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第1章 兄弟
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一説によると――今川義元は父・今川氏親の正室・寿桂尼の子ではなく、京都からきた食客の娘の子であり、側室の子(庶子)であったと云う。
天文五年(一五三六年)三月十七日。
駿河守護、今川家第十代当主・今川氏輝が逝去した。
同日、今川氏輝の弟であり、嫡子の無い彼の後継者である次弟・今川彦五郎も没す。
当主と後継者である兄弟が同日に死亡。
あとに残されたのは、側室の子であり、跡目争いを防ぐため仏門に入れられた、三男・玄広恵探と四男・栴岳承芳であり、双方とも側室の子であり、さらに両名とも出家の身であった。
特に栴岳承芳の方は、師である太原崇孚と共に京で修行中であったところを、急遽呼び戻されたばかりである。
当面、氏輝と彦五郎の実母であり、第九代当主氏親の正室である寿桂尼が当主代行を務めることになった。彼女は夫・氏親と駿河を共同統治していた実績がある。しかし、飽くまでも『つなぎ』である。そのため、一刻も早く、正式な当主を定める必要があった。
この未曾有の事態に、駿河は揺れた。
いち早く動き出したのは、今川家重臣、福島越前守である。恵探の母親は越前守の娘であった。越前守は恵探を寺から出し、仏門から世俗へと還俗させ、今川良真と名乗らせた。福島家は遠江・甲斐方面への軍事・外交を担っており、それを背景に寿桂尼に圧力をかけ、良真の家督相続を実現しようとしていた。
駿府(静岡県静岡市)内の荒れ寺。
その一室で、壁に向かって、座禅を組む若い僧がいた。
襖がすうっと開き、今度は壮年の僧が入ってきた。
「栴岳承芳よ」
壮年の僧の呼びかけに、面壁していた若い僧、栴岳承芳が振り向く。
「師よ。何事か」
師と呼ばれた壮年の僧、太原崇孚は不機嫌そうに伝えた。
「客じゃ」
その瞬間、襖が乱暴に開けられる。
「ここに居ったか、承芳」
五分刈りの青い頭をした僧、いや、還俗したての侍が足音荒く入ってきた。
「……兄上か」
「探したぞ、承芳よ。ちと、そなたに言いたいことがあってな」
「何でございましょう」
還俗したての侍――玄広恵探は、弟である承芳に、ずいと顔を近づけて、言った。
「いいか、妙な気を起こすなよ、承芳」
「……妙な気とは?」
「とぼけるな。兄上たちが死んだ今、今川を継ぐのは、俺とお前の二人のどちらかだ。そして俺は還俗し、今川良真となり、家督を継ぐつもりだ……が、お前はどうする? もしや今川の家督を、と考えていまいな?」
「…………」
承芳は眉一つ動かさず、沈黙を守った。
「白を切るか、承芳。それならこちらもそれなりのやり方を取るぞ」
恵探は抜刀し、承芳の頬に切っ先を突き付ける。
「いいか、同じ庶子とはいえ、俺は今川家重臣である福島の血だ。対するや、お前は何だ? 京から落ち延びた食客の娘の子ではないか。格がちがう!」
「…………」
なおも承芳が口を開けないので、恵探は刀をついと押した。承芳の頬から、血が一筋、流れ落ちた。
「恵探さま、それ以上はお止めを」
それまで黙っていた太原崇孚が諫めた。しかし、それは良真の激情を誘った。
「恵探ではない! 良真だ! いいか、今は許してやる。しかし、これ以上間違えることは許さん!」
良真の刀が震える。怒りに震えているためだ。承芳の頬の傷は広がっていく。
「……貴様もいい気になるなよ、承芳。いいか、同じ庶子の身の上だ。だから死は免じてやる。この駿河から出ていけ。栴岳承芳よ、今川家次期当主としての命令だ。お前は追放だ。修行していた京にでもどこでも行くがよい。二度と俺に顔を見せるな。以上だ」
今川良真と名乗った男は、刀を納め、来た時と同じように乱暴に足音を立てて、出て行った。
「……やっと行ったか」
良真が去った後、太原崇孚は襖を閉じた。
後に、海道に冠絶する智将・太原雪斎として名を馳せる崇孚だが、このときはまだ、ただの禅僧である。
承芳は頬の傷に膏薬を塗りながら、ひとりごちた。
「……兄上には失望しました」
「失望? それはまあ、そうだろう。あのような権力の亡者になり果てるとは……幼いころはほれ、恵探、ではない良真どのの住まいであった花倉に招かれ、共に遊んだり、武術の鍛錬をしたりしたことも……」
「そういうことではありません、師よ」
承芳は立ち上がる。魁夷たる体躯は、兄である良真よりも上背があった。
「兄上が真に今川の家督を欲するのならば、私を殺すべきでした。さすれば、有無を言わさず今川家の当主になれたでしょう」
「……本当にそうなったらどうするつもりか、承芳」
「ふ……」
承芳は突然、泣き始めた。
「跡継ぎが、今川家の男子が誰もいないというのは好ましくありません、兄上。それは寿桂尼さまも家臣たちも不安でございましょう。ここはひとつ、御寛恕あって、この承芳を出家のままで良いので、どうか命だけは……」
承芳は、この場にいない良真に対して、涙を流して懇願して見せた。
「……ぬかしおる。昔から、そういうことは得意であったな」
「師の薫陶の賜物かと」
「ふん」
崇孚は髭をしごく。
「それでどうする、承芳よ」
「どうもこうもありませぬ、師よ。兄上は言うたではありませぬか、京へ、と」
「そうだったな……では参るか、京へ」
「ええ、『元から決めていたとおり』、京へ」
天文五年(一五三六年)三月十七日。
駿河守護、今川家第十代当主・今川氏輝が逝去した。
同日、今川氏輝の弟であり、嫡子の無い彼の後継者である次弟・今川彦五郎も没す。
当主と後継者である兄弟が同日に死亡。
あとに残されたのは、側室の子であり、跡目争いを防ぐため仏門に入れられた、三男・玄広恵探と四男・栴岳承芳であり、双方とも側室の子であり、さらに両名とも出家の身であった。
特に栴岳承芳の方は、師である太原崇孚と共に京で修行中であったところを、急遽呼び戻されたばかりである。
当面、氏輝と彦五郎の実母であり、第九代当主氏親の正室である寿桂尼が当主代行を務めることになった。彼女は夫・氏親と駿河を共同統治していた実績がある。しかし、飽くまでも『つなぎ』である。そのため、一刻も早く、正式な当主を定める必要があった。
この未曾有の事態に、駿河は揺れた。
いち早く動き出したのは、今川家重臣、福島越前守である。恵探の母親は越前守の娘であった。越前守は恵探を寺から出し、仏門から世俗へと還俗させ、今川良真と名乗らせた。福島家は遠江・甲斐方面への軍事・外交を担っており、それを背景に寿桂尼に圧力をかけ、良真の家督相続を実現しようとしていた。
駿府(静岡県静岡市)内の荒れ寺。
その一室で、壁に向かって、座禅を組む若い僧がいた。
襖がすうっと開き、今度は壮年の僧が入ってきた。
「栴岳承芳よ」
壮年の僧の呼びかけに、面壁していた若い僧、栴岳承芳が振り向く。
「師よ。何事か」
師と呼ばれた壮年の僧、太原崇孚は不機嫌そうに伝えた。
「客じゃ」
その瞬間、襖が乱暴に開けられる。
「ここに居ったか、承芳」
五分刈りの青い頭をした僧、いや、還俗したての侍が足音荒く入ってきた。
「……兄上か」
「探したぞ、承芳よ。ちと、そなたに言いたいことがあってな」
「何でございましょう」
還俗したての侍――玄広恵探は、弟である承芳に、ずいと顔を近づけて、言った。
「いいか、妙な気を起こすなよ、承芳」
「……妙な気とは?」
「とぼけるな。兄上たちが死んだ今、今川を継ぐのは、俺とお前の二人のどちらかだ。そして俺は還俗し、今川良真となり、家督を継ぐつもりだ……が、お前はどうする? もしや今川の家督を、と考えていまいな?」
「…………」
承芳は眉一つ動かさず、沈黙を守った。
「白を切るか、承芳。それならこちらもそれなりのやり方を取るぞ」
恵探は抜刀し、承芳の頬に切っ先を突き付ける。
「いいか、同じ庶子とはいえ、俺は今川家重臣である福島の血だ。対するや、お前は何だ? 京から落ち延びた食客の娘の子ではないか。格がちがう!」
「…………」
なおも承芳が口を開けないので、恵探は刀をついと押した。承芳の頬から、血が一筋、流れ落ちた。
「恵探さま、それ以上はお止めを」
それまで黙っていた太原崇孚が諫めた。しかし、それは良真の激情を誘った。
「恵探ではない! 良真だ! いいか、今は許してやる。しかし、これ以上間違えることは許さん!」
良真の刀が震える。怒りに震えているためだ。承芳の頬の傷は広がっていく。
「……貴様もいい気になるなよ、承芳。いいか、同じ庶子の身の上だ。だから死は免じてやる。この駿河から出ていけ。栴岳承芳よ、今川家次期当主としての命令だ。お前は追放だ。修行していた京にでもどこでも行くがよい。二度と俺に顔を見せるな。以上だ」
今川良真と名乗った男は、刀を納め、来た時と同じように乱暴に足音を立てて、出て行った。
「……やっと行ったか」
良真が去った後、太原崇孚は襖を閉じた。
後に、海道に冠絶する智将・太原雪斎として名を馳せる崇孚だが、このときはまだ、ただの禅僧である。
承芳は頬の傷に膏薬を塗りながら、ひとりごちた。
「……兄上には失望しました」
「失望? それはまあ、そうだろう。あのような権力の亡者になり果てるとは……幼いころはほれ、恵探、ではない良真どのの住まいであった花倉に招かれ、共に遊んだり、武術の鍛錬をしたりしたことも……」
「そういうことではありません、師よ」
承芳は立ち上がる。魁夷たる体躯は、兄である良真よりも上背があった。
「兄上が真に今川の家督を欲するのならば、私を殺すべきでした。さすれば、有無を言わさず今川家の当主になれたでしょう」
「……本当にそうなったらどうするつもりか、承芳」
「ふ……」
承芳は突然、泣き始めた。
「跡継ぎが、今川家の男子が誰もいないというのは好ましくありません、兄上。それは寿桂尼さまも家臣たちも不安でございましょう。ここはひとつ、御寛恕あって、この承芳を出家のままで良いので、どうか命だけは……」
承芳は、この場にいない良真に対して、涙を流して懇願して見せた。
「……ぬかしおる。昔から、そういうことは得意であったな」
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