5 / 101
第一章 人間の章 第一部 美濃の姫
03 那古野(なごや)の城
しおりを挟む
信長は速い。
動きが速い。
思考が速い。
判断が速い。
気がつくと帰蝶は、那古野の城に居た。
信長が父・信秀に与えられた、彼の最初の城だという。
「皆の者、これがおれの嫁じゃ!」
これとは何だ、これとは。
自分はものじゃない。
帰蝶が無表情に信長と、彼の取り巻きとおぼしき連中を見ていると、いつの間にやら隣に老人が立っていた。
「平手政秀と申します」
老人はそう名乗った。
信長の傅役として務めて来た家老で、今回の信長と帰蝶の結婚も、政秀の尽力に因るものらしい。
「……何分、信長さまは敵が多い。弟御の信行さまからも」
政秀としては、今回の結婚により、信長は美濃の斎藤道三の後ろ盾を得て、織田信秀の後継者としての立場を確かなものにしたいのである。
「お説はもっともですが」
こんな時代だ。戦国だ。
男女の縁など、会ってどうこうではなく、今のようにすでに結婚する仲になっている場合が多い。
だが、それにしたって。
「要は、人質でしょう」
今、他ならぬ信長が言ったではないか。
これ、と。
帰蝶は根に持っていた。
「これは手厳しい」
道三と信秀は、長年、争ってきた。
信秀は、土岐頼純に味方する、という名目で美濃に攻めて来た。
帰蝶がその頼純に嫁ぐことにより、道三としては頼純と信秀に和を求めたことになる。
「ところが、その頼純さまが死んだ。信秀さまとしては、美濃との和の証が欲しいのでしょう」
「…………」
政秀は黙って頭を掻いた。
予想外に頭の良い娘だ、と内心舌を巻きながら。
帰蝶の言うことには一理あり、実際、政秀はその論法で織田家中、ひいては信秀まで説得して見せた。
そして決め台詞はこれだ。
「東の方、今川が虎視眈々と狙うておるというに」
信秀は、今川、すなわち海道一の弓取り、駿河の国主・今川義元と長年争ってきた。
この時代の濃尾平野は、斎藤、織田、今川の三つ巴の争いが繰り広げられてきた。
政秀自身、兵を率いて今川と戦ったことがある。
「……しかし帰蝶さま」
「何です」
「たしかに貴女は人質。そう言われても間違いではない。けど、それだけで終わるおつもりか?」
「…………」
自分で人質として求めて来たくせに、何を言うか。
帰蝶はフンと鼻息をした。
「この乱世。人々は戦いに倦んだ。それでもと子を産み育み、その子を娶わせるは、何故じゃと思われるか」
「それは……」
いつの間にか、問う答えるの立場が逆になっている。
さすがに織田家中にその人ありと謳われた宿将らしく、その眼光に隙が無い。
そう……まるで、父・道三のような。
政秀の問いへの答えを知っているものの、息を呑む帰蝶の後ろから、小唄が聞こえた。
「死のふは一定……」
その平仄、まるで父のような。
振り返ると、そこに信長がいた。
「死のふは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすのよ」
そう唄って信長は、爺、こういうことじゃろうがと言った。
こういうこととは、人が何故生くるかということへの、ひとつの答え。
死んだあとに語られるだけの何かをしようということこそが、生きる目的だという小唄。
目を大きく開いた帰蝶。
父・道三以外にその小唄を好む者がいたとは。
そんな帰蝶の様子に、信長は何かに気づく。
「これではなく……濃。そう、濃は、おれが嫁ぞ。じゃから、代わりにおれが答えても良かろう? 濃、爺はな、二言目にはこの世に生まれて来たのは何のためかとうるさいのじゃ」
いちいちうるさいゆえ、このような小唄で答えてやっているのよ……と信長は口を尖らせた。
しかし、その表情、まんざらでもないらしい。
要は、信長は政秀のことが好きなのだ。
政秀が信長を慈しんでいるのと、同じくらいに。
「これは失礼を」
政秀はにっこり笑う。
「どうせまた明日にでも、忘れたようにおんなじことを聞いてくるぞ、濃。今のうちに、今の小唄、唄って覚えとくか?」
どこから持ち出したのか琉球渡来の蛇皮線を小脇に抱え、信長はお前ら前祝いの支度をしろと怒鳴った。
「さアほれ、おれと濃が唄ってる間に頼むぞ! 酒とか肴とか、持って来てくれい!」
信長の取り巻きたちは、わっと駆け出して、厨を目指していった。
ちなみに先頭を走っていたのは政秀だったりする。
「まあ」
「爺はな、あれで傾奇者よ。面白いじゃろう?」
蛇皮線をかき鳴らしながら、信長は楽しそうに笑った。
動きが速い。
思考が速い。
判断が速い。
気がつくと帰蝶は、那古野の城に居た。
信長が父・信秀に与えられた、彼の最初の城だという。
「皆の者、これがおれの嫁じゃ!」
これとは何だ、これとは。
自分はものじゃない。
帰蝶が無表情に信長と、彼の取り巻きとおぼしき連中を見ていると、いつの間にやら隣に老人が立っていた。
「平手政秀と申します」
老人はそう名乗った。
信長の傅役として務めて来た家老で、今回の信長と帰蝶の結婚も、政秀の尽力に因るものらしい。
「……何分、信長さまは敵が多い。弟御の信行さまからも」
政秀としては、今回の結婚により、信長は美濃の斎藤道三の後ろ盾を得て、織田信秀の後継者としての立場を確かなものにしたいのである。
「お説はもっともですが」
こんな時代だ。戦国だ。
男女の縁など、会ってどうこうではなく、今のようにすでに結婚する仲になっている場合が多い。
だが、それにしたって。
「要は、人質でしょう」
今、他ならぬ信長が言ったではないか。
これ、と。
帰蝶は根に持っていた。
「これは手厳しい」
道三と信秀は、長年、争ってきた。
信秀は、土岐頼純に味方する、という名目で美濃に攻めて来た。
帰蝶がその頼純に嫁ぐことにより、道三としては頼純と信秀に和を求めたことになる。
「ところが、その頼純さまが死んだ。信秀さまとしては、美濃との和の証が欲しいのでしょう」
「…………」
政秀は黙って頭を掻いた。
予想外に頭の良い娘だ、と内心舌を巻きながら。
帰蝶の言うことには一理あり、実際、政秀はその論法で織田家中、ひいては信秀まで説得して見せた。
そして決め台詞はこれだ。
「東の方、今川が虎視眈々と狙うておるというに」
信秀は、今川、すなわち海道一の弓取り、駿河の国主・今川義元と長年争ってきた。
この時代の濃尾平野は、斎藤、織田、今川の三つ巴の争いが繰り広げられてきた。
政秀自身、兵を率いて今川と戦ったことがある。
「……しかし帰蝶さま」
「何です」
「たしかに貴女は人質。そう言われても間違いではない。けど、それだけで終わるおつもりか?」
「…………」
自分で人質として求めて来たくせに、何を言うか。
帰蝶はフンと鼻息をした。
「この乱世。人々は戦いに倦んだ。それでもと子を産み育み、その子を娶わせるは、何故じゃと思われるか」
「それは……」
いつの間にか、問う答えるの立場が逆になっている。
さすがに織田家中にその人ありと謳われた宿将らしく、その眼光に隙が無い。
そう……まるで、父・道三のような。
政秀の問いへの答えを知っているものの、息を呑む帰蝶の後ろから、小唄が聞こえた。
「死のふは一定……」
その平仄、まるで父のような。
振り返ると、そこに信長がいた。
「死のふは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすのよ」
そう唄って信長は、爺、こういうことじゃろうがと言った。
こういうこととは、人が何故生くるかということへの、ひとつの答え。
死んだあとに語られるだけの何かをしようということこそが、生きる目的だという小唄。
目を大きく開いた帰蝶。
父・道三以外にその小唄を好む者がいたとは。
そんな帰蝶の様子に、信長は何かに気づく。
「これではなく……濃。そう、濃は、おれが嫁ぞ。じゃから、代わりにおれが答えても良かろう? 濃、爺はな、二言目にはこの世に生まれて来たのは何のためかとうるさいのじゃ」
いちいちうるさいゆえ、このような小唄で答えてやっているのよ……と信長は口を尖らせた。
しかし、その表情、まんざらでもないらしい。
要は、信長は政秀のことが好きなのだ。
政秀が信長を慈しんでいるのと、同じくらいに。
「これは失礼を」
政秀はにっこり笑う。
「どうせまた明日にでも、忘れたようにおんなじことを聞いてくるぞ、濃。今のうちに、今の小唄、唄って覚えとくか?」
どこから持ち出したのか琉球渡来の蛇皮線を小脇に抱え、信長はお前ら前祝いの支度をしろと怒鳴った。
「さアほれ、おれと濃が唄ってる間に頼むぞ! 酒とか肴とか、持って来てくれい!」
信長の取り巻きたちは、わっと駆け出して、厨を目指していった。
ちなみに先頭を走っていたのは政秀だったりする。
「まあ」
「爺はな、あれで傾奇者よ。面白いじゃろう?」
蛇皮線をかき鳴らしながら、信長は楽しそうに笑った。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
【短編】輿上(よじょう)の敵 ~ 私本 桶狭間 ~
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
今川義元の大軍が尾張に迫る中、織田信長の家臣、簗田政綱は、輿(こし)が来るのを待ち構えていた。幕府により、尾張において輿に乗れるは斯波家の斯波義銀。かつて、信長が傀儡の国主として推戴していた男である。義元は、義銀を御輿にして、尾張の支配を目論んでいた。義銀を討ち、義元を止めるよう策す信長。が、義元が落馬し、義銀の輿に乗って進軍。それを知った信長は、義銀ではなく、輿上の敵・義元を討つべく出陣する。
【表紙画像】
English: Kano Soshu (1551-1601)日本語: 狩野元秀(1551〜1601年), Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
花倉の乱 ~今川義元はいかにして、四男であり、出家させられた身から、海道一の弓取りに至ったか~
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
今川義元は、駿河守護・今川氏親の四男として生まれ、幼くして仏門に入れられていた。
しかし、十代後半となった義元に転機が訪れる。
天文5年(1536年)3月17日、長兄と次兄が同日に亡くなってしまったのだ。
かくして、義元は、兄弟のうち残された三兄・玄広恵探と、今川家の家督をめぐって争うことになった。
――これは、海道一の弓取り、今川義元の国盗り物語である。
【表紙画像】
Utagawa Kuniyoshi, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
前夜 ~敵は本能寺にあり~
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
織田信忠は、本能寺の変の前夜、父・信長を訪れていた。そして信長から、織田家の――信忠の今後と、明智光秀の今後についての考えを聞く。それを知った光秀は……。
【表紙画像・挿絵画像】
「きまぐれアフター」様より
河越夜戦 〜相模の獅子・北条新九郎氏康は、今川・武田連合軍と関東諸侯同盟軍八万に、いかに立ち向かったのか〜
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
今は昔、戦国の世の物語――
父・北条氏綱の死により、北条家の家督を継いだ北条新九郎氏康は、かつてない危機に直面していた。
領国の南、駿河・河東(駿河東部地方)では海道一の弓取り・今川義元と、甲斐の虎・武田晴信の連合軍が侵略を開始し、領国の北、武蔵・河越城は関東管領・山内上杉憲政と、扇谷上杉朝定の「両上杉」の率いる八万の関東諸侯同盟軍に包囲されていた。
関東管領の山内上杉と、扇谷上杉という関東の足利幕府の名門の「双つの杉」を倒す夢を祖父の代から受け継いだ、相模の獅子・北条新九郎氏康の奮戦がはじまる。
池田戦記ー池田恒興・青年編ー信長が最も愛した漢
林走涼司(はばしり りょうじ)
歴史・時代
天文5年(1536)尾張国の侍長屋で、産声を上げた池田勝三郎は、戦で重傷を負い余命を待つだけの父、利恒と、勝三郎を生んだばかりの母、お福を囲んで、今後の身の振り方を決めるため利恒の兄、滝川一勝、上役の森寺秀勝が額を付き合わせている。
利恒の上司、森寺秀勝の提案は、お福に、主、織田信秀の嫡男吉法師の乳母になることだった……。
座頭の石《ざとうのいし》
とおのかげふみ
歴史・時代
盲目の男『石』は、《つる》という女性と二人で旅を続けている。
旅の途中で出会った女性《よし》と娘の《たえ》の親子。
二人と懇意になり、町に留まることにした二人。
その町は、尾張藩の代官、和久家の管理下にあったが、実質的には一人のヤクザが支配していた。
《タノヤスケゴロウ》表向き商人を装うこの男に目を付けられてしまった石。
町は幕府からの大事業の河川工事の真っ只中。
棟梁を務める《さだよし》は、《よし》に執着する《スケゴロウ》と対立を深めていく。
和久家の跡取り問題が引き金となり《スケゴロウ》は、子分の《やキり》の忠告にも耳を貸さず、暴走し始める。
それは、《さだよし》や《よし》の親子、そして、《つる》がいる集落を破壊するということだった。
その事を知った石は、《つる》を、《よし》親子を、そして町で出会った人々を守るために、たった一人で立ち向かう。
わが友ヒトラー
名無ナナシ
歴史・時代
史上最悪の独裁者として名高いアドルフ・ヒトラー
そんな彼にも青春を共にする者がいた
一九〇〇年代のドイツ
二人の青春物語
youtube : https://www.youtube.com/channel/UC6CwMDVM6o7OygoFC3RdKng
参考・引用
彡(゜)(゜)「ワイはアドルフ・ヒトラー。将来の大芸術家や」(5ch)
アドルフ・ヒトラーの青春(三交社)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる