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第二部 尾張の雄
10 末森城にて
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早朝。
末森城。
織田信長の弟、織田信行の居城である。
信行はそこで、腹心である柴田権六勝家と話し込んでいた。
信行は信長への対抗心に燃えており、信長がうつけならと、信行は品行方正を心がけていた。
その信行が、家臣であるとはいえ勝家の前で、片手の爪を噛みながら、いらいらとしていた。
「勝家よ」
「はい」
「兄上の使いが、確かにそう言うたのじゃな、この信行に兵を出せ、と」
「門番……と小者が言うには、そのとおりでござる」
信長の使いと名乗る者は、末森城の門番に「まだ早すぎる」と城に入れてもらえず、門前で待機していた。
それゆえに、勝家も門番からの(門番が門から離れられないため、さらにちがう小者からの)また聞きである。
「ふざけるな!」
信行は怒鳴り、そしてまた爪を噛む。
父の位牌に抹香を叩きつけるような輩――信長が、自分で戦うのはまだいい。
しかし、さらにこの信行にも「兵を出せ、戦え」と命じてくるとは。
「あたかも……この信行が、兄上の下である、とでも言いたげではないか」
「…………」
奇行奇癖で知られる兄では、弾正忠家に人が従わない。
そう思ったからこそ、信行は「自分が弾正忠家の跡取りである」とふるまって、弾正忠家に人を従わせるようにしてきたのだ。
そうすれば――やがて兄とて、自分の方が上だと認め、従うのは無いにしても、遠慮して、単なる独立勢力として孤立する道を選ぶだろう。
「そして弾正忠家はこの信行が盛り立てる。元通り、守護と守護代の忠実な家臣として、本来の在り方に戻る。さすれば、又代の坂井大膳どのとて――」
「手をゆるめる、とはなりませんでしょうな」
それは勝家の発言ではない。
突然、現れた第三者の発言だ。
「何奴!?」
勝家が刀に手をかけると、その第三者は「久しいの、権六」と応じた。
「ひ、平手!? 平手政秀!?」
これは信行の発言である。
「火急の件につき、この平手政秀、信長さまの命によりまかりこしました」
両手をついての丁寧な挨拶に、信行も勝家も座り直して応じざるを得ない。
「……で、何用じゃ」
しかし信行はすぐに爪を噛むことを再開する。
政秀はそれを見て見ぬふりをして、「援軍を」と要請した。
「こたびの信長さま、そして信光さまのいくさ、弾正忠家としてのいくさでござる。なにとぞ信行さまも合力あそばして、共に織田伊賀守と織田信次さまをお救い……」
「さようなことにつきあういわれはないわッ」
信行としては、先ほどいったとおり、守護代に恭順することこそが、弾正忠家の生きる道と考えている。
だというのに、守護代とその又代に兵を向けるなど。
「できようはずがない。勝家、客人にお帰りいただけ」
「ははっ」
勝家は立ち、その巨体を重たそうに動かし、政秀の真正面に立った。
「平手どの。聞いたとおりだ。帰ってもらおう」
「…………」
沈黙する政秀の背後で――城内のどこかで、門番が怒鳴っていた。
勝手に門をこじ開けて入った奴がいる、と。
「……門を破ってまで。いい加減にされてはどうか、平手どの。年寄りの冷や水が過ぎるぞ」
勝家の苦言。
そこまでは良かった。
だが、そのあとにつづく、信行の嘲りが良くなかった。
「……まったく、主も主なら、家来も家来だ。こんな主従に後を任せるなんぞ、父上も病で焼きが回ったか」
「……おい、小僧」
政秀の目がつり上がった。
「お前、いつの間に信秀のことを『焼きが回った』なんて言えるようになったのきゃあ?」
政秀の尾張弁。
朝廷や公家、他国の大名とのやり取りのある政秀は、常日頃、京言葉を使うように心がけていた。
その政秀が尾張弁を使うということは。
「おりゃ、頭に来てたまらん。ええ加減にさらせよゥ」
怒髪天を衝く怒りを意味した。
信行をかばうように、勝家が信行の前に。
だが。
柴田勝家は後世に猛将として知られる武士である。
その勝家が。
「か、勝家、何で退くのじゃ」
信行は戦場に出たことが無い。
だから、目の前の老人が怒るとは、どういうことかが、分かっていなかった。
「……お引きなされませ、信行さま。平手どの、否、平手の親爺を怒らせると」
故・織田信秀以外は手が付けられぬ。
沈毅な勝家も、震えが止まらないくらいの阿修羅の表情の政秀。
その政秀が、一歩、前に出た。
ずしん。
信行の耳に、そんな音が聞こえたような気がした。
つまり、今や信行も政秀の迫力に気圧されていた。
そういえば思い出す。
あの父・信秀が安心して尾張を空けて合戦に出たのも、この政秀が留守を守っていたからだという。
「……どけ、権六ゥ。そこな小僧に、おれと信秀が作った弾正忠家を潰す気ィか、聞かせい」
「…………」
勝家は死を覚悟した。
脂汗を流しながらも、刀の柄に手をかけた。
「……ま、待て! いや、待ってくれ!」
だが信行が音を上げた。
「す、すまぬ平手! わ、分かった。兵を出す! 出すから、どうかこの場は……」
「……あい分かり申した」
それまでの態度はどこへやら、政秀は古式ゆかしく拝礼し、勝家を一瞥すると、踵を返した。
ついて来い、という意味らしい。
「……それでは、寄り騎に行って参りまする」
寄り騎とは、援軍の意味である。
……こうして、織田信行は、家来の中で最も勇猛な勝家を、兄・信長への助っ人として、送り出す羽目になった。
末森城。
織田信長の弟、織田信行の居城である。
信行はそこで、腹心である柴田権六勝家と話し込んでいた。
信行は信長への対抗心に燃えており、信長がうつけならと、信行は品行方正を心がけていた。
その信行が、家臣であるとはいえ勝家の前で、片手の爪を噛みながら、いらいらとしていた。
「勝家よ」
「はい」
「兄上の使いが、確かにそう言うたのじゃな、この信行に兵を出せ、と」
「門番……と小者が言うには、そのとおりでござる」
信長の使いと名乗る者は、末森城の門番に「まだ早すぎる」と城に入れてもらえず、門前で待機していた。
それゆえに、勝家も門番からの(門番が門から離れられないため、さらにちがう小者からの)また聞きである。
「ふざけるな!」
信行は怒鳴り、そしてまた爪を噛む。
父の位牌に抹香を叩きつけるような輩――信長が、自分で戦うのはまだいい。
しかし、さらにこの信行にも「兵を出せ、戦え」と命じてくるとは。
「あたかも……この信行が、兄上の下である、とでも言いたげではないか」
「…………」
奇行奇癖で知られる兄では、弾正忠家に人が従わない。
そう思ったからこそ、信行は「自分が弾正忠家の跡取りである」とふるまって、弾正忠家に人を従わせるようにしてきたのだ。
そうすれば――やがて兄とて、自分の方が上だと認め、従うのは無いにしても、遠慮して、単なる独立勢力として孤立する道を選ぶだろう。
「そして弾正忠家はこの信行が盛り立てる。元通り、守護と守護代の忠実な家臣として、本来の在り方に戻る。さすれば、又代の坂井大膳どのとて――」
「手をゆるめる、とはなりませんでしょうな」
それは勝家の発言ではない。
突然、現れた第三者の発言だ。
「何奴!?」
勝家が刀に手をかけると、その第三者は「久しいの、権六」と応じた。
「ひ、平手!? 平手政秀!?」
これは信行の発言である。
「火急の件につき、この平手政秀、信長さまの命によりまかりこしました」
両手をついての丁寧な挨拶に、信行も勝家も座り直して応じざるを得ない。
「……で、何用じゃ」
しかし信行はすぐに爪を噛むことを再開する。
政秀はそれを見て見ぬふりをして、「援軍を」と要請した。
「こたびの信長さま、そして信光さまのいくさ、弾正忠家としてのいくさでござる。なにとぞ信行さまも合力あそばして、共に織田伊賀守と織田信次さまをお救い……」
「さようなことにつきあういわれはないわッ」
信行としては、先ほどいったとおり、守護代に恭順することこそが、弾正忠家の生きる道と考えている。
だというのに、守護代とその又代に兵を向けるなど。
「できようはずがない。勝家、客人にお帰りいただけ」
「ははっ」
勝家は立ち、その巨体を重たそうに動かし、政秀の真正面に立った。
「平手どの。聞いたとおりだ。帰ってもらおう」
「…………」
沈黙する政秀の背後で――城内のどこかで、門番が怒鳴っていた。
勝手に門をこじ開けて入った奴がいる、と。
「……門を破ってまで。いい加減にされてはどうか、平手どの。年寄りの冷や水が過ぎるぞ」
勝家の苦言。
そこまでは良かった。
だが、そのあとにつづく、信行の嘲りが良くなかった。
「……まったく、主も主なら、家来も家来だ。こんな主従に後を任せるなんぞ、父上も病で焼きが回ったか」
「……おい、小僧」
政秀の目がつり上がった。
「お前、いつの間に信秀のことを『焼きが回った』なんて言えるようになったのきゃあ?」
政秀の尾張弁。
朝廷や公家、他国の大名とのやり取りのある政秀は、常日頃、京言葉を使うように心がけていた。
その政秀が尾張弁を使うということは。
「おりゃ、頭に来てたまらん。ええ加減にさらせよゥ」
怒髪天を衝く怒りを意味した。
信行をかばうように、勝家が信行の前に。
だが。
柴田勝家は後世に猛将として知られる武士である。
その勝家が。
「か、勝家、何で退くのじゃ」
信行は戦場に出たことが無い。
だから、目の前の老人が怒るとは、どういうことかが、分かっていなかった。
「……お引きなされませ、信行さま。平手どの、否、平手の親爺を怒らせると」
故・織田信秀以外は手が付けられぬ。
沈毅な勝家も、震えが止まらないくらいの阿修羅の表情の政秀。
その政秀が、一歩、前に出た。
ずしん。
信行の耳に、そんな音が聞こえたような気がした。
つまり、今や信行も政秀の迫力に気圧されていた。
そういえば思い出す。
あの父・信秀が安心して尾張を空けて合戦に出たのも、この政秀が留守を守っていたからだという。
「……どけ、権六ゥ。そこな小僧に、おれと信秀が作った弾正忠家を潰す気ィか、聞かせい」
「…………」
勝家は死を覚悟した。
脂汗を流しながらも、刀の柄に手をかけた。
「……ま、待て! いや、待ってくれ!」
だが信行が音を上げた。
「す、すまぬ平手! わ、分かった。兵を出す! 出すから、どうかこの場は……」
「……あい分かり申した」
それまでの態度はどこへやら、政秀は古式ゆかしく拝礼し、勝家を一瞥すると、踵を返した。
ついて来い、という意味らしい。
「……それでは、寄り騎に行って参りまする」
寄り騎とは、援軍の意味である。
……こうして、織田信行は、家来の中で最も勇猛な勝家を、兄・信長への助っ人として、送り出す羽目になった。
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