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第二部 尾張の雄
08 守護代・織田大和守家(おだやまとのかみけ)、動く
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「お帰りなさいませ」
織田信長が城に戻ることを事前に知らせてくれたおかげで、帰蝶は、ちょうどよい加減に湯漬けを用意することができた。
湯漬けといっても、昆布や椎茸を使って出汁を取ったお湯で作っている(いわゆる「出汁茶漬け」)。
信長は、手軽に食べられる湯漬けを好んでいたが、帰蝶が出汁で茶漬けを作るようになって、ますます食べるようになった。
「うまい!」
「ありがとうございます」
信長は、褒める時は素直に褒める。帰蝶も悪い気がしないので「おかわり、いりますか」とつい手が伸びてしまう。
……いつしか日も暮れて、夜となり、信長は碗を抱きながら、ごろごろしていると、突如立ち上がって、「来てくれ」と帰蝶を誘った。
誘った先は、城の屋根の上だった。
「月がきれいじゃろう、帰蝶」
「そうですね」
美濃の夜空の月と同じくらいだ、と帰蝶は思ったが、信長が気を悪くするかもしれないと、それ以上は言わなかった。
「……美濃の義父上には感謝している」
何だか、胸の内を読まれたのかと感じてしまう信長の発言だが、これは、美濃の義父上、つまり斉藤道三が、今川義元の「動き」を教えてくれたことへの「感謝」であるらしい。
「義父上のお言葉なくば、あのように早くに、山口教継への対応、うまくできなかった」
帰蝶が急ぎ那古野城に帰って来て、道三の言葉を伝えられた信長は、即座に家臣の簗田政綱に命じて、三河との国境を徹底的に調べさせた。
政綱は忍びを統括する立場にあり、情報収集に長けていた。
そして物の見事に、鳴海城の山口教継の動きを察知した。
「……あとはただ、先手先手で教継をやり込めれば終いよ」
信長としては、教継を始末するつもりはなかった。下手に始末しては、今川義元の介入を呼ぶことになるからだ。
「しかし、こうしてやり込めておけば、あとしばらくは、尾張に対して手を伸ばそうと思うまい」
それこそが、信長の赤塚の戦いにおける狙いである。
山口教継を懲らしめておき、これ以上尾張へ、信長の方への侵攻を諦めさせる。
いつでも対応できるぞという姿勢を示すことができれば、それだけで充分。
「羹に懲りて膾を吹く、ということですね」
「応よ」
羹に懲りて膾を吹く。
――熱いものを食べて、冷たいものを食べるときに、吹いて冷まそうとする、手痛い経験から、必要以上に警戒してしまうことを意味する。
「さて」
信長は夜空を眺めながら――真顔で言った。
「これで尾張国内に専念できる」
「ええ」
同族である末森城にいる弟の織田信行を始めとして、岩倉城の織田信安(織田伊勢守家)、そして、清洲の尾張守護代・織田信友(織田大和守家)。
信長の敵は尽きない。
だが、帰蝶との縁で、美濃の斎藤道三とは和睦の関係にあり、その道三の教えにより、今川に対応できた。
「まずは内政。だが、他の『織田』との合戦は免れないな」
特に守護代・織田信友、というか又代(守護代のさらに代わりの者、つまり守護又代)の坂井大膳の動きが怪しい。
「末森の信行や岩倉はまだ様子見、見に徹しているようだが、坂井大膳……奴めは何か狙うておるな」
赤塚の戦いで敢えて留守居にさせておいた平手政秀が、その動きを感知したという。
信長がその赤塚の戦いを早々に切り上げたため、何事もなく終わったが、確かに兵を集める気配があった――と。
「こりゃ、うかうかと戦いに興じておれぬな。すぐに、速攻で勝たねばなぁ」
やれやれと信長は頭を掻いた。
そして留守居の兵も必要で、少ない人数で勝てとは邪道もいいとこだ、とぼやいた。
「……三郎さま」
「応」
「留守居につきましては、わたしに策がございます」
「何だと?」
信長は切れ長の目を光らせて、帰蝶を見た。
帰蝶の方も、大きな瞳を輝かせて、それに応えた。
そして、そっと信長の耳に口を寄せた。
「……ほう」
信長が笑った。
「さっすが、蝮の娘よのう。よう思うついた」
でしょう、と思わず微笑みたくなる帰蝶であったが、そこはこらえた。
その策はまだ思いついたばかり。
仕込みはこれからで、油断は禁物と思ったからである。
*
信長の読みどおり。
動いたのは織田信友の又代・坂井大膳である。
「信長の奴めは、赤塚で今川とやり合うたらしい」
大膳は赤塚の戦いを、織田信長と今川義元の泥沼の争いの始まりと捉えた。
長い目で見ればそれは間違いではないのだが、実際は今川の動きは、少なくとも今は信長の狙いどおり、沈静化している。三河に潜む今川義元が何を考えているか、詳しくは分からないが、信長と帰蝶は、北条と武田との同盟の交渉が本格化してきたのではないかと睨んでいた。
それはさておき、大膳の取り仕切る織田大和守家は始動する。
尾張制圧に向けて。
「松葉城と深田城を落とせ」
天文二十一年八月十五日、坂井大膳は坂井甚介・河尻与一・織田三位を従えて出陣、織田伊賀守の松葉城、織田信次の深田城を攻撃した。織田伊賀守も織田信次も、信長の一族であり、二人の城は信長のなわばりといえた。
坂井大膳はその日のうちに松葉、深田の両城を落とし、織田伊賀守と織田信次を捕らえて人質とした。
天文二十一年四月十七日の赤塚の戦いから、実に四か月後のことであった。
織田信長が城に戻ることを事前に知らせてくれたおかげで、帰蝶は、ちょうどよい加減に湯漬けを用意することができた。
湯漬けといっても、昆布や椎茸を使って出汁を取ったお湯で作っている(いわゆる「出汁茶漬け」)。
信長は、手軽に食べられる湯漬けを好んでいたが、帰蝶が出汁で茶漬けを作るようになって、ますます食べるようになった。
「うまい!」
「ありがとうございます」
信長は、褒める時は素直に褒める。帰蝶も悪い気がしないので「おかわり、いりますか」とつい手が伸びてしまう。
……いつしか日も暮れて、夜となり、信長は碗を抱きながら、ごろごろしていると、突如立ち上がって、「来てくれ」と帰蝶を誘った。
誘った先は、城の屋根の上だった。
「月がきれいじゃろう、帰蝶」
「そうですね」
美濃の夜空の月と同じくらいだ、と帰蝶は思ったが、信長が気を悪くするかもしれないと、それ以上は言わなかった。
「……美濃の義父上には感謝している」
何だか、胸の内を読まれたのかと感じてしまう信長の発言だが、これは、美濃の義父上、つまり斉藤道三が、今川義元の「動き」を教えてくれたことへの「感謝」であるらしい。
「義父上のお言葉なくば、あのように早くに、山口教継への対応、うまくできなかった」
帰蝶が急ぎ那古野城に帰って来て、道三の言葉を伝えられた信長は、即座に家臣の簗田政綱に命じて、三河との国境を徹底的に調べさせた。
政綱は忍びを統括する立場にあり、情報収集に長けていた。
そして物の見事に、鳴海城の山口教継の動きを察知した。
「……あとはただ、先手先手で教継をやり込めれば終いよ」
信長としては、教継を始末するつもりはなかった。下手に始末しては、今川義元の介入を呼ぶことになるからだ。
「しかし、こうしてやり込めておけば、あとしばらくは、尾張に対して手を伸ばそうと思うまい」
それこそが、信長の赤塚の戦いにおける狙いである。
山口教継を懲らしめておき、これ以上尾張へ、信長の方への侵攻を諦めさせる。
いつでも対応できるぞという姿勢を示すことができれば、それだけで充分。
「羹に懲りて膾を吹く、ということですね」
「応よ」
羹に懲りて膾を吹く。
――熱いものを食べて、冷たいものを食べるときに、吹いて冷まそうとする、手痛い経験から、必要以上に警戒してしまうことを意味する。
「さて」
信長は夜空を眺めながら――真顔で言った。
「これで尾張国内に専念できる」
「ええ」
同族である末森城にいる弟の織田信行を始めとして、岩倉城の織田信安(織田伊勢守家)、そして、清洲の尾張守護代・織田信友(織田大和守家)。
信長の敵は尽きない。
だが、帰蝶との縁で、美濃の斎藤道三とは和睦の関係にあり、その道三の教えにより、今川に対応できた。
「まずは内政。だが、他の『織田』との合戦は免れないな」
特に守護代・織田信友、というか又代(守護代のさらに代わりの者、つまり守護又代)の坂井大膳の動きが怪しい。
「末森の信行や岩倉はまだ様子見、見に徹しているようだが、坂井大膳……奴めは何か狙うておるな」
赤塚の戦いで敢えて留守居にさせておいた平手政秀が、その動きを感知したという。
信長がその赤塚の戦いを早々に切り上げたため、何事もなく終わったが、確かに兵を集める気配があった――と。
「こりゃ、うかうかと戦いに興じておれぬな。すぐに、速攻で勝たねばなぁ」
やれやれと信長は頭を掻いた。
そして留守居の兵も必要で、少ない人数で勝てとは邪道もいいとこだ、とぼやいた。
「……三郎さま」
「応」
「留守居につきましては、わたしに策がございます」
「何だと?」
信長は切れ長の目を光らせて、帰蝶を見た。
帰蝶の方も、大きな瞳を輝かせて、それに応えた。
そして、そっと信長の耳に口を寄せた。
「……ほう」
信長が笑った。
「さっすが、蝮の娘よのう。よう思うついた」
でしょう、と思わず微笑みたくなる帰蝶であったが、そこはこらえた。
その策はまだ思いついたばかり。
仕込みはこれからで、油断は禁物と思ったからである。
*
信長の読みどおり。
動いたのは織田信友の又代・坂井大膳である。
「信長の奴めは、赤塚で今川とやり合うたらしい」
大膳は赤塚の戦いを、織田信長と今川義元の泥沼の争いの始まりと捉えた。
長い目で見ればそれは間違いではないのだが、実際は今川の動きは、少なくとも今は信長の狙いどおり、沈静化している。三河に潜む今川義元が何を考えているか、詳しくは分からないが、信長と帰蝶は、北条と武田との同盟の交渉が本格化してきたのではないかと睨んでいた。
それはさておき、大膳の取り仕切る織田大和守家は始動する。
尾張制圧に向けて。
「松葉城と深田城を落とせ」
天文二十一年八月十五日、坂井大膳は坂井甚介・河尻与一・織田三位を従えて出陣、織田伊賀守の松葉城、織田信次の深田城を攻撃した。織田伊賀守も織田信次も、信長の一族であり、二人の城は信長のなわばりといえた。
坂井大膳はその日のうちに松葉、深田の両城を落とし、織田伊賀守と織田信次を捕らえて人質とした。
天文二十一年四月十七日の赤塚の戦いから、実に四か月後のことであった。
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