上 下
5 / 7
第二章 月を飛ぶ蝶のように ~有楽~

01 尾張の思い出

しおりを挟む
 月が出ていた。
 まだ日が暮れたばかり。
 西には夕日。
 東には満月。
 そんな、光景だった。
 そこへ。

 ふうわり。
 ふわり。

 蝶々ちょうちょうが、飛んでいた。
 舞っていた。
 それは、東の空に浮かぶ満月の方へと、ひいらり、ひらり。
 思わず、見惚みとれる。
 夕暮れ、あるいは月の出のくう揺蕩たゆたうその様は、見る者の目を奪う。
 その様はまるで、月を飛ぶ蝶。
 月がどういうところかは知らないが、きっとこんな感じだろう。
 そう思った、その時に。

「……それっ」

 何者かが両の手を広げ、閉じた。
 手と手で作られたその虫籠を。
 その者は「むん!」と差し出してきた。

つらまえたぞッ! 源五!」

 源五と呼ばれた少年――これまで月と蝶を見ていた少年は、呆れたように、蝶を捕まえた青年に言い返す。

「やめてくださいませ、兄上。せっかくの蝶の舞を」

「……む?」

 しくも揚羽蝶あげはちょうの紋所の小袖を着た兄は、その茶筅髷ちゃせんまげをした頭をひと振りし、「そうか」と言って、手を開いた。
 蝶はふたたび、月を背景に、舞い、浮かぶ。

「おみゃあが物欲しそうな顔をしとるだで、つらまえてやろうと……」

 兄といっても、十三歳もちがう。
 どちらかというと、まるで父親のようだった。
 源五――のちの織田源五郎長益おだげんごろうながます、号して如庵有楽じょあんうらくはそう述懐した。

「信長にいは性急にことを進まれる。も少し、ゆっくりとして下され」

「で、あるか……」

 源五の兄――織田信長は口をへの字にする。
 するとそのうしろで、くすくすと笑う声が聞こえた。
 その声の持ち主は、やはり揚羽蝶の紋所の小袖を着た、瀟洒しょうしゃな青年だ。

「これは一本取られましたな、兄上」

「信行」

 源五の、またひとりちがう兄、織田信行である。
 述懐する源五の記憶が定かではないので、いつかははっきりとしないが、この時、信行はまだ生きていた。
 そしてこううそぶくのだ。

「……せっかく蝶をつらまえたのなら、それがしにくださればよかったのに。百舌鳥もずのいいエサになる」

 信行は鷹狩りではなく百舌鳥狩りの名手である。
 そのため、百舌鳥に目がなかった。
 そして。

「抜かせ」

 信長がそう言うと、「それがし、チョウよりチョウが好きでござってな」とおどけるぐらいの機知があった。
 そうすると、源五はせっかくの「月を飛ぶ蝶」の光景を乱されたことを忘れ、信長、信行と共に、大いに笑うのであった。
 そしてそれは、源五の心に深く深く思い出として、原風景として焼き付けられたひとときであった。



 ……それからの源五の人生は、それこそ「月を飛ぶ蝶」のような軌跡を描いた。

 まずは兄のうち一人、織田信行を失う。
 これは、源五と信行の兄、織田信長との内訌ないこう相剋そうこくによるものであった。
 詳細は知らない。
 ただ、信長信行を斬った。
 それだけを――伝えられた。
 源五は即座に信長のいる清州へと向かった。

「なぜ、信行にいを」

 その答えはなく、信長はただ無表情に源五を見返すのみであった。
 源五は無性に腹が立ち、まだ少年であるということもあいまって、信長を殴った。
 当たると思っていなかった拳は、特にけなかった信長の顔面に命中する。
 殴った源五が驚いている間に、信長の拳が飛んだ。

「おみゃあ、元服せよ」

 信長はそれのみを言い置いて、さっさとその場から退出した。
 翌日になると、何事もなかったかのように信長に招かれ、元服した。
 揚羽蝶の紋所の直垂ひたたれに袖を通した源五は、信長に烏帽子をかぶらされた。

「これより、おみゃあは織田源五郎長益ぞ。励めよ」

 それが信行という存在を失った織田家において、その凶事を打ち消す慶事として扱われていることはわかっていた。
 ここで逆らっても良かったが、それはできなかった。
 あの、殴り殴られしたときの、信長の無表情を思い出すと、できなかった。



 ……信長は長益を粗略には扱わなかった。それは信長の傅役もりやく、平手政秀ののこした娘をめとらせたことからわかる。
 長じて、知多郡――かつて桶狭間という激戦のあった地――を領することを認められ、次いで信長の嫡子、織田信忠の補佐を命じられた。
 それは――もしかしたら信行が斬られていなければ、離反しなければ、任されていたかもしれない仕事だった。




【作者註】
 織田家の家紋は「織田木瓜おだもっこう」が有名ですが、「揚羽蝶あげはちょう」も家紋としているようです。そこで拙作は、敢えて「揚羽蝶」を家紋として押し出していた、という設定にしました。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

前夜 ~敵は本能寺にあり~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 織田信忠は、本能寺の変の前夜、父・信長を訪れていた。そして信長から、織田家の――信忠の今後と、明智光秀の今後についての考えを聞く。それを知った光秀は……。 【表紙画像・挿絵画像】 「きまぐれアフター」様より

短編集「戦国の稲妻」

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 (朝(あした)の信濃に、雷(いかづち)、走る。 ~弘治三年、三度目の川中島にて~) 弘治三年(1557年)、信濃(長野県)と越後(新潟県)の国境――信越国境にて、甲斐の武田晴信(信玄)と、越後の長尾景虎(上杉謙信)の間で、第三次川中島の戦いが勃発した。 先年、北条家と今川家の間で甲相駿三国同盟を結んだ晴信は、北信濃に侵攻し、越後の長尾景虎の味方である高梨政頼の居城・飯山城を攻撃した。また事前に、周辺の豪族である高井郡計見城主・市河藤若を調略し、味方につけていた。 これに対して、景虎は反撃に出て、北信濃どころか、さらに晴信の領土内へと南下する。 そして――景虎は一転して、飯山城の高梨政頼を助けるため、計見城への攻撃を開始した。 事態を重く見た晴信は、真田幸綱(幸隆)を計見城へ急派し、景虎からの防衛を命じた。 計見城で対峙する二人の名将――長尾景虎と真田幸綱。 そして今、計見城に、三人目の名将が現れる。 (その坂の名) 戦国の武蔵野に覇を唱える北条家。 しかし、足利幕府の名門・扇谷上杉家は大規模な反攻に出て、武蔵野を席巻し、今まさに多摩川を南下しようとしていた。 この危機に、北条家の当主・氏綱は、嫡男・氏康に出陣を命じた。 時に、北条氏康十五歳。彼の初陣であった。 (お化け灯籠) 上野公園には、まるでお化けのように大きい灯籠(とうろう)がある。高さ6.06m、笠石の周囲3.36m。この灯籠を寄進した者を佐久間勝之という。勝之はかつては蒲生氏郷の配下で、伊達政宗とは浅からぬ因縁があった。

輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 美濃の戦国大名、斎藤道三の娘・帰蝶(きちょう)は、隣国尾張の織田信長に嫁ぐことになった。信長の父・信秀、信長の傅役(もりやく)・平手政秀など、さまざまな人々と出会い、別れ……やがて信長と帰蝶は尾張の国盗りに成功する。しかし、道三は嫡男の義龍に殺され、義龍は「一色」と称して、織田の敵に回る。一方、三河の方からは、駿河の国主・今川義元が、大軍を率いて尾張へと向かって来ていた……。 【登場人物】 帰蝶(きちょう):美濃の戦国大名、斎藤道三の娘。通称、濃姫(のうひめ)。 織田信長:尾張の戦国大名。父・信秀の跡を継いで、尾張を制した。通称、三郎(さぶろう)。 斎藤道三:下剋上(げこくじょう)により美濃の国主にのし上がった男。俗名、利政。 一色義龍:道三の息子。帰蝶の兄。道三を倒して、美濃の国主になる。幕府から、名門「一色家」を名乗る許しを得る。 今川義元:駿河の戦国大名。名門「今川家」の当主であるが、国盗りによって駿河の国主となり、「海道一の弓取り」の異名を持つ。 斯波義銀(しばよしかね):尾張の国主の家系、名門「斯波家」の当主。ただし、実力はなく、形だけの国主として、信長が「臣従」している。 【参考資料】 「国盗り物語」 司馬遼太郎 新潮社 「地図と読む 現代語訳 信長公記」 太田 牛一 (著) 中川太古 (翻訳)  KADOKAWA 東浦町観光協会ホームページ Wikipedia 【表紙画像】 歌川豊宣, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

体育座りでスカートを汚してしまったあの日々

yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。

我らの輝かしきとき ~拝啓、坂の上から~

城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」でヨロ
歴史・時代
講和内容の骨子は、以下の通りである。 一、日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。 二、日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。 三、ロシアは樺太を永久に日本へ譲渡する。 四、ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。 五、ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。 六、ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。 そして、1907年7月30日のことである。

幕府海軍戦艦大和

みらいつりびと
歴史・時代
IF歴史SF短編です。全3話。 ときに西暦1853年、江戸湾にぽんぽんぽんと蒸気機関を響かせて黒船が来航したが、徳川幕府はそんなものへっちゃらだった。征夷大将軍徳川家定は余裕綽々としていた。 「大和に迎撃させよ!」と命令した。 戦艦大和が横須賀基地から出撃し、46センチ三連装砲を黒船に向けた……。

処理中です...