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第六部 梟雄の死

30 奸計

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 斎藤道三の子ら――孫四郎と喜平次は、一度は「兄」義龍の誘いに応じ、見舞いへと参じたが、わりとあっさりと帰って来た。

 彼らは語る――。
 義龍は、常ならその六尺五寸の巨体から見下ろすように睥睨へいげいしてくるところを、床について哀れっぽく見上げてくるその姿には、さすがに「衰えたな」という観はあった。

「この哀れなる兄に……否、兄だった男に情けを賜らんか」

 いつもは威張り倒してくる義龍に、そこまで低姿勢を取られて、孫四郎と喜平次も悪い気はしなかった。
 そして、「兄」とはどういうことかと聞いた。

「側室の子であったそれがしは……この際だから、斎藤と名乗るのをやめようと思う」

 それは、道三の嫡子であることをやめることかと、孫四郎らは色めき立った。

「そうよ……じゃによって、じゃによって、父に一度、見舞いに来てくれるよう言うてくれぬか。せめて……せめて一目なりとも、最後にお姿を拝見したい、と」

 義龍は病が癒えたら、あるいは小康状態になったらすぐにでも斎藤義龍という名乗りを捨てて、城を出ると告げた。
 孫四郎らも、これで積年の父子の相剋に決着がつく、それも自分たちに家督が回って来るかたちでと喜び、勇んで父・道三の許へと向かった。



めが」

 斎藤道三は山下という土地の私邸に戻ってきており、そこで孫四郎と喜平次の二人に会った。

「誰が会うか。おぬしらも、もう行くのはやめておけ」

 道三は義龍の「病」の狙いが己の殺害にあるとして、密かに義龍打倒の兵を挙げることにした。

「いいか、義龍が何と言おうと、もう会うな。わしも会うつもりはない。わしへの繋ぎなど、無駄なことだ」

 そう言って道三は明智十兵衛と蜂須賀小六を呼び、二人に何がしかの指示を下し、自身もいずこかへと出かけてしまった。

 孫四郎と喜平次としては、当然、面白くない。
 このままいけば、義龍は死ぬか遁世か、あるいは家を出る。それを道三は見届け、廃嫡の上、自分たちのどちらかを嫡子に据える。
 そうなるはずだった。
 それが。

「おい、義龍の兄上から、父上はまだかというふみ が来ているぞ」

「こっちもだ。それに……埒が明かないから、今度は叔父上を寄越すと言っている」

 そうこうするうちに、義龍、孫四郎、喜平次の叔父、つまり道三の弟である長井道利ながいみちとしが来た。ただし、弟と言っても、道三が長井家を継いだ(乗っ取った)時の長井家の男子であり、血縁は無い(諸説あり)。
 どちらかいうと、これまで道三と義龍の間では中立を保ってきた道利まで寄越したことに、義龍の本気が知れた。

「兄上はおらぬか……また、どこぞに悪だくみでもしに行っておるのか」

 道利はぼやきながら、孫四郎と喜平次に、義龍に会ってくれるよう頼んだ。
 孫四郎と喜平次は、だが父上がいないと言うと、道利はもう仕方ないからと答えた。

「義龍どのが、もうと言うて……それで、わしも呼ばれたのじゃ」

 孫四郎と喜平次は顔を見合わせた。
 どうやら、義龍の症状は限界に達しているらしい。

「たしかに、仕方ないな」

「父上には、ふみでも残して置こう」

 ……こうして、孫四郎と喜平次は稲葉山城にいる義龍に会いに行くことになった。
 だがその城から彼らが帰ることは無かったという……。



 斎藤道三が山下の私邸に戻ると、そこには長井道利が待ち構えていた。

「何だ、何か用か」

「それはもう……用が」

「は?」

 道三はこの道利という弟があまり好きではない。
 いつも何かを狙っているような、狐のような目をしている。
 だが、道三が長井家を乗っ取ったという経緯があるので、あまり長井家の者を遠ざけるわけにもいかず、適当な地位と仕事を与えて、お茶を濁していた。
 今、その道利が狐のような目をして、微笑みながら、言った。

「孫四郎と喜平次じゃが……死んだぞ」

「は?」

 道三はつかつかと道利の前まで歩み寄り、道利を見下ろしながら言った。

も休み休み言え。わしと義龍の間を蝙蝠こうもりのように行ったり来たり……さような真似を見逃がして来たのも、もうこれまでだな……まあいい、そのような冗談ともつかぬ妄言を言うために、わざわざわしを待ち受けていたのか?」

「冗談ではない」

 道利は立ち上がって、逆に道三を

「たった今、な。義龍が孫四郎と喜平次のを騙くらかして、もはや最期だ別れの杯よと言うてな、酔わせてからのう……斬り殺したわ!」

「…………」

 道利の態度からして、のことように思える。
 義龍の狙いは、この道三ではなかったのか。
 しくじったか。

「――そう、その顔じゃ」

 道利が思い切り近づいて、下から顔を突き上げるようにして、見上げてきた。

「その顔が、見たかった。したり顔でわが長井家を乗っ取り、したり顔で主君・土岐頼芸ときよりなりさまの愛妾、深芳野みよしのさまを寝取り、そしてまた、したり顔でこの美濃の国主になりおおせる……その兄上、否、のその顔を」

 道利としては、美濃の名門・長井家を盗られた上に、あっさりと守護代・斎藤家に鞍替えした道三は、二重三重に許しがたい存在であった。
 それでも仕えてきたのは、いつか吠え面をかかせてやると思っていたからだ。

「それがどうだ。今や、お前は凋落ちょうらくした。落ちぶれた。それも……寝取ったはずの深芳野さまに宿りし頼芸さまのたねの、義龍にな」

「……どこからそんな話を」

「はあ?」

 美濃ならば、誰でも知っている話だと、道利は嘲った。
 道利としては、頼芸から盗ったの女、その子ども――が、実は頼芸の子であり、それが道三の嫡子であるということに、嘲笑を禁じえなかったという。
 だが衝撃を受けるはずの道三は、ごく冷静にこうらした。

も――雪斎、いや、今川義元のか」

「はあ?」

「いや……道利、お前に言っても詮無きことよ。それよりも、何だ。お前としては、その孫四郎と喜平次の末路を語り、動揺するわがつらを拝みたかったんだろう?」

「そ、そうよ」

 いやに冷静な道三に落ち着かない道利だったが、当初の目的を果たそうと、孫四郎と喜平次が、義龍に酔わされた上、義龍の寵臣・日根野弘就ひねのひろなりに斬らせたことを語った。

「その斬るにあたって、まずわしが刀を置いた。すると、孫四郎と喜平次の奴めらも、礼儀正しくも刀を置いたのよ」

 その策が当たって、奴らは刀を持たず、丸腰で討たれたのだと道利は嘲笑した。
 嘲笑したが……何の反応もないことをいぶかしみ、ふと周りを見ると、誰もいないことに気がついた。

「……兄上?」

 しんとした道三の邸内で、ひとり立ち尽くす道利。
 彼が「逃げられた」と気づくまで、幾ばくかの時を要した。
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