輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒

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第四部 陰謀の嵐

20 駿府より

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 駿府。
 甲相駿三国同盟の成立により、湧き上がる今川家であったが、そこへ村木砦の戦いの結果が伝えられ、一同は暗然とした。
 だが今川義元は大して気にもならぬといった風に、「そんなことより竹千代の縁組をどうするかのう」と、黒く染めた歯を見せて笑ったという。
 そして竹千代をいざなって別室へと行き、そこで待っていた太原雪斎に本音を開陳した。

「してやられたわ、織田の小倅めに!」

 義元は声を荒げて、扇子を投げ飛ばした。雪斎は澄ましたもので、その扇子を、す……と拾い上げて、義元に渡して寄越した。

「……で、如何にする」

「師よ。決まっておろうが」

 義元は竹千代の方に目を向けた。竹千代はかしこまって固くなる。

「怯えておるではないか、不肖の弟子よ」

 雪斎がたしなめると、義元は困ったような表情を浮かべた。

「……いや、これは。竹千代にはわが一族の者を嫁に迎えさせようと思うておる。ゆえに」

 生の感情をあらわにしたのだ、脅すつもりはないと義元は詫びた。
 竹千代としては、ますます恐れ入る限りだが、そうばかりでもいられず、「何をお望みですか」と聞いた。

「……そうよ、それよ。そのように受け答えするからこそ、竹千代はわが一族にと思うたのじゃ……さて」

 義元が雪斎に目配せをすると、雪斎は懐から、自身の調の結果である「勢力地図」を取り出した。

「村木の砦で敗れしは……東条松平家の義春じゃな」

 義元が雪斎から渡された扇子で額をとする。
 ふと、その音が途絶える。
 義元の顔に会心の笑みが。
 何か、思いついた様子だった。

「なるほどなるほど……そうかそうか、東条松平じゃったか……のう」

 義元の扇子が地図の上を走り、ある一点で静止する。
 その扇子の先には、「三河下和田」とあった。

「確か、東条松平家はこの下和田の地をめぐって、争うておったの。相手は……」

「桜井松平家ですか」

 松平宗家の竹千代は即座に答えた。
 桜井松平家は、松平宗家の地位を狙って、たびたび争乱を起こし、竹千代としてはあまりいい印象を抱いていなかった。
 義元は、腐るな腐るなと笑う。

「それはさておき……その桜井松平家は、確か……織田信光に娘を嫁がせておったの」

「…………」

 まさか。
 竹千代の額を、冷や汗が伝う。
 織田信光は、今や織田信長の織田弾正忠家おだだんじょうじょうけの柱石ともいえる存在である。
 その正室は桜井松平家の出身であり、ちなみに水野家の水野信元もその姉妹を正室としている。

から、しかけるかのう」

 義元がほくそ笑む。
 それはまさに大蛇の微笑みで、人との差は、舌がちらつかないだけの差に過ぎない。
 少なくとも竹千代には、そう感じられた。

「師よ。そちらのを頼めるか。予も仕込んだが……さすがに今、予は三国同盟のと、竹千代のことがあるでのう」

 雪斎は得たりかしこしとうなずいた。

「……ま、ええじゃろ。じゃが、拙僧も駿府に戻ったばかり。拙僧もをせんとのう」

 今後の今川家の尾張進出へ向けてのをのう……と雪斎は含み笑いをしながら立ち上がった。

「まあとりあえず、その桜井松平家には、下和田をめぐる、義元どのの『裁定』を有利に運びたいなら、それ相応のことをせよと言うておくとするかのう」

「……頼む。尾張は、氏豊の」

「皆まで言うな、わが弟子よ」

 今川氏豊。
 今川那古野氏という、かつて、今川家の一族が尾張の代官となった時の血筋の家の養子に入っていた、義元の弟である。
 氏豊は那古野の城に入っていたが、そこを織田信秀と平手政秀の主従に盗られてしまい、今に至る。

「ようもやってくれたのう……織田よ」

 その今川氏豊とやら、よほど仲の良かった兄弟だったのだな……と竹千代は思い、同時にその氏豊の仇である織田家の織田信長のこれからの運命を思うと、怖気おぞけを震った。



 しかし、今川義元――太原雪斎の魔の手はすぐには信長に触れられず、むしろここ最近は、逆に信長にとって有利な展開が進んでいた……結果としては。

 まず、尾張守護代・織田大和守家おだやまとのかみけの織田信友が、村木砦の戦いなどの信長の躍進にしびれを切らし、あるいは裏から義元の指図があったのか、とうとう信長の暗殺を目論むようになった。
 信友は、守護又代の坂井大膳と共謀し、最近、信長と近しい尾張守護職・斯波しば義統よしむねの名をかたって、信長を呼び寄せて殺そうとしていた。
 だが、ここで、その斯波義統の家来にそのことを話して協力させようとしたところが、事の露見につながった。
 その家来――梁田弥次右衛門は、ふんふんと信友と大膳の話を聞くふりをして、それをそのまま義統に伝えた。

「予の名で呼んで、そこで信長を暗殺じゃと!?」

 義統とて戦国に生きる武士であり、大名である。や斬り合いがあることぐらいは承知している。
 だが。

「いやいや……信秀の嫡男じゃぞ!? それを予の名で!? ふ、ふざけるのも大概にせい、大概に」

 斯波家は代々、今川家にきた。遠江を奪われ、さらに那古野に勝手に城を築かれて、今川氏豊という者を城主として送り込まれた。
 切歯扼腕する斯波家の救世主ともいうべき存在が、織田弾正忠家・織田信秀であった。
 信秀は氏豊から那古野の城を奪取し、さらに今川が勢力を伸ばしている三河へと攻め入るという、義統からすると痛快な壮挙をやってのけた。
 信秀が死に、織田弾正忠家も今川家と和して、鳴りを潜めていたが、ごく最近、信秀の嫡子・信長が、速攻で村木砦を落とし、義統は「今度会ったら褒めてやろう」とほくほく顔であった。

「うぬぬ……信友め、大膳め」

 こんなことをやらせてはおけぬ。
 義統は弥次右衛門を手招きした。

「……弥次右衛門、ちこう寄れ」
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