輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒

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第二章 下天の章  第五部 因縁の僧

28 范可(はんか)

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 太原雪斎が、美濃国内某所にて斎藤道三と邂逅かいこうする少し前。
 稲葉山城。
 城主の間。
 事実上の城主にして、先の城主・斎藤道三の嫡子・斎藤義龍は、栴岳承芳せんがくしょうほうと名乗る怪僧と引見していた。
 だが、会ってみると、栴岳承芳はわりとあっさりと「今川義元である」と名乗り、その証拠にと将軍・足利義輝の御内書ごないしょ、つまり将軍からの書状を示した。

「義元どの」

「何じゃ」

 義元は下座に座っているが、いざ面と向かってみると、義龍としては自分が下に座っているような気がした。
 それだけ、義元には貫禄があった。

「義元どの……この御内書、さきが『一色范可いっしきはんか』となっておるが」

 斎藤義龍は、以外は美濃の国主であると認めるなど、自分の望んだとおりの書状であり、文句はないと言った。

 義元はそれを聞いて、に言い放った。

「ならば問題はない……問題があるのは、未だに『斎藤義龍』などと名乗っている、お手前である」

「何と」

 まさか、そのような返しが来るとは思わなかった。
 義龍の内心にかまわず、義元は話しつづける。

「まずは……范可、というところから説明しようかの」

 范可とは、唐土もろこしの人物で、父を殺さざるを得なくなって殺した男である。だが、残念ながら義龍は、そのような人物や故事など、聞いたことが無い。

「実在する、しないは問題ではない」

 義元は将軍の御内書であるというのに、そのようなことは些末な間違いであると言わんばかりである。

「要は……義龍、否、范可どのがこれからあれば良いということじゃ……を、の」

「や、やむを得ず、ち、父を」

「そうじゃ」

 大蛇の微笑みである。
 見えない舌をとさせながら、義元は義龍の方に寄った。

「范可どの、いや義龍どのでもいいが……あと、『一色』というのを忘れるな」

「い、一色」

「そうよ」

 義元は調べ上げていた。義龍の母である、斎藤道三の側室・深芳野みよしのが一色氏の家系であることを。

「……痛快ではないか」

「何がでござる」

「側室の子だの何だの言われているそなたが、実は一色という貴種の血を引いている、と。今こそ……斎藤を越える時が来たようじゃ」

「斎藤を、越える」

「そうじゃ……一色ならば、斎藤など、物の数ではない」

 飽くまでも足利家を頂点とする室町幕府という仕組みの中では、である。
 三管領四職さんかんれいししきの家柄である一色氏は、美濃の守護代の家柄である斎藤家よりは、格が上であった。

「…………」

 義龍は押し黙った。
 実は義龍は、道三を殺すことまでは考えていなかった。道三に自分を認めさせて、嫡子として名実ともに認められれば、それで斎藤家の跡を継いで……。

「甘いのう」

 義元は容赦ない。
 そして誰にも内緒だと言って、己が半生を語った。
 側室の子として生まれた。四男として。
 当然のごとく寺に入れられ、そこで太原雪斎という傑出した僧侶と出会ったから良いものの、そうでなければ、どこかの寺のお飾り、あるいは人質として一生を終えただろう、と。

「そう――弟の氏豊ですら、生まれの良さから尾張那古野に城を持てたというのに……」

 義元は、己を空恐ろし気に見る義龍に気づいた。

「……ああいや、すまぬすまぬ、こちらの話じゃ。それより……どうじゃ? 予の場合は母の血筋など、期待できなかった。そして、が無ければ――」

 そこでまた義元は笑った。
 すでに義龍は魅入られている――その、魔性の笑みに。
 仏陀を誘惑したという、悪魔の笑みに。

「……、花倉の城にこもった三兄・良真ながさねを斃せてのう……予は、『今川』と成った」

「今川」

「そうじゃ、今川これ無くば、予なぞな坊主に過ぎぬ……」

 そしてそれ以上、義元は口を開かなかった。
 あとは――義龍の脳裏で己の言葉が溶けて、ある種の作用を呼び起こすのを、じっと見て、待っていた。

「……義元どの」

 義龍は、声を上げた。
 だがそこに、欲望という名の大蛇が鎌首を上げたのを感じた。
 義元もまた、同じ大蛇を心の中に飼っているだけに。

「……義元どの、予は――一色となる、范可となるぞ」

「それはそれは……よみすべきかな

 義元は立ち上がって、義龍の肩を抱いた。
 すると義龍はいとおしそうにその義元の手をさすり……そして言った。

たれかある」

 すぐに近侍の者が来た。

「何か」

「うむ。弟らに……孫四郎と喜平次に使いを出せ。予はやまいである、といってな」

「病、ですか」

「うむ。こちら、京から来られた栴岳承芳せんがくしょうほうなる学僧の方がおっしゃるには、予の病、膏肓こうこうに入ると伝えい」

「ははっ」

 近侍の者が急ぎ去って行くと、義龍は「わが病の薬が……弟らの命よ」と笑んだ。

「……義龍どの、否、どのよ。ではへの懲罰、期待しておるぞ。そしてそれが成った暁には」

「皆まで言うな、義元どの……むろん、は今川と盟す。共に足利幕府の名門として、力を尽くそうではないか」

 今ここに、斎藤義龍は、一色義龍となった(范可は号であるため、名前としては一色義龍)。
 一色という名がそうさせるのか、元からの義龍の野望がそうさせるのか、それは分からないが、今――一色義龍は今、父・斎藤道三から国を譲られるのではなく、国を盗るべく走り出す。

 ……その国盗りが、実は今川義元という策謀家の謀略の一環であることを知るよしもなく。

かなかな……。そうじゃ、一色どの、范可どの、共に力を尽くそうぞ、、のう……」

 義元は哄笑する。
 その哄笑が道三に向けてなのか、その実、義龍に向けてなのか、それは判然としない……。
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