臣の観のある蜂須賀小六が、長良川のあたりを騎行している時に、そう報告してきた。
 往路においては、一色義龍もそれなりの警戒を施しているだろう。
 だから、何もしない。
 現に今、道三塚と呼ばれる道三の首塚(道三を討った小牧源太が、手柄と引き換えに首をもらって作った塚)もこうして素通りしている最中である。

「…………」

 帰蝶は何も言わない。だが、その胸中は、万言を費やしても語り切れないだろう。
 信長は小六からの報告のつづきを求めた。

「加えて、美濃国内のとがっている奴にをつけるため、時日を要します」

 このあと、蜂須賀小六は木綿藤吉と共に美濃国内に潜入する予定である。明智十兵衛の助言もあって、「とがっている奴」に目星をつけているが、それでも下調べなり準備なりに時間がかかる。

「ですが、京から戻られるまでには」

「頼みます」

 帰蝶としては、その「とがっている奴」に直接会って、故・斎藤道三の国譲り状を託したいと考えている。
 そしてそれこそがと小六が表現した行動である。

「うけたまわりました……では」

 小六が目配せすると、木綿は黙ってうなずいて、いかにも立小便をするという雰囲気で、さりげなく列から離れた。

「おいおい木綿、こんなところで催すとは、何事だ」

 心得たように、前田利家が聞こえよがしに言ってきた。

「そンなこと言われても」

 木綿が哀願するような表情をすると、利家は分かった分かったと片手を振った。

「……しようがない。だがこのままな。織田家の名折れぞ。どこか遠くへねい!」

 うへえ、と言って、木綿は股間を押さえて、小走りに走り出した。
 その滑稽な様子に、織田家一同、皆、笑ってしまった。
 出迎えというか見張りに来ていた、一色家の安藤守就あんどうもりなりも顔をほころばした。

「安藤どの、織田ウチの者がとんだ不作法を」

「ああ、ああ、まあいいまあいい。織田家そちらからすると、美濃はいわば敵地。緊張したんじゃろ」

 信長は、では弛緩するためにも今宵は一献と誘うと、守就はぶんぶんと首を振った。

「いやいや! それがし、主命の最中でござる! 主命の最中でござる!」

 と言って、わざとらしく咳払いをして、守就は前の方へ行ってしまった。
 その隙に、小六もまた列を離れた。

「頼んだぞ」

 その信長の呟きに、小六は精一杯駆け出すことで応えた。



 そこから織田信長一行は、京へ意外とすんなりと入った。
 明智十兵衛が、事前に踏査というか、京から尾張に来た際の経験に基づいて道行きを設定していたためである。

「あちらに見えまするは……」

「十兵衛どの、もうわかりましたから」

 帰蝶が笑いながら十兵衛をたしなめると、十兵衛は頭を掻いて恐縮恐縮と言い、信長らを笑わせた。
 そうこうするうちに、織田家の宿に着いた。
 京において、五百からの軍勢が寝泊まりする場合、それは寺院に限る。
 そこで信長は妙覚寺を選んだ。
 妙覚寺。
 それは――かつて斎藤道三が法蓮坊という法名で修行していた寺である。



 妙覚寺で信長一行を出迎えたのは、幕臣・細川与一郎藤孝ほそかわよいちろうふじたかである。
 歓迎すると言って来たもの、その表情は渋いものであった。

「何やその顔」

 早速に藤孝の朋友である十兵衛が突っ込む。
 すると藤孝は、まだ和泉式部が天橋立から戻らないと告げた。
 藤孝と十兵衛の二人の間で、和泉式部とは山崎屋おのことである。天橋立とは、おの行った先である、安芸を意味する。

「何やて」

 十兵衛もまた渋い顔をした。
 安芸の多治比という人物が、まだ見つからないのか、それとも……。

「それは大丈夫や」

 おには、堺の商人にして茶人・千宗易せんのそうえきが同行している。藤孝は、宗易が商家である魚屋ととやと定期的に連絡を取り合っていることを知っていた。

「……おそらく、多治比いうお人が、な人物になっとるやもしれんて」

 斎藤道三の十代、二十代の頃となると、それはもうかなりの昔である。そのかなりの昔に、道三と肝胆相照らす仲であった人物となれば、今では相当の人物となっていよう。

の戻らずやと思うんやけど……」

 こればっかりは、なだけに、早く戻って来いと言えない。
 もしかしたら、道三の書状の内容が、かなりの無理難題なのかもしれない。

「まあ公方さまにおかれましては、織田さまが来るンは、別に止めンでええ言うたけどな」

 織田家は、織田信秀の時代から、朝廷・幕府への貢ぎ物を欠かさなかった。
 今回、信長もその例にならって、相応の「土産」を持参していた。
 それは、京へ行く場合はそうした方が良いという、平手政秀の教えによる。

「せやから、織田さまにおかれましては、予定どおり公方さまにうたってや」

「で、あるか」

 信長としては、帰蝶が残念そうな表情をしているのが気にかかるが、それでもせっかくの機会である。足利義輝に会うことにした。

「では公方さまに、この信長の尾張守護になることを……」

「あっ、それはアカン」

 藤孝は片手を振って否定する。
 実は先般、駿河の今川義元より書状があり、尾張守護・斯波義銀しばよしかねがまだ生存しているのに勝手に尾張守護を他人に渡すのはいかがなものか、と釘を刺された。

「……面憎いことを」

 そう言いつつも、その義元の書状に何か引っかかるものを感じた信長は、それ以上言葉を発することはなかった。
 そうすると自然と、話題は帰蝶のことに移る。

「よう似ておすなぁ」

 藤孝はそう褒めそやす。
 帰蝶とおが似ていることは、十兵衛もそう言っていた。
 そういうものなのかな、と帰蝶としては曖昧な微笑みを浮かべることしかできなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【短編】輿上(よじょう)の敵 ~ 私本 桶狭間 ~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 今川義元の大軍が尾張に迫る中、織田信長の家臣、簗田政綱は、輿(こし)が来るのを待ち構えていた。幕府により、尾張において輿に乗れるは斯波家の斯波義銀。かつて、信長が傀儡の国主として推戴していた男である。義元は、義銀を御輿にして、尾張の支配を目論んでいた。義銀を討ち、義元を止めるよう策す信長。が、義元が落馬し、義銀の輿に乗って進軍。それを知った信長は、義銀ではなく、輿上の敵・義元を討つべく出陣する。 【表紙画像】 English: Kano Soshu (1551-1601)日本語: 狩野元秀(1551〜1601年), Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

前夜 ~敵は本能寺にあり~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 織田信忠は、本能寺の変の前夜、父・信長を訪れていた。そして信長から、織田家の――信忠の今後と、明智光秀の今後についての考えを聞く。それを知った光秀は……。 【表紙画像・挿絵画像】 「きまぐれアフター」様より

河越夜戦 〜相模の獅子・北条新九郎氏康は、今川・武田連合軍と関東諸侯同盟軍八万に、いかに立ち向かったのか〜

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 今は昔、戦国の世の物語―― 父・北条氏綱の死により、北条家の家督を継いだ北条新九郎氏康は、かつてない危機に直面していた。 領国の南、駿河・河東(駿河東部地方)では海道一の弓取り・今川義元と、甲斐の虎・武田晴信の連合軍が侵略を開始し、領国の北、武蔵・河越城は関東管領・山内上杉憲政と、扇谷上杉朝定の「両上杉」の率いる八万の関東諸侯同盟軍に包囲されていた。 関東管領の山内上杉と、扇谷上杉という関東の足利幕府の名門の「双つの杉」を倒す夢を祖父の代から受け継いだ、相模の獅子・北条新九郎氏康の奮戦がはじまる。

敵は家康

早川隆
歴史・時代
旧題:礫-つぶて- 【第六回アルファポリス歴史・時代小説大賞 特別賞受賞作品】 俺は石ころじゃない、礫(つぶて)だ!桶狭間前夜を駆ける無名戦士達の物語。永禄3年5月19日の早朝。桶狭間の戦いが起こるほんの数時間ほど前の話。出撃に際し戦勝祈願に立ち寄った熱田神宮の拝殿で、織田信長の眼に、彼方の空にあがる二条の黒い煙が映った。重要拠点の敵を抑止する付け城として築かれた、鷲津砦と丸根砦とが、相前後して炎上、陥落したことを示す煙だった。敵は、餌に食いついた。ひとりほくそ笑む信長。しかし、引き続く歴史的大逆転の影には、この両砦に籠って戦い、玉砕した、名もなき雑兵どもの人生と、夢があったのである・・・ 本編は「信長公記」にも記された、このプロローグからわずかに時間を巻き戻し、弥七という、矢作川の流域に棲む河原者(被差別民)の子供が、ある理不尽な事件に巻き込まれたところからはじまります。逃亡者となった彼は、やがて国境を越え、風雲急を告げる東尾張へ。そして、戦地を駆ける黒鍬衆の一人となって、底知れぬ謀略と争乱の渦中に巻き込まれていきます。そして、最後に行き着いた先は? ストーリーはフィクションですが、周辺の歴史事件など、なるべく史実を踏みリアリティを追求しました。戦場を駆ける河原者二人の眼で、戦国時代を体感しに行きましょう!

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

吼えよ! 権六

林 本丸
歴史・時代
時の関白豊臣秀吉を嫌う茶々姫はあるとき秀吉のいやがらせのため自身の養父・故柴田勝家の過去を探ることを思い立つ。主人公の木下半介は、茶々の命を受け、嫌々ながら柴田勝家の過去を探るのだが、その時々で秀吉からの妨害に見舞われる。はたして半介は茶々の命を完遂できるのか? やがて柴田勝家の過去を探る旅の過程でこれに関わる人々の気持ちも変化して……。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

女の首を所望いたす

陸 理明
歴史・時代
織田信長亡きあと、天下を狙う秀吉と家康の激突がついに始まろうとしていた。 その先兵となった鬼武蔵こと森長可は三河への中入りを目論み、大軍を率いて丹羽家の居城である岩崎城の傍を通り抜けようとしていた。 「敵の軍を素通りさせて武士といえるのか!」 若き城代・丹羽氏重は死を覚悟する!

処理中です...