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第四部 陰謀の嵐
24 調略の裏の謀略
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清州城は織田信長の家臣、森可成により攻略された。
だがその騒動の最中に、守護又代・坂井大膳はうまく逃げおおせたという。
これには信長の叔父・織田信光の意向が働いている。
実は可成の手下が大膳の動向を把握していたが、信光は「泳がせろ」と可成に耳打ちした。
「なにゆえ」
「おそらく大膳の奴めは、今川に言われてやっておる」
その証をつかむために、敢えて逃がし、あとを追わせた方が良いというのだ。
可成はうなずいた。
「では簗田政綱どのに繋ぎましょう。そういうのは、政綱どのの方が向いている」
「……承知」
信光と可成が振り向くと、そこには忍び装束の政綱が立っていた。
「……失礼、信光どのの配下の六鹿椎左衛門の密使を受けたのは、拙者でござるゆえ」
こうして忍んでついてきたのです……という言葉の最後のあたりで、政綱は煙の如く消え失せ、そして気がついた頃には城外へと早駆けしていた。
「あいもかわらず、なかなかの忍びの術よ」
感心する信光に、可成は信長から預かった伝言を伝えた。
「……実は、那古野の城を差し上げるそうです」
「那古野を? ……そうか、信長はこの清州に移る所存か」
「さよう。で、那古野は今回のお手柄であり、家中で一番信頼の置ける、信光どのにお預けしたい、と」
「それはそれは……心憎いことを」
……こうして、織田信長は織田大和守家(守護代家)を滅ぼし、清州城を手に入れた。そしてそれは、単に城を手に入れたことにとどまらず、上に斯波義銀という守護を戴く守護代として、尾張を統治する立場をも手に入れたことを意味する。
むろん、信長自身の弟である織田信行や、織田伊勢守家(岩倉織田家)といった勢力は存在するが、それでも尾張において、信長が一頭地を抜いた勢力となったことには変わりはない。
そして、一見、信長の勢力が伸長したと思える今この時から、信長にとって最大の苦難が始まるのである……。
*
「……師よ。坂井大膳はしくじったようだの」
「うむ。予定通り、しくじったわい」
三河。
岡崎城。
今川義元は三国同盟に関わる諸々の仕事を終え、改めて嫡子の氏真に駿河・遠江を託し、自身はこの三河へと――織田家との最前線へと出張っていた。
そして先に三河入りしていた師・太原雪斎と再会をしている最中であった。
「……義元どの、竹千代はいかがした?」
「師よ。もう竹千代ではない、松平元康じゃ」
松平竹千代は今川義元を烏帽子親として元服し、そして義元の姪・瀬名を娶り、松平元康となった(初名は元信。のちに元康と名乗る。この物語では、分かりやすさ重視のため、この時点から元康と表記します)。
元康は三河平定の尖兵としての役割を期待され、早速に動きが怪しいとされる足助城の鱸氏を牽制するため出陣したところであった。
「ふむ。拙僧の最後の弟子の竹千代、否、元康も、いよいよ出陣か」
「最後とは……師よ、まだまだ頑張ってもらわねば」
「気持ちはありがたいがの……義元どの、拙僧は己の死期を見極めておる。これからの大仕掛けの仕込みが、おそらく最後となろう……それだけの大仕掛けなだけに」
「それは……もしや、織田信光のことか、師よ」
「まさか」
雪斎は笑った。
あのような小仕掛けなど物の数にも入らん、どちらかというと奸計じゃ、と。
「さてさて……その小仕掛けが動き出す隙に、美濃への大仕掛け、始めようかのう、栴岳承芳よ」
「これは」
懐かしい名で来たな、と義元は笑った。
栴岳承芳とは、かつて義元が寺に入れられた頃の、僧侶としての名であった。
そう……太原雪斎という不世出の知性の弟子としての、名であった。
その雪斎は、用意してあった墨染の衣を義元に差し出す。
「こういう……こういう大仕掛けは、そういうかたちから入るのが大事じゃて……それに、美濃の法蓮坊も仕掛けてきよったからの。こちらとしても猶予は無いわい」
法蓮坊。
それは美濃国主・斎藤道三が京の妙覚寺において修行していた頃の、やはり僧侶としての名である。
「例の……足助の城の鱸兵庫助とやら、美濃の遠山という国人が裏におる」
「やはりか」
義元はすでに墨染の衣に着替え、編み笠までかぶっていた。
「法蓮坊め……息子のことで手一杯のわりには、やりおるわい」
雪斎は実に愉快そうに笑った。
雪斎は若い頃、京で法蓮坊、つまり道三と知り合い、そして共に悪さをしていた仲であった。
「……あの頃の借りを返す時が来たようじゃの、法蓮坊」
「師と道三入道に何があったか知らぬが……まあ久々に托鉢行の旅行きというのも悪くないのう」
義元は南無南無とわざとらしく唱えてから、「では」と雪斎を外へと誘った。
雪斎もわざとらしく数珠を鳴らして外へ出る。
「これにて……氏豊の無念を晴らす最後の仕掛け、見事、成してみせようぞ……師よ」
「それだけではないぞ。尾張を手中に、のう……」
……こうして、今川義元と太原雪斎は漂泊の旅僧に身をやつして、美濃へと旅立って行った。
その旅の果てが、文字通り織田信長と帰蝶を窮地に陥れるのだが、信長と帰蝶はそれを知る由もない。
だがその騒動の最中に、守護又代・坂井大膳はうまく逃げおおせたという。
これには信長の叔父・織田信光の意向が働いている。
実は可成の手下が大膳の動向を把握していたが、信光は「泳がせろ」と可成に耳打ちした。
「なにゆえ」
「おそらく大膳の奴めは、今川に言われてやっておる」
その証をつかむために、敢えて逃がし、あとを追わせた方が良いというのだ。
可成はうなずいた。
「では簗田政綱どのに繋ぎましょう。そういうのは、政綱どのの方が向いている」
「……承知」
信光と可成が振り向くと、そこには忍び装束の政綱が立っていた。
「……失礼、信光どのの配下の六鹿椎左衛門の密使を受けたのは、拙者でござるゆえ」
こうして忍んでついてきたのです……という言葉の最後のあたりで、政綱は煙の如く消え失せ、そして気がついた頃には城外へと早駆けしていた。
「あいもかわらず、なかなかの忍びの術よ」
感心する信光に、可成は信長から預かった伝言を伝えた。
「……実は、那古野の城を差し上げるそうです」
「那古野を? ……そうか、信長はこの清州に移る所存か」
「さよう。で、那古野は今回のお手柄であり、家中で一番信頼の置ける、信光どのにお預けしたい、と」
「それはそれは……心憎いことを」
……こうして、織田信長は織田大和守家(守護代家)を滅ぼし、清州城を手に入れた。そしてそれは、単に城を手に入れたことにとどまらず、上に斯波義銀という守護を戴く守護代として、尾張を統治する立場をも手に入れたことを意味する。
むろん、信長自身の弟である織田信行や、織田伊勢守家(岩倉織田家)といった勢力は存在するが、それでも尾張において、信長が一頭地を抜いた勢力となったことには変わりはない。
そして、一見、信長の勢力が伸長したと思える今この時から、信長にとって最大の苦難が始まるのである……。
*
「……師よ。坂井大膳はしくじったようだの」
「うむ。予定通り、しくじったわい」
三河。
岡崎城。
今川義元は三国同盟に関わる諸々の仕事を終え、改めて嫡子の氏真に駿河・遠江を託し、自身はこの三河へと――織田家との最前線へと出張っていた。
そして先に三河入りしていた師・太原雪斎と再会をしている最中であった。
「……義元どの、竹千代はいかがした?」
「師よ。もう竹千代ではない、松平元康じゃ」
松平竹千代は今川義元を烏帽子親として元服し、そして義元の姪・瀬名を娶り、松平元康となった(初名は元信。のちに元康と名乗る。この物語では、分かりやすさ重視のため、この時点から元康と表記します)。
元康は三河平定の尖兵としての役割を期待され、早速に動きが怪しいとされる足助城の鱸氏を牽制するため出陣したところであった。
「ふむ。拙僧の最後の弟子の竹千代、否、元康も、いよいよ出陣か」
「最後とは……師よ、まだまだ頑張ってもらわねば」
「気持ちはありがたいがの……義元どの、拙僧は己の死期を見極めておる。これからの大仕掛けの仕込みが、おそらく最後となろう……それだけの大仕掛けなだけに」
「それは……もしや、織田信光のことか、師よ」
「まさか」
雪斎は笑った。
あのような小仕掛けなど物の数にも入らん、どちらかというと奸計じゃ、と。
「さてさて……その小仕掛けが動き出す隙に、美濃への大仕掛け、始めようかのう、栴岳承芳よ」
「これは」
懐かしい名で来たな、と義元は笑った。
栴岳承芳とは、かつて義元が寺に入れられた頃の、僧侶としての名であった。
そう……太原雪斎という不世出の知性の弟子としての、名であった。
その雪斎は、用意してあった墨染の衣を義元に差し出す。
「こういう……こういう大仕掛けは、そういうかたちから入るのが大事じゃて……それに、美濃の法蓮坊も仕掛けてきよったからの。こちらとしても猶予は無いわい」
法蓮坊。
それは美濃国主・斎藤道三が京の妙覚寺において修行していた頃の、やはり僧侶としての名である。
「例の……足助の城の鱸兵庫助とやら、美濃の遠山という国人が裏におる」
「やはりか」
義元はすでに墨染の衣に着替え、編み笠までかぶっていた。
「法蓮坊め……息子のことで手一杯のわりには、やりおるわい」
雪斎は実に愉快そうに笑った。
雪斎は若い頃、京で法蓮坊、つまり道三と知り合い、そして共に悪さをしていた仲であった。
「……あの頃の借りを返す時が来たようじゃの、法蓮坊」
「師と道三入道に何があったか知らぬが……まあ久々に托鉢行の旅行きというのも悪くないのう」
義元は南無南無とわざとらしく唱えてから、「では」と雪斎を外へと誘った。
雪斎もわざとらしく数珠を鳴らして外へ出る。
「これにて……氏豊の無念を晴らす最後の仕掛け、見事、成してみせようぞ……師よ」
「それだけではないぞ。尾張を手中に、のう……」
……こうして、今川義元と太原雪斎は漂泊の旅僧に身をやつして、美濃へと旅立って行った。
その旅の果てが、文字通り織田信長と帰蝶を窮地に陥れるのだが、信長と帰蝶はそれを知る由もない。
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