輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒

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第六部 梟雄の死

32 清州にて

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 その日、清州城へ息せき切ってやって来た明智十兵衛は、飲まず食わずで来たせいか、口をぱくぱくとさせて、何も言えない状態だった。
 たまたま居合わせた森可成もりよしなりが十兵衛を抱きかかえて城中に入れ、木綿藤吉が碗に水を入れて持って来る。
 十兵衛は、碗から口を離してすぐに叫んだ。

「す、すぐに織田の殿サンに。さなくば、おひいさまを!」

「ここにおります。十兵衛、何ごとですか」

 帰蝶は清州の城の留守を預かる身である。常に、何か変事があればすぐに駆けつける態勢を維持していた。
 帰蝶は十兵衛の背をさすって、その呼吸を助けながら、彼の言葉を待った。

「え……えらいこっちゃ。よ、義龍の殿サンが……孫四郎どのと喜平次どのを……しいし奉ったんや」

「何ですって!」

 来るべきものがついに来たか、という観はあったが、それでもやはり、自身の兄弟が相剋の悲劇を演じ合うとなると、帰蝶の心は平静ではいられなかった。

「……詳しく聞かせてもらおうか、十兵衛どの」

「信長さま!」

「あっ、織田の殿サン!」

 信長は、いつの間にか伝えに走った木綿から十兵衛の急なおとないを聞き、取るものもとりあえずやって来たところである。
 十兵衛は「もう大丈夫や」と言って、帰蝶に上座に戻るように促し、そしてうやうやしく一礼した。

「こたび、斎藤利政道三入道さいとうとしまさどうさんにゅうどうどの、嫡子であった斎藤義龍により、正室・小見の方さまとのお子、孫四郎どの及び喜平次どのを殺害されました。これを受け、道三入道どのは大桑城おおがじょうへと遁走」

「大桑城」

 帰蝶としては、前夫である土岐頼純ときよりずみが城主をしていた城であり、嫁ぎ先である。

「今は兵をつのっておる次第。しかし、芳しくなく……」

寡兵かへいということか。まずいな」

 これは信長である。
 寡兵とは、少ない兵力を意味し、いかに上手の道三とはいえ、兵数の差はいかんともしがたい。
 帰蝶は大桑城がかつての美濃国主の居城だったことに着目し、籠城すればあるいはと言う。

「……いや、それも無理だ」

「せや、アカンで、おひいさま」

 信長と十兵衛がそろって否定してくるが、帰蝶としては信長が援軍に行くのならば、悪くない選択肢と思える。

「おかたさま」

 ここで意外な人物が発言した。
 木綿である。
 木綿は信長に向かって一礼した。
 信長は「許す」と答えた。

「お方さま、たとえば道三さまが籠城したとしましょう。けれども、道三さまにお味方する国人のお城へ、その義龍が攻め入ったとしたら、道三さまはいかがいたしましょう?」

「それは……救援に……あっ」

 ここで、として言えない木綿のために、信長が補足する。

「そうだ、帰蝶。その時、籠城という策は破れ、と出て来た義父上ちちうえを、義龍が狙うだろう」

「そんな……」

 道三を心配する帰蝶だが、一方で勘づくものがあった。

「……では、なにゆえ父上はを」

「なにゆえ、とは」

 木綿は帰蝶を気づかうように聞く。

「いえ……そこまで兄上、というか義龍にまで、父上はをするのですか?」

「それは……」

 ここで武士の意地とかそういうことを言ったところで、帰蝶は納得すまい。
 どころか、農民の家に生まれた木綿からして、そのようなものを疑問視してしまう。

「いや待て、濃よ」

 濃とは、帰蝶のことを美濃から来た濃姫と呼ぶ、信長の帰蝶への愛称である。
 ここで信長は木綿への謝意と、そして話を引き継ぐことを示した。

「濃よ……何も義父上はさような『武士の意地』とやらでに挑むわけではないぞ……十兵衛どの」

「何でっしゃろ、殿サン」

「義父上……道三どのは、賭け事が好きか?」

「そらあ……るかるかの緊張感がたまらんとか言うて……」

 そこで十兵衛は何事かに気づいたかのように「あっ」と叫んだ。

「で、あるか……許せ、濃。今、。ゆえにの、十兵衛どのへの問いよ」

「か、賭け事が好きというのなら、わたしとて知ってます。なぜに……なぜゆえに、賭け事が好きなことが、このたびのに」

「お方さま」

 今度は森可成の発言である。彼は美濃出身であるが、土岐家に仕えていたということもあり、発言を控えていたが、今ここは、の経験が長い自分が発言すべきだろうと思い、敢えて口を開いたのだ。

「恐れながら申し上げます……道三さまが、義龍に勝てる手段が、ひとつだけ残っております」

「そ、それは」

「義龍を討つ。それに尽きます」

「……なっ」

 何を言うのかと思ったら、と帰蝶が言おうとすると、そこで一同がしんとしていることに気づいた。
 全員、それが正しいと認めているのだ。
 織田信長、明智十兵衛、木綿藤吉、森可成といった面々の全員が。

「……で、でも、義龍の兄上、否、義龍を討つとして、どうするというのですか? それは義龍とて承知でしょうし、そもそも大将というのは本陣にと構えて……」

「濃」

 信長は、帰蝶の手を握った。
 これでは逆だ。
 あの日、織田信秀の葬式の日と逆だ。
 だが、帰蝶はそれを心地よいものとして受け入れた。
 これから聞かされるであろうことを、聞く覚悟ができた。

「……お聞かせください、信長さま。判っているのでしょう? 父上は、どうやって義龍を討つのです?」

 信長は一瞬ためらったが、それでも彼は答えた。

「……今、義龍が一番欲しいものがひとつある。それは何だ?」

「欲しいもの……」

 帰蝶の思考が一瞬でめぐる。
 肩が、手が、わなわなと震える。

「……ま、まさか」

「そうよ」

 信長の手が強く握って来る。

「斎藤道三入道の首、それひとつよ」

 十兵衛がうつむく。
 木綿は肩を落とす。
 可成は黙りこくっている。

「……義父上は、おそらく、一騎打ちに持ち込むつもりなのだ」

 悄然とする信長に、だが帰蝶は決然として言った。

「信長さま」

「何だ」

「お願いがあります」

「許す」

「……まだ、何も言ってませんよ?」

「……知っている」

 帰蝶が何を願うか、信長は知っている。
 帰蝶はうなずいた。
 信長もうなずいた。
 そこで信長が手をひとつ叩くと、吉野きつのが足早にやって来た。

「お呼びでしょうか」

「これより、濃が美濃へ出陣いたす。予も出陣するが、濃は先駆けで征く。濃に甲冑を。仕度を」

「かしこまりました」

 吉野は場の雰囲気で事の重大さを察し、帰蝶に「こちらへ」と促し、やはり足早に、奥へと去って行った。

「なお」

 信長は、場に残った十兵衛、木綿、可成を見た。
 彼らも言われずとも判っていた。

「……元より承知や。大殿に復命せなアカンしな。おひいさまと共に征くで」

「この木綿、蜂須賀小六どのとの縁があります。小六どのとのつなぎに、ぜひそれがしを」

「拙者、この命に代えましても、お方さまをお守り申す。彼奴きゃつらを十文字槍の錆にしてくれましょう」

「……頼む。予も兵を整え次第、すぐに征く」

 ……こうして、帰蝶、十兵衛、木綿、可成は織田家の先発隊として、一路、美濃へ向かった。
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