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第一章 人間の章 第一部 美濃の姫
06 今川の暗躍
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今川家の謀臣、太原雪斎はそのあとすぐに駿府を発ち、いずこかへと消えた。
織田家の重臣、平手政秀はそのことをすぐに察知したが、その行方を探ることよりも、今は、織田信長と帰蝶の結婚により北――美濃と、織田信秀最期の交渉により西――三河・遠江・駿河と、和したことによる「有利」を有効活用すべきと判じた。
太原雪斎という黒衣の宰相の動きを気にするばかり、その主である今川義元の策動に気づけなかったことは、政秀としては後で痛恨の極みと歎くことになるが、それはまた別の話である。
いずれにせよ、政秀は、新たな主・信長へと献言した。
「今こそ――尾張国内を」
「で、あるか」
信長としても、故・信秀と政秀が構築したこの「和」こそが、彼に対する遺産であり捧げものであることを理解している。
信長は精力的に治政に励み、帰蝶もまた励んだ。
その帰蝶は主に、実家である美濃斉藤家に対する交渉を任された。
交渉相手としての父・斉藤道三は実に渋い相手だったが、最後には折れるところに親心が透けて見えた。
濃尾国境の何度目かの交渉の際に、道三は言った。
「帰蝶よ」
「何ですか、父上」
「落ち着いたらでいいが、やはり信長どのに会ってみたいの」
「えっ」
「何じゃ、その『えっ』は」
「……意外でしたので」
道三が「会ってみたい」というのはよっぽどのことだ。少なくとも、帰蝶はそう思った。
若い頃は諸国を巡り歩いたというが、ここ数年は年齢のせいか、あるいは美濃を固めるせいか、稲葉山城に腰を据えていた。
現に今、こうして帰蝶は稲葉山城へと出向いて、道三と会見している次第である。
「……うーん、うまくは言えんが」
道三は断りを入れてから、片手で口を隠しながら、ひそひそと言った。
「何やら、尾張……というか、三河? あるいは遠江、駿河まで行くか? 怪しい動きがある」
「それは」
今川に何かあるのか、と帰蝶は凄んだ。
道三は肩をすくめた。
「怖や怖や……実の父に、何て目をするのだ」
「だって」
このあたり、逆に実の親子だからこその遠慮の無さで、通じるものがあった。
「父上、織田の平手どのが言うには、今川の黒衣の宰相、太原雪斎禅師は姿をくらましているとか。もしや」
「ああ、そっちじゃない」
道三は、今度はちがう片手をひらひらとさせる。
「雪斎の狙いは、あたりがついてる。むしろ、親玉の方よ」
「親玉」
雪斎から見て「親玉」とは、ひとりしかいない。
「今川、義元……」
「応よ。その義元どのの動きが怪しい。ありゃ、何かを策しておるらしいのう……尾張に」
「…………」
平手政秀は太原雪斎の所在が知れないため、織田家の忍びを統括する簗田政綱に厳命して、全力でその行方を探らせていた。その過程で、三河や遠江にはいないということは知れていた。
一方で今川義元は、息子の氏真を駿府に残し、三河に入ったという。
「いちおう、和睦の相手でもあるし、今川も三河の治める必要があると思うておりましたが――」
「……帰蝶」
道三はいつの間にか真顔になっていた。
「そなた、いや、そなたと信長は、今川義元を騙くらかすつもりだったのであろう」
「……うっ」
それは、蝮とたとえられた男にふさわしい眼力による凝視。
いかに娘である帰蝶といえども、正視は耐えられなかった。
「……お察しのとおりでございます」
帰蝶は告げた。
信長と帰蝶、そして政秀は、否、織田信秀は、末期の策として今川と和し、時を稼ぎ、その間に信長らは尾張を安定させ、しかるのちに今川と手を切り、というか騙し討ちにして、攻め込むつもりでいた。
「……ところが、今川義元、どうやらそれを読んでいたようだぞ」
くっく……とくぐもった笑いをもらす道三。
彼は「できる」相手を見つけると、いつもこうやって笑った。
「良いか。この道三と和している証が帰蝶、お前である。しかるに、今川の方は、それに匹敵する証が無い」
であれば、義元としてはいずれ織田が手切れをしてくるという意図が見え透いてくる。
「仕掛けてくるぞ、帰蝶……義元が」
「ど、どうやって」
「判らん」
「えっ」
「そんなもんが判るのなら、今川義元、とうに討たれておるわ」
かつて、河東一乱という、河東(駿河東部)をめぐる今川家と北条家の戦いにおいて、甲斐の武田家を抱き込んで、いわば二対一のかたちで北条家を追い込んだ義元である。そして、その河東一乱は、義元を討てば、あるいは死に物狂いで今川と武田を攻めれば、あるいは……というところであった。しかし義元は遥か北の河越において争乱を起こし、河越に征かざるを得ない北条家に、河東を割譲させるという離れ業をやってのけた。
「……かように、今川義元という男は周到よ。周到に仕込みをする男よ。こうして三河に潜んで何かを策している……と思わせてその実、すでにその仕込みは終わっているであろう」
「…………」
帰蝶は胸騒ぎがした。
今川義元が今、三河において策すとすれば、それは何なのか。
道三はそんな娘を見て、ひとつ忠告しておいてやる、と言った。
「良いか。雪斎禅師の方の狙いを教えといてやる。それはな、今川、北条、武田の三国による同盟よ」
「さ、三国の、同盟?」
そんな、唐土の合従連衡のような真似が。
うまい手を思いつくのう、と道三はあごを撫でた。
「この美濃は、信濃に――武田に接しておる。それゆえに分かった。他にも狙いはあろうが、少なくとも、その三国同盟の西への狙いは、武田が斎藤を、今川が織田を、ということよ」
さすがは戦国を代表する梟雄、斎藤道三である。その目は冴えわたっていた。
帰蝶は立ち上がった。
「ためになるお話、ありがとうございました」
「何の、何の」
「それでは急ぎ出立し、夫と今後のことを相談します」
「そうせい、そうせい」
道三はからからと笑って、帰蝶を送り出した。
送ったあと、一人残された部屋の中で――初めてため息をついた。
「夫、か……」
すっかり「奥方様」が板についている娘に、道三は安心と同時に、少々の寂しさを感じるのだった。
織田家の重臣、平手政秀はそのことをすぐに察知したが、その行方を探ることよりも、今は、織田信長と帰蝶の結婚により北――美濃と、織田信秀最期の交渉により西――三河・遠江・駿河と、和したことによる「有利」を有効活用すべきと判じた。
太原雪斎という黒衣の宰相の動きを気にするばかり、その主である今川義元の策動に気づけなかったことは、政秀としては後で痛恨の極みと歎くことになるが、それはまた別の話である。
いずれにせよ、政秀は、新たな主・信長へと献言した。
「今こそ――尾張国内を」
「で、あるか」
信長としても、故・信秀と政秀が構築したこの「和」こそが、彼に対する遺産であり捧げものであることを理解している。
信長は精力的に治政に励み、帰蝶もまた励んだ。
その帰蝶は主に、実家である美濃斉藤家に対する交渉を任された。
交渉相手としての父・斉藤道三は実に渋い相手だったが、最後には折れるところに親心が透けて見えた。
濃尾国境の何度目かの交渉の際に、道三は言った。
「帰蝶よ」
「何ですか、父上」
「落ち着いたらでいいが、やはり信長どのに会ってみたいの」
「えっ」
「何じゃ、その『えっ』は」
「……意外でしたので」
道三が「会ってみたい」というのはよっぽどのことだ。少なくとも、帰蝶はそう思った。
若い頃は諸国を巡り歩いたというが、ここ数年は年齢のせいか、あるいは美濃を固めるせいか、稲葉山城に腰を据えていた。
現に今、こうして帰蝶は稲葉山城へと出向いて、道三と会見している次第である。
「……うーん、うまくは言えんが」
道三は断りを入れてから、片手で口を隠しながら、ひそひそと言った。
「何やら、尾張……というか、三河? あるいは遠江、駿河まで行くか? 怪しい動きがある」
「それは」
今川に何かあるのか、と帰蝶は凄んだ。
道三は肩をすくめた。
「怖や怖や……実の父に、何て目をするのだ」
「だって」
このあたり、逆に実の親子だからこその遠慮の無さで、通じるものがあった。
「父上、織田の平手どのが言うには、今川の黒衣の宰相、太原雪斎禅師は姿をくらましているとか。もしや」
「ああ、そっちじゃない」
道三は、今度はちがう片手をひらひらとさせる。
「雪斎の狙いは、あたりがついてる。むしろ、親玉の方よ」
「親玉」
雪斎から見て「親玉」とは、ひとりしかいない。
「今川、義元……」
「応よ。その義元どのの動きが怪しい。ありゃ、何かを策しておるらしいのう……尾張に」
「…………」
平手政秀は太原雪斎の所在が知れないため、織田家の忍びを統括する簗田政綱に厳命して、全力でその行方を探らせていた。その過程で、三河や遠江にはいないということは知れていた。
一方で今川義元は、息子の氏真を駿府に残し、三河に入ったという。
「いちおう、和睦の相手でもあるし、今川も三河の治める必要があると思うておりましたが――」
「……帰蝶」
道三はいつの間にか真顔になっていた。
「そなた、いや、そなたと信長は、今川義元を騙くらかすつもりだったのであろう」
「……うっ」
それは、蝮とたとえられた男にふさわしい眼力による凝視。
いかに娘である帰蝶といえども、正視は耐えられなかった。
「……お察しのとおりでございます」
帰蝶は告げた。
信長と帰蝶、そして政秀は、否、織田信秀は、末期の策として今川と和し、時を稼ぎ、その間に信長らは尾張を安定させ、しかるのちに今川と手を切り、というか騙し討ちにして、攻め込むつもりでいた。
「……ところが、今川義元、どうやらそれを読んでいたようだぞ」
くっく……とくぐもった笑いをもらす道三。
彼は「できる」相手を見つけると、いつもこうやって笑った。
「良いか。この道三と和している証が帰蝶、お前である。しかるに、今川の方は、それに匹敵する証が無い」
であれば、義元としてはいずれ織田が手切れをしてくるという意図が見え透いてくる。
「仕掛けてくるぞ、帰蝶……義元が」
「ど、どうやって」
「判らん」
「えっ」
「そんなもんが判るのなら、今川義元、とうに討たれておるわ」
かつて、河東一乱という、河東(駿河東部)をめぐる今川家と北条家の戦いにおいて、甲斐の武田家を抱き込んで、いわば二対一のかたちで北条家を追い込んだ義元である。そして、その河東一乱は、義元を討てば、あるいは死に物狂いで今川と武田を攻めれば、あるいは……というところであった。しかし義元は遥か北の河越において争乱を起こし、河越に征かざるを得ない北条家に、河東を割譲させるという離れ業をやってのけた。
「……かように、今川義元という男は周到よ。周到に仕込みをする男よ。こうして三河に潜んで何かを策している……と思わせてその実、すでにその仕込みは終わっているであろう」
「…………」
帰蝶は胸騒ぎがした。
今川義元が今、三河において策すとすれば、それは何なのか。
道三はそんな娘を見て、ひとつ忠告しておいてやる、と言った。
「良いか。雪斎禅師の方の狙いを教えといてやる。それはな、今川、北条、武田の三国による同盟よ」
「さ、三国の、同盟?」
そんな、唐土の合従連衡のような真似が。
うまい手を思いつくのう、と道三はあごを撫でた。
「この美濃は、信濃に――武田に接しておる。それゆえに分かった。他にも狙いはあろうが、少なくとも、その三国同盟の西への狙いは、武田が斎藤を、今川が織田を、ということよ」
さすがは戦国を代表する梟雄、斎藤道三である。その目は冴えわたっていた。
帰蝶は立ち上がった。
「ためになるお話、ありがとうございました」
「何の、何の」
「それでは急ぎ出立し、夫と今後のことを相談します」
「そうせい、そうせい」
道三はからからと笑って、帰蝶を送り出した。
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