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第一章 人間の章  第一部 美濃の姫

03 那古野(なごや)の城

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 信長は速い。
 動きが速い。
 思考が速い。
 判断が速い。
 気がつくと帰蝶は、那古野なごやの城に居た。
 信長が父・信秀に与えられた、彼の最初の城だという。

「皆の者、がおれの嫁じゃ!」

 とは何だ、とは。
 自分はじゃない。
 帰蝶が無表情に信長と、彼の取り巻きとおぼしき連中を見ていると、いつの間にやら隣に老人が立っていた。

平手ひらて政秀まさひでと申します」

 老人はそう名乗った。
 信長の傅役もりやくとして務めて来た家老で、今回の信長と帰蝶の結婚も、政秀の尽力に因るものらしい。

「……何分、信長さまは敵が多い。弟御おとうとご信行のぶゆきさまからも」

 政秀としては、今回の結婚により、信長は美濃の斎藤道三の後ろ盾を得て、織田信秀の後継者としての立場を確かなものにしたいのである。

「お説はもっともですが」

 こんな時代だ。戦国だ。
 男女の縁など、会ってどうこうではなく、今のようにすでに結婚する仲になっている場合が多い。
 だが、それにしたって。

「要は、人質でしょう」

 今、他ならぬ信長が言ったではないか。
 、と。
 帰蝶は根に持っていた。

「これは手厳しい」

 道三と信秀は、長年、争ってきた。
 信秀は、土岐とき頼純よりずみに味方する、という名目で美濃に攻めて来た。
 帰蝶がその頼純にことにより、道三としては頼純と信秀にを求めたことになる。

「ところが、その頼純さまが死んだ。信秀さまとしては、美濃とのあかしが欲しいのでしょう」

「…………」

 政秀は黙って頭をいた。
 予想外に頭の良い娘だ、と内心舌を巻きながら。
 帰蝶の言うことには一理あり、実際、政秀はその論法で織田家中、ひいては信秀まで説得して見せた。
 そして決め台詞はこれだ。

「東の方、今川が虎視眈々とねろうておるというに」

 信秀は、今川、すなわち海道一の弓取り、駿河するがの国主・今川義元と長年争ってきた。
 この時代の濃尾平野は、斎藤、織田、今川の三つ巴の争いが繰り広げられてきた。
 政秀自身、兵を率いて今川と戦ったことがある。

「……しかし帰蝶さま」

「何です」

「たしかに貴女は人質。そう言われても間違いではない。けど、それだけで終わるおつもりか?」

「…………」

 自分で人質として求めて来たくせに、何を言うか。
 帰蝶はフンと鼻息をした。

「この乱世。人々は戦いにんだ。それでもと子を産み育み、その子をめあわせるは、何故じゃと思われるか」

「それは……」

 いつの間にか、問う答えるの立場が逆になっている。
 さすがに織田家中にその人ありとうたわれた宿将らしく、その眼光に隙が無い。

 そう……まるで、父・道三のような。
 、息を呑む帰蝶の後ろから、小唄が聞こえた。

「死のふは一定いちじょう……」

 その平仄ひょうそく、まるで父のような。
 振り返ると、そこに信長がいた。

「死のふは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすのよ」

 そう唄って信長は、爺、じゃろうがと言った。
 とは、人が何故かということへの、ひとつの答え。
 死んだあとに語られるだけの何かをしようということこそが、生きる目的だという小唄。
 目を大きく開いた帰蝶。
 父・道三以外にその小唄を好む者がいたとは。
 そんな帰蝶の様子に、信長は何かに気づく。

ではなく……。そう、濃は、おれが嫁ぞ。じゃから、代わりにおれが答えても良かろう? 濃、爺はな、二言目にはこの世に生まれて来たのは何のためかとうるさいのじゃ」

 いちいちうるさいゆえ、このような小唄で答えてやっているのよ……と信長は口を尖らせた。
 しかし、その表情、まんざらでもないらしい。
 要は、信長は政秀のことが好きなのだ。
 政秀が信長をいつくしんでいるのと、同じくらいに。

「これは失礼を」

 政秀はにっこり笑う。

「どうせまた明日にでも、忘れたようにおんなじことを聞いてくるぞ、濃。今のうちに、今の小唄、唄って覚えとくか?」

 どこから持ち出したのか琉球りゅうきゅう渡来の蛇皮線じゃびせんを小脇に抱え、信長はお前ら前祝いの支度をしろと怒鳴った。

「さアほれ、おれと濃が唄ってる間に頼むぞ! ささとかさかなとか、持って来てくれい!」

 信長の取り巻きたちは、わっと駆け出して、くりやを目指していった。
 ちなみに先頭を走っていたのは政秀だったりする。

「まあ」

「爺はな、あれで傾奇者かぶきものよ。面白いじゃろう?」

 蛇皮線をかき鳴らしながら、信長は楽しそうに笑った。
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