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十八 雨夜
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その夜は、嵐ということもあって、大内義隆は、近くの農家の家を徴発し、そこを一時の宿とした。実際は、目付け役の陶興房が徴発したものだが、義隆は興房が陣に戻ったあと、こっそりとその農家の主に金子を上げた。
「すまんの。一緒に寝泊まりすることはかなわぬが、これで、どこぞで宿を」
主は何度も頭を下げて、去っていった。
そうこうするうちに夜が来た。
軍議を終えて、件の農家まで戻った義隆は、流石に明日は総攻めなので、近侍に「もう寝る」と言って、早々に寝所に入った。
どんどん。
がんがん。
何かが戸を叩く音がする。
暴風雨か。
義隆は眠りを妨げられたものの、特に怒る気はせず、布団の中でぼうっとしていた。
どんどん。
がんがん。
しかしその音に人為による拍子が有ることに気がついた。
このあたり、文化芸術への造詣が常ならぬ義隆ならではである。
「誰かある」
義隆は近侍に、戸外の様子を窺うよう頼んだ。
近侍はうけたまわったと駆けてゆくと、じきに戻ってきた。
「この家の主だと?」
宿が取れなかったのかと義隆は哀れに思い、入れてやるように命じた。
「いえ」
主はずぶ濡れの蓑から水滴をぽたぽたとたらしながら答えた。
「若様にひと言、ご注進を」
義隆が何をと先をうながすと、とんでもないことを言い出した。
「お逃げなされ」
「逃げろと」
かような嵐の中、しかも夜にかと、真面目に答えた。名家の子息らしく、鷹揚に。
「実は」
主が言うには、安芸の国人らは、領地に帰っていない。近くの寺、近くの林などに潜んでいる。そして今、ひそかに集結しつつある、と。
主は、宿を借りた寺にて、侍の集団が寄寓しているのに出くわし、しかも、夜に、出ていくという場面を見てしまった。
これは何かあるとつけていると、他の侍の集団がちらほらと集まってきているところを目撃したのだ、と。
「急ぎお逃げなされ」
主はこれにて御免、と言うだけ言うと去っていった。
安芸の国人に目をつけられたら困るということだろうか。
義隆は、さてどうするかと思案していると、今度は陶興房から使いが来た。
「何か」
「若、敵襲でござる」
*
尼子家の牛尾幸清と亀井秀綱は、毛利元就に二つ約束させられていた。
ひとつは、逃げるのは指定した日時に逃げること。
ふたつめは、尼子経久に夜襲の許しを貰うこと。
これらに従い、幸清は退き陣の支度を、秀綱は経久に書状を書いた。
「委細任せる」
経久はそう返書してきた。
安芸の国人の要求を聞き入れたかたちになるのは評価できる、失敗したとしても(失敗するだろうが)尼子は安芸国人の言うことを聞いた結果、仕方なく退くというかたちにできる、と添え書きされていた。
秀綱はむろんその文面を元就に見せず、要点だけ、経久の添え書きは明かさずに伝えた。
「かたじけない」
元就は無表情にそう言った。
経久の添え書きまで見透かされていそうな無表情だった。
……いずれにせよ、尼子軍の将兵の望郷の念も限界に達していたため、幸清は進発した。
「出雲へ!」
その発言は嘘ではない。このまま、尼子軍は出雲へと旅立つ。たとえ、安芸国人の……毛利元就の策が成ろうと、成るまいと。
「真なる帰国であること。それこそが……大内の、いやさ陶興房の、油断を招く」
主・大内義興より預かった嫡子、大内義隆。その身が、その名誉が、その初陣の「勝利」に瑕が生じないことこそ、第一。
それが大内家重代の重臣・陶興房の矜持であり、弱点である。
元就はそう断じた。
「しかるに」
最終的に、慌ただしく尼子兵が帰国の用意にあくせくする中で、大胆にも尼子の本陣で軍議を開いた元就は、並みいる諸将に告げた。
牛尾幸清は帰国の現場指揮を執っているのと、もはや興味を失くしたらしく、この場にはいなかった。
亀井秀綱は、ただただ見て、聞くのみで、何も言わなかった。敗軍の将兵を語らずの故事に従っているようでもあり、今さら、言うべきことなど何もないと諦念を抱いているかのようでもあった。
「この尼子の撤退を以て、孤立無援となった佐東銀山城を攻め、勝ちを決めようとするだろう」
熊谷信直と香川光景は拳を握り締める。熊谷家と香川家は、佐東銀山城の安芸武田家と主従関係にある。主の命運が風前の灯火とあっては、虚心でいられない。
「だが、この風雨。この嵐。小早川どのの見立てでは、夜の間つづき、朝まで、と」
さよう、と小早川弘平はうなずく。水軍を持つ彼は、天候を読むのはお手の物であった。
弘平は元就に対して、つけ加える。
「だがこの程度の読みは、大内側でもしていよう……別に誰でもできることだ」
「それが良いのでござる」
元就は少し嬉しそうに笑った。
調子が出てきやがった、と横の宮庄経友も笑った。有田中井手の激戦の中、初陣ながらも知と力を尽くして勝利をもぎ取ったこの男が、その時と同じ表情をしてやがる、と。
「……で、大内としては、陶興房としては思うだろう。ではこの夜来の風雨が明けた明け方こそ、城攻めのとき、と」
「たしかに」
三須房清はつい反応してしまう。だが、元就は鷹揚にうなずく。
房清は、もしや自分の反応を計算ずくで話しているのかと思ったが、それでもこれからの策に向けて、周りの雰囲気が良くなってきているのを感じ、特に何も言わなかった。
「そこを、衝く」
元就の言葉は簡にして要を得ていた。
だからこそ、軍議の場の全員に、響いた。
「熊谷どの」
「はっ」
家来のような返事をするな、と隣の香川光景が睨んだが、かまわずに熊谷信直は元就の指示を仰ぐ。
「佐東銀山城に使いを。夜襲を伝え、事の正否を見て、城から攻めるか、逃げるかせよと」
信直は仰天した。
「攻めるは分かるのでござるが、逃げる、とは」
「夜襲が成功するかどうかは分からん。だが……駄目だったとしても、逃げることはできよう。捲土重来の機を逃すな、と伝えてくれ」
「なんと」
この発言は香川光景のものである。この期に及んで元就は、自身の策の失敗と、それを見越しての、武田光和の生存への道をも考えている。
「亀井どのはその際に武田どのを出雲なり若狭なりへ落とす手配を」
「……かしこまりました」
亀井秀綱もまた、元就の思慮に感服の念を禁じえなかった。この男は、もしや相剋を乗り越えつつあるのでは、とも思った。
「それで香川どの」
「お、おう」
直に呼ばれるとは思っていなかったので、思わず光景は口ごもる。元就はかまわず話をつづける。
「物見に行ってもらいたい」
「物見」
「さよう。武田どのと近しい上に、『坂の上』に陣したおぬしなら、このあたりの地理に詳しいと見た」
「それは、まあ、そうだ」
「なら、この風雨の中でも、行けるでござろう……頼んだ」
元就は実際に頭を下げた。光景は、今度は逆に信直の凝視を受けて、返事をしなくてはと気づく。
「うけたまわった」
それを見ていた宮庄経友は呟く。大きな声で。
「羨ましいぜ。物見すりゃあ、一番槍は、そのまま香川どのだな」
光景は目を見開く。
もしや、元就は。
熊谷信直を佐東銀山城への使いを任せ、安芸武田家への忠心を示す機会を与える。
かたや、香川光景に物見すなわち一番槍を任せ、花を持たせる。
「……では、そろそろ牛尾氏の退き陣の支度が終わる頃。各自もまた、『退き陣』をよろしゅう頼む。しかるのちに、夜半、香川どのの物見を待って、しかける」
ではと元就が退出するべく立ち上がると、場の一同は、頭を下げているのに気がついた。亀井秀綱も含めて。
それはさながら、元就を総大将として認めている観があった。
「……恐縮でござる」
元就もまた、頭を下げてから、そして退出していった。
「すまんの。一緒に寝泊まりすることはかなわぬが、これで、どこぞで宿を」
主は何度も頭を下げて、去っていった。
そうこうするうちに夜が来た。
軍議を終えて、件の農家まで戻った義隆は、流石に明日は総攻めなので、近侍に「もう寝る」と言って、早々に寝所に入った。
どんどん。
がんがん。
何かが戸を叩く音がする。
暴風雨か。
義隆は眠りを妨げられたものの、特に怒る気はせず、布団の中でぼうっとしていた。
どんどん。
がんがん。
しかしその音に人為による拍子が有ることに気がついた。
このあたり、文化芸術への造詣が常ならぬ義隆ならではである。
「誰かある」
義隆は近侍に、戸外の様子を窺うよう頼んだ。
近侍はうけたまわったと駆けてゆくと、じきに戻ってきた。
「この家の主だと?」
宿が取れなかったのかと義隆は哀れに思い、入れてやるように命じた。
「いえ」
主はずぶ濡れの蓑から水滴をぽたぽたとたらしながら答えた。
「若様にひと言、ご注進を」
義隆が何をと先をうながすと、とんでもないことを言い出した。
「お逃げなされ」
「逃げろと」
かような嵐の中、しかも夜にかと、真面目に答えた。名家の子息らしく、鷹揚に。
「実は」
主が言うには、安芸の国人らは、領地に帰っていない。近くの寺、近くの林などに潜んでいる。そして今、ひそかに集結しつつある、と。
主は、宿を借りた寺にて、侍の集団が寄寓しているのに出くわし、しかも、夜に、出ていくという場面を見てしまった。
これは何かあるとつけていると、他の侍の集団がちらほらと集まってきているところを目撃したのだ、と。
「急ぎお逃げなされ」
主はこれにて御免、と言うだけ言うと去っていった。
安芸の国人に目をつけられたら困るということだろうか。
義隆は、さてどうするかと思案していると、今度は陶興房から使いが来た。
「何か」
「若、敵襲でござる」
*
尼子家の牛尾幸清と亀井秀綱は、毛利元就に二つ約束させられていた。
ひとつは、逃げるのは指定した日時に逃げること。
ふたつめは、尼子経久に夜襲の許しを貰うこと。
これらに従い、幸清は退き陣の支度を、秀綱は経久に書状を書いた。
「委細任せる」
経久はそう返書してきた。
安芸の国人の要求を聞き入れたかたちになるのは評価できる、失敗したとしても(失敗するだろうが)尼子は安芸国人の言うことを聞いた結果、仕方なく退くというかたちにできる、と添え書きされていた。
秀綱はむろんその文面を元就に見せず、要点だけ、経久の添え書きは明かさずに伝えた。
「かたじけない」
元就は無表情にそう言った。
経久の添え書きまで見透かされていそうな無表情だった。
……いずれにせよ、尼子軍の将兵の望郷の念も限界に達していたため、幸清は進発した。
「出雲へ!」
その発言は嘘ではない。このまま、尼子軍は出雲へと旅立つ。たとえ、安芸国人の……毛利元就の策が成ろうと、成るまいと。
「真なる帰国であること。それこそが……大内の、いやさ陶興房の、油断を招く」
主・大内義興より預かった嫡子、大内義隆。その身が、その名誉が、その初陣の「勝利」に瑕が生じないことこそ、第一。
それが大内家重代の重臣・陶興房の矜持であり、弱点である。
元就はそう断じた。
「しかるに」
最終的に、慌ただしく尼子兵が帰国の用意にあくせくする中で、大胆にも尼子の本陣で軍議を開いた元就は、並みいる諸将に告げた。
牛尾幸清は帰国の現場指揮を執っているのと、もはや興味を失くしたらしく、この場にはいなかった。
亀井秀綱は、ただただ見て、聞くのみで、何も言わなかった。敗軍の将兵を語らずの故事に従っているようでもあり、今さら、言うべきことなど何もないと諦念を抱いているかのようでもあった。
「この尼子の撤退を以て、孤立無援となった佐東銀山城を攻め、勝ちを決めようとするだろう」
熊谷信直と香川光景は拳を握り締める。熊谷家と香川家は、佐東銀山城の安芸武田家と主従関係にある。主の命運が風前の灯火とあっては、虚心でいられない。
「だが、この風雨。この嵐。小早川どのの見立てでは、夜の間つづき、朝まで、と」
さよう、と小早川弘平はうなずく。水軍を持つ彼は、天候を読むのはお手の物であった。
弘平は元就に対して、つけ加える。
「だがこの程度の読みは、大内側でもしていよう……別に誰でもできることだ」
「それが良いのでござる」
元就は少し嬉しそうに笑った。
調子が出てきやがった、と横の宮庄経友も笑った。有田中井手の激戦の中、初陣ながらも知と力を尽くして勝利をもぎ取ったこの男が、その時と同じ表情をしてやがる、と。
「……で、大内としては、陶興房としては思うだろう。ではこの夜来の風雨が明けた明け方こそ、城攻めのとき、と」
「たしかに」
三須房清はつい反応してしまう。だが、元就は鷹揚にうなずく。
房清は、もしや自分の反応を計算ずくで話しているのかと思ったが、それでもこれからの策に向けて、周りの雰囲気が良くなってきているのを感じ、特に何も言わなかった。
「そこを、衝く」
元就の言葉は簡にして要を得ていた。
だからこそ、軍議の場の全員に、響いた。
「熊谷どの」
「はっ」
家来のような返事をするな、と隣の香川光景が睨んだが、かまわずに熊谷信直は元就の指示を仰ぐ。
「佐東銀山城に使いを。夜襲を伝え、事の正否を見て、城から攻めるか、逃げるかせよと」
信直は仰天した。
「攻めるは分かるのでござるが、逃げる、とは」
「夜襲が成功するかどうかは分からん。だが……駄目だったとしても、逃げることはできよう。捲土重来の機を逃すな、と伝えてくれ」
「なんと」
この発言は香川光景のものである。この期に及んで元就は、自身の策の失敗と、それを見越しての、武田光和の生存への道をも考えている。
「亀井どのはその際に武田どのを出雲なり若狭なりへ落とす手配を」
「……かしこまりました」
亀井秀綱もまた、元就の思慮に感服の念を禁じえなかった。この男は、もしや相剋を乗り越えつつあるのでは、とも思った。
「それで香川どの」
「お、おう」
直に呼ばれるとは思っていなかったので、思わず光景は口ごもる。元就はかまわず話をつづける。
「物見に行ってもらいたい」
「物見」
「さよう。武田どのと近しい上に、『坂の上』に陣したおぬしなら、このあたりの地理に詳しいと見た」
「それは、まあ、そうだ」
「なら、この風雨の中でも、行けるでござろう……頼んだ」
元就は実際に頭を下げた。光景は、今度は逆に信直の凝視を受けて、返事をしなくてはと気づく。
「うけたまわった」
それを見ていた宮庄経友は呟く。大きな声で。
「羨ましいぜ。物見すりゃあ、一番槍は、そのまま香川どのだな」
光景は目を見開く。
もしや、元就は。
熊谷信直を佐東銀山城への使いを任せ、安芸武田家への忠心を示す機会を与える。
かたや、香川光景に物見すなわち一番槍を任せ、花を持たせる。
「……では、そろそろ牛尾氏の退き陣の支度が終わる頃。各自もまた、『退き陣』をよろしゅう頼む。しかるのちに、夜半、香川どのの物見を待って、しかける」
ではと元就が退出するべく立ち上がると、場の一同は、頭を下げているのに気がついた。亀井秀綱も含めて。
それはさながら、元就を総大将として認めている観があった。
「……恐縮でござる」
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