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三十二 遠交

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 毛利元就は、塩冶興久の叛乱に際して、特に動きは示さなかった。
 高橋家の旧領を治め、さらにまた、天野家をはじめとする安芸国内との国人との関係構築に意を用いたからである。

「相剋の策謀の使い手が、相剋の憂き目に遭うとは」

 そうは思ったが、それが知れたら、たちまちのうちに尼子経久の逆鱗に触れることは目に見えていた。
 ゆえに何も語らず、ただ暗黙の了解により得た石見、安芸の経営、外交に務めていた。
 ただし、閨においては、妻の妙玖と語り合った。

「何と、皮肉なことよ」

「心の持ち様では」

 高橋征伐に際して、相剋の策謀を用いた元就を慮った妙玖である。
 愛い女房だ、と元就は感じ入りつつ、妙玖の中に己を埋めるのだった。



 そういう中での、尼子家・亀井秀綱の訪問である。
 秀綱単身での訪問に、元就としては既視感を感じた。
 秀綱はそれを察したのか察していないのか「陶興房どのとは、どのぐらい会うておるのか」と聞いてきた。

「ここ最近は、会うてはおりませぬ」

「さようか」

 元就が大内家と尼子家の双方に従っていることは、もはや周知の事実であり、今さら何も言うことは無い。
 秀綱と、そして尼子経久としては、そういう見解を抱いていた。
 そして、だからこそ、経久は秀綱に「毛利へ行け」と言ったのだ。

「頼みがあり申す」

 秀綱は首を垂れる。
 元就は、人払いをしているとはいえ、ここまで堂々と低姿勢になられるとは思っていなく、少なからず驚愕した。

「秀綱どの、頭をお上げ下され」

 あの、佐東銀山の戦いの時とはちがい、今はそれほど切羽詰まった場面ではない。そう感じた元就であるが、否、と気づいた。
 今、秀綱が――尼子が切羽詰まっているのだ、と。

「…………」

 なおも秀綱が頭を下げ続けるので、元就としてはもう、頼みとやらを聞くしかない流れだと判じた。
 このあたり、さすがは尼子の謀臣にして宰相といったところだろうか。

「……分かり申した。何なりと」

「感謝いたす、毛利どの。では」

 秀綱がようやくにして面を上げて、語り出す。

「塩冶興久の乱、聞き及んでいようが、これに尼子は苦慮しておる」

「…………」

「いろいろと言いたいことはあろうし、尼子の家の中のことだろうとは思う。思うが、伏してお願い奉る」

 塩冶興久と戦えというのではあるまいな、と元就は身構えた。

「いや。さにあらず……さにあらずじゃ、毛利どの。頼みたいのは……大内家と当家との橋渡しでござる」

「……橋渡し?」

「さよう。尼子としては、大内との和睦を望んでおる」

「…………」

 元就は舌を巻いた。
 尼子経久の、恐るべき政治感覚に。
 尼子と大内が結ぶことにより、塩冶興久の乱を鎮圧する。
 同時に、尼子と大内の境――西を不戦状態に持ち込むことにより、現在、尼子が傾注している東へと兵力を集中できる。
 東。
 そこで元就は、はたと気がついた。
 何故、東か、と。
 今さらながら、何故、尼子経久は東を目指すのか。
 東の先に、何が。
 ……京。

「毛利どの? どうかなされたか?」

 瞬間の自失は、どうやら尼子と大内の和睦への衝撃と捉えられたようだ。
 元就は胸をなでおろしながら、内心の動揺を気取られぬよう、威儀を正して答えた。

「承って候」

「おお」

 改めて秀綱は頭を下げ、では書状を書くなり、あるいは自身が山口へ行くなりは、元就と大内の調整に任せると言い、そして辞して行った。
 その厳かな有り様に、元就は、かつて秀綱の腕をねじ上げたことを忘れるくらいだった。

「さすがは、尼子の宰相よ。さようなことはもう無かったこととするくらい、人間が出来ているということか」

 他山の石という奴か、学ばなくてはと思った元就は、あることを決意した。



 毛利元就は、亀井秀綱を見送ったあと、妙玖の部屋へと向かった。

「わが君」

「すまぬが、また城を出る」

「何ぞまた合戦ですか?」

「いや」

 元就にしては珍しく、妻の驚く顔が見たくなり、少し芝居がかって、言った。

「ちょっと山口まで、の」

「山口!?」

 この時代、西の京とまで言われ、大内家、大内政権の都ともいうべき都市である。
 そこへ元就自らが赴くと言う。

「一体、いかなるおつもりで」

「実はな、さきほど尼子の宰相と会った」

 尼子が大内との和睦を望んでいること、そしてその裏に見えてくるもののことを、元就は語った。

「京……」

「すなわち、天下じゃ」

 尼子経久は京へ――上洛して、天下を盗ろうとしていた。つまり、第二の大内義興となろうとしている。

「であれば、これまでの伯耆や備後への執着も納得が行く。安芸が後手になっていたのも、東の方が重要だからだ」

「さてこそ……」

 しかし、その読みは当たっているものとは思えたが、それが何故、山口行きへとなるのか
 妙玖の胸中を察したのか、元就は言葉をつづける。

「このこと、陶興房どのに注進しておいた方がいい。それも、密にだ」

 余人を交えたり、書状にしたりすると、そこから漏れたり奪われたりするかもしれない。
 尼子としては、まだ秘しておきたい事柄だろう。特に大内には。
 だが。

「今、私は尼子から大内への橋渡しを頼まれている。それに伴って山口に行くというのは自然だ。この機を活かす」

「しかし、わが君」

 そこまで大内に尽くして良いのか。尼子に露見したら、ことだ。

「それでも、大内に伝えた方が良い」

 安芸の毛利としては、出雲の尼子、周防の大内、どちらが強くなりすぎても、自らが伸長する機会を減じる。
 ゆえに、尼子と大内、拮抗している方がちょうどいい。

「それでは、相剋ではないのですか」

「そうだ」

 これほどの大規模かつ、異なる家同士の争いを、相剋と呼べるのなら、そういうことかもしれない。
 しかし、この尼子の上洛への思惑を伝えたところで、大内がどう動くかは未知の領域だ。静観するだけかもしれない。

「なあ、妙玖」

「何ですか、わが君」

「私は相剋を忌避しない。むろん、尼子や他家に仕掛けられたら、それは克服する。しかし……」

「皆まで言いなさるな」

 妙玖は微笑んだ。いっそ嫣然といってもいいくらいの、魅力的な微笑みだった。

「『乗り越える』と、わが君は言いなされた。それは別に避けることではない、と思います」

 最近になってそう思うようになったと妙玖は言った。

「『それ』に憑りつかれなければいいと思います。尼子経久のように。彼の謀将のように、相剋に固執するあまり、己の周り、近くがかえって見えなくなって、今こうして、自身が相剋の戦いに身を投じています」

 わが君はそうなるおつもりか、と妙玖は聞いた。

「否」

 元就の答えは、簡にして要を得ていた。
 毛利としては、今後、少なくとも、内においては和合を旨とする。
 外においては、相剋や同士討ちを仕掛けよう。
 しかし。

「それによって、恨まれることも、肝に銘じておく」

 そうだ、兄上。
 ……そんな声を、聴いた気がした。

「どうなされました、わが君」

「……いや」

 元就は、この世にいないはずの弟のことを、ふと思い浮かべていた。
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