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第二部 尾張の雄
09 織田信光
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「是非もなし!」
織田三郎信長は叫んだ。
赤塚の戦いから四か月。
内政に励み、外交に邁進し、兵を鍛えた。
城の者総出で田植えを手伝ったこともある。
帰蝶を美濃へ、平手政秀を尾張の諸勢力へと向かわせ、関係の構築に腐心した。
他ならぬ信長は、近侍の服部小平太や、そろそろ初陣をとの声の聞こえる前田犬千代(前田利家)らを従えて、偸盗や山賊退治にかこつけて、いくさを学んだ。
「今少し時が欲しかったが、是非もなし!」
情報収集を担当する簗田政綱が、まだ明けやらぬ夏の朝にそれを告げた時、信長は叫んだ。
だが、やれることはやった。
この四か月、駆け抜けるように過ごして来た。
たまには息を抜いて、帰蝶と村祭りに出かけたこともあるが、それも含めて、やれることはやったという実感はあった。
「……湯漬けを作りましょう」
いつの間にか隣にいた帰蝶がそう言った。
そう言われると、力が湧いて来る。
信長はひとつ伸びをして、「誰かある!」と怒鳴った。
すると、すぐに木綿という小者が駆けつけて来た。木綿は、濃尾国境の国人・蜂須賀小六の紹介で織田家に仕えることになった小者である。
元は、尾張中村の農家の出身であり、小六によって紹介された頃がちょうど赤塚の戦いの時だった。当時、攻める相手の山口教継が中村に陣取っていたこともあり、雇った。
この木綿はくるくるとよく働き、気がついたら信長の世話をする小者となっていた。
信長は何事も速いため、それに対応し、あるいは予期して動ける木綿はうってつけだったからである。
「木綿、陣触れじゃ。すぐに出る」
「かしこまりました」
木綿は言われたとおりに大声で「出陣! 出陣!」と触れて回った。しかし木綿はそれからすぐには戻らなかった。信長としては、木綿に甲冑を持ってきてもらいたかったが、仕方なく帰蝶に甲冑を持ってきてもらい、そのまま帰蝶に手伝ってもらって甲冑を身に付けているところに戻って来た。
「遅いではないか」
「馬に飼い葉をあげておりました」
甲冑は信長が自分で、馬は世話に慣れている自分がやれば、時間が節約できる、と木綿は弁明した。
「で、あるか」
信長は毒気を抜かれたような顔をして言った。
隣でくすくすと笑っていた帰蝶は、けれどもすぐ笑いを納めた。
「木綿」
「はい」
「それは判りましたが、次からは先に言いなさい」
「恐れ入りました」
木綿は一礼して退出した。
木綿藤吉。
やがては木下藤吉郎、いずれは羽柴秀吉と名乗り、ついには豊臣秀吉となりおおせる男であるが、今この時は、織田信長と帰蝶に仕える忠実で、けれど少し癖のある小者だった。
*
何食わぬ顔をして信長の馬の轡を取る木綿を見て、信長は何か言いたそうな表情をしたが、結局「出る!」とのみ告げて、庄内川河畔、稲庭地へ向かった。
稲庭地につくと、そこには一人の男と、彼の率いる兵が待っていた。
「信光叔父上」
「約束通り、来たぞ」
守山城主・織田信光。
信長の父・信秀の弟にして、智勇兼備の名将である。
信長は、赤塚の戦いからこの四か月間、この信光を味方にしようと必死だった。
最終的には、信長と、そして戦友である平手政秀が嫌になるほどこんこんと掻き口説き、信光が「参った」と言って、味方となった。
「……して、政秀は?」
信光は、ある意味、政秀と共に戦えるのを楽しみにしていた節があり、早速に彼の姿を求めた。
信長は信光に詫びた。
「すまぬ、叔父上。政秀は今、末森じゃ」
「末森」
末森城。
そこは、信長の弟である信行の根拠地である。
「信行の兵も必要じゃ。じゃによって、貰うて来ると言いおった」
信長は、今回の織田大和守家のいくさ、織田弾正忠家への挑戦であると断定した。
「由々しきことである。ことは、おれと坂井大膳で戦うだけではすまない」
「…………」
信光は少し考えてから、言った。
「信長」
「何じゃ」
「これは……おれのおかげじゃな、とでも言っておくべきか」
「……そうじゃ!」
信長は笑った。素直に認めた。
織田信光という弾正忠家の巨頭が信長に味方する。
その事実をもって、信行に「お前も弾正忠家なら、加われ」という無言の圧力をかける。
これのために、信長はこの四か月間、信光への説得に一番時間をかけた。
だからこそ、信長と平手政秀は、「もう寝る」と言った信光の寝所にまで追いかけて来て、一晩かけて話し込んだのだ。
「……あれには参った。だが、おれを味方にして、信行も味方にしたい、というのもあったんだな」
悪くない、と信光も笑った。
それに、今回の戦いの状況も、うってつけだった。
同じ弾正忠家の織田伊賀守も織田信次が人質に取られている。
特に、信次は信光の弟であり、つまり、信長と信行の叔父だ。
「これぞ、弾正忠家を守る戦いと言えるなぁ」
その時、信長の馬の轡が軽く引っ張られた。
木綿が「そろそろ」と無言で言っているのだ。
「フ」と信長が洩らす。
勝手なふるまい、叱られても仕方ないというのに、敢えてしてくる。
信長は、こういうふるまいをする男が嫌いではない。
「叔父上、では征こうぞ」
「おう」
信光は信長の肩を軽くたたき、馬に鞭をくれた。
信長も「それっ」と信光につづいた。
織田三郎信長は叫んだ。
赤塚の戦いから四か月。
内政に励み、外交に邁進し、兵を鍛えた。
城の者総出で田植えを手伝ったこともある。
帰蝶を美濃へ、平手政秀を尾張の諸勢力へと向かわせ、関係の構築に腐心した。
他ならぬ信長は、近侍の服部小平太や、そろそろ初陣をとの声の聞こえる前田犬千代(前田利家)らを従えて、偸盗や山賊退治にかこつけて、いくさを学んだ。
「今少し時が欲しかったが、是非もなし!」
情報収集を担当する簗田政綱が、まだ明けやらぬ夏の朝にそれを告げた時、信長は叫んだ。
だが、やれることはやった。
この四か月、駆け抜けるように過ごして来た。
たまには息を抜いて、帰蝶と村祭りに出かけたこともあるが、それも含めて、やれることはやったという実感はあった。
「……湯漬けを作りましょう」
いつの間にか隣にいた帰蝶がそう言った。
そう言われると、力が湧いて来る。
信長はひとつ伸びをして、「誰かある!」と怒鳴った。
すると、すぐに木綿という小者が駆けつけて来た。木綿は、濃尾国境の国人・蜂須賀小六の紹介で織田家に仕えることになった小者である。
元は、尾張中村の農家の出身であり、小六によって紹介された頃がちょうど赤塚の戦いの時だった。当時、攻める相手の山口教継が中村に陣取っていたこともあり、雇った。
この木綿はくるくるとよく働き、気がついたら信長の世話をする小者となっていた。
信長は何事も速いため、それに対応し、あるいは予期して動ける木綿はうってつけだったからである。
「木綿、陣触れじゃ。すぐに出る」
「かしこまりました」
木綿は言われたとおりに大声で「出陣! 出陣!」と触れて回った。しかし木綿はそれからすぐには戻らなかった。信長としては、木綿に甲冑を持ってきてもらいたかったが、仕方なく帰蝶に甲冑を持ってきてもらい、そのまま帰蝶に手伝ってもらって甲冑を身に付けているところに戻って来た。
「遅いではないか」
「馬に飼い葉をあげておりました」
甲冑は信長が自分で、馬は世話に慣れている自分がやれば、時間が節約できる、と木綿は弁明した。
「で、あるか」
信長は毒気を抜かれたような顔をして言った。
隣でくすくすと笑っていた帰蝶は、けれどもすぐ笑いを納めた。
「木綿」
「はい」
「それは判りましたが、次からは先に言いなさい」
「恐れ入りました」
木綿は一礼して退出した。
木綿藤吉。
やがては木下藤吉郎、いずれは羽柴秀吉と名乗り、ついには豊臣秀吉となりおおせる男であるが、今この時は、織田信長と帰蝶に仕える忠実で、けれど少し癖のある小者だった。
*
何食わぬ顔をして信長の馬の轡を取る木綿を見て、信長は何か言いたそうな表情をしたが、結局「出る!」とのみ告げて、庄内川河畔、稲庭地へ向かった。
稲庭地につくと、そこには一人の男と、彼の率いる兵が待っていた。
「信光叔父上」
「約束通り、来たぞ」
守山城主・織田信光。
信長の父・信秀の弟にして、智勇兼備の名将である。
信長は、赤塚の戦いからこの四か月間、この信光を味方にしようと必死だった。
最終的には、信長と、そして戦友である平手政秀が嫌になるほどこんこんと掻き口説き、信光が「参った」と言って、味方となった。
「……して、政秀は?」
信光は、ある意味、政秀と共に戦えるのを楽しみにしていた節があり、早速に彼の姿を求めた。
信長は信光に詫びた。
「すまぬ、叔父上。政秀は今、末森じゃ」
「末森」
末森城。
そこは、信長の弟である信行の根拠地である。
「信行の兵も必要じゃ。じゃによって、貰うて来ると言いおった」
信長は、今回の織田大和守家のいくさ、織田弾正忠家への挑戦であると断定した。
「由々しきことである。ことは、おれと坂井大膳で戦うだけではすまない」
「…………」
信光は少し考えてから、言った。
「信長」
「何じゃ」
「これは……おれのおかげじゃな、とでも言っておくべきか」
「……そうじゃ!」
信長は笑った。素直に認めた。
織田信光という弾正忠家の巨頭が信長に味方する。
その事実をもって、信行に「お前も弾正忠家なら、加われ」という無言の圧力をかける。
これのために、信長はこの四か月間、信光への説得に一番時間をかけた。
だからこそ、信長と平手政秀は、「もう寝る」と言った信光の寝所にまで追いかけて来て、一晩かけて話し込んだのだ。
「……あれには参った。だが、おれを味方にして、信行も味方にしたい、というのもあったんだな」
悪くない、と信光も笑った。
それに、今回の戦いの状況も、うってつけだった。
同じ弾正忠家の織田伊賀守も織田信次が人質に取られている。
特に、信次は信光の弟であり、つまり、信長と信行の叔父だ。
「これぞ、弾正忠家を守る戦いと言えるなぁ」
その時、信長の馬の轡が軽く引っ張られた。
木綿が「そろそろ」と無言で言っているのだ。
「フ」と信長が洩らす。
勝手なふるまい、叱られても仕方ないというのに、敢えてしてくる。
信長は、こういうふるまいをする男が嫌いではない。
「叔父上、では征こうぞ」
「おう」
信光は信長の肩を軽くたたき、馬に鞭をくれた。
信長も「それっ」と信光につづいた。
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