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江戸幕府関東代官頭・伊奈忠次
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東の空が白白として来た。
また、今日という一日の、始まりを迎える。
伊奈忠次は愛用の鍬を手に取り、屋敷を出た。
「…………」
いったん、鍬を地に置き、輝き出でた太陽に向かって、手を合わせた。
「お天道さま、今日こそ、水の路を拓かせたまえ」
祈りが終わり、鍬を手に取って歩き始めると、武蔵野の西の山々、おそらくは甲武信岳や雲取山が照らされて、その稜線をくっきりとさせる。
「春は、あけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこし明かりて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる……か」
清少納言の「枕草子」の始まりの有名な一節を口ずさみながら、忠次は元気よく鍬を担いで闊歩する。
ここは、武蔵野。
時代は、徳川家康が豊臣秀吉から関八州を譲り受けたあたり。
そして忠次は家康から「関八州を己の物のごとく大切に致すべし」と言われ、関東代官頭として尽くしている。
伊奈忠次。
江戸幕府の関東における地方行政、すなわち民政において力を発揮し、検地、寺社の対策など、幕府の財政の基となる働きを為した、としてのちに知られる。
中でも有名なのが――治水である。
*
「伊奈さま」
忠次が現場に到着すると、工夫の頭が、すぐに忠次を迎えに現れた。
「頭」
忠次は鍬を置いて、頭の肩をぽんぽんと叩き、朝の挨拶を告げた。
「今日、あの水の路に、水を通すんだっけな」
空とぼけた口調は、実は忠次の期待のあらわれである。
それは今朝の太陽への祈りの台詞でわかる。
頭もそれを察していた。
今、忠次らが取りかかっている水路の開削は、その『通り』が思わしくなく、おそらくは土地の高低がうまくつかめていないせいで、水の流れは最初こそ良いものの、だんだんと、その勢いが弱まり、ついには止まってしまうと言う有り様だった。
何しろ、ここは武蔵野。
土地は基本的に平坦で、その高低の差を読むことは、困難を極めた。
「また、始めよう」
忠次はあきらめることなく、あたりをつけては、自ら鍬を振るって、土を掘り出した。
けれども。
「伊奈さま……もう、これで何度目になりますか」
頭は実際に何度目だという答えを聞いているわけではない。
もう潮時だ、と言いたいのだ。
「このあたりでは、やはり無理でございます。土地の傾きが、高い低いが読めませぬ。木々も多いし……ちがうところで、水の路を」
「いかぬ」
忠次は手を振った。そして周囲を見回す。
「このあたりは水が来ない。少なくとも、田んぼに要る水が。ここで水の路を通してやらねば」
「それは……」
「それならば頭、賭けをしようではないか」
「賭け」
頭はぽかんとした顔で、忠次の言葉を反復した。
「そうよ、賭け、賭けよ……頭、この水の路に水が通らねば、ワシが皆にメシを奢ろうではないか」
「それは」
忠次は、両の手のひらを開いて、頭にそれ以上言ってくれるなと示した。
「頭の言うとおり、たしかにもう何度目だ、始まりをいくつ数えた頃に終わるのだ、とささやかれておるのは、わかっておる」
ならば、せめてものねぎらいだ、と忠次は笑った。
「むろん、賭けに負けにつもりはないがの」
と、付け加えながら。
*
鍬の上に、獲った野鳥を捌いて置いて、鍬の下に火をつける。
味噌で作った『たれ』を適宜つけ、徐々に……次第に……鳥の肉が焼き上がっていくのを待つ。
ぷうんと、こんがりとしたにおいがしてくれば、もう完成は間近だ。
「おい、あとは皆、適当に焼き加減を見て、食せよ」
鍬焼きである。
今日では、フライパンなどに鶏肉や野菜を置いて、みりん、酒、砂糖や醤油を『たれ』にしてかけて、焼く料理として知られる。
農作業の合い間に、そして肉食禁止の世の中なので、こっそりと鍬で鳥を焼くこの料理は、農民たちの密かな楽しみだった。
忠次はこの鍬焼きを得意としていた。
そう、忠次は「賭け」に負け、工夫たちの食事を用意していた。
「やれやれ、それにしても、してやられたわい」
忠次は頭を掻きながら、頭に出来上がった鍬焼きを差し出した。
頭は恐れ入ってそれを受け取り、一目散に食べた。
「うまいッ」
この忠次の鍬焼きが目当てで工夫たちは工事に従事していると、もっぱら噂になるぐらいの、美味である。
しかし、あまりにも熱々だったらしく、頭は目を剥いた。
「アチッ」
「おいおい、落ち着け」
忠次が竹筒を頭の口に傾ける。
頭は胸をとんとんと叩きながら、ふうと息をつく。
「すまねぇこってす」
「何の、何の」
水路に水が通らなくて、すまないのはこっちの方だと忠次は頭を下げた。
それを見た工夫たちもまた、頭を下げた。
「オラたちは、伊奈さまとまた仕事ができるから、幸せだぁよ」
「給金もはずんでくれるしな」
「それを言ったら、台無しじゃろが」
皆はどっと笑い、忠次も笑った。
ひとしきり笑ったところで、忠次は、今日はもうこのまま宴としよう、たまには休もうと言って、また皆を沸かせるのだった。
*
……夢を見ていた。
かつて、主・徳川家康が豊臣秀吉に臣従を決め、その後、その秀吉が小田原を攻めんと、四十万の大軍を率いて、東海道を突き進んでいる時の夢だ。
その時、秀吉は増水した大井川を目の前にして「渡河せよ」と声高に叫んだ。
疾風の如き進軍を見せ、小田原を威圧せんとしていた秀吉にとって、このような遅滞はあるまじき「失態」であると判じたのだ。
「お待ち下され」
並みいる諸将、特に徳川軍の中から、兵站輸送を司る忠次が、敢然と声を上げた。
「こたびの小田原攻め、かの中国大返しのような速さよりも、むしろ堂々たる威容を知らしめることが肝要かと」
そんなことはわかってる、と秀吉は怒鳴るように返した。
彼としては、せっかく言うことを聞いてくれるようになった家康の手前、文字通り後れを取るような真似はできなかった。
ここまでの大軍を集結し、進めていく。
それができるのは、この秀吉であるということを、家康に知らしめる。
それこそが、この小田原攻めの秀吉の狙いであり、立ち往生など、もってのほかであった。
「かような増水した川、折からの風雨。きっと兵が損なわれます。その『損ない』が小田原に聞こえたら、なんとします」
「なんだと」
秀吉が食いついた。
彼とて、無謬ではない。
いわんや、秀吉の軍兵においておや。
強行渡河などすれば、それはいくらなんでも、少なくとも十騎ぐらいは脱落しよう。
「敵は小田原ですぞ。北条ですぞ。かの家の忍び、風魔が必ずや十を百に、百を千に、吹聴しましょう」
「…………」
秀吉の目が静けさを帯びた。
さすがに、天下盗りの男。
ここまで来れば、もう忠次の言うとおりにした方がよい、というのが肌感覚でわかっているようである。
「どうか、あと三日ほどお待ちを。さすればこの伊奈忠次、大井川に舟橋を架けて、以て小田原への『道』をつなぎましょうぞ」
忠次がそこで平伏すると、秀吉はその背を掻き抱いて、そなたの言うとおりだと激賞した。
「駿府左大将(家康のこと)にはかような有為の人がある。うらやましいことじゃの」
どうじゃ、この秀吉に仕えぬかと例の人たらしを発揮するが、そこで家康が割って入って、忠次はことなきを得た。
*
「……いつの間にか、眠っていたのか」
春眠暁を覚えず、という奴かなと忠次はひとつ伸びをして、起き上がった。
見渡すと、頭も含めて、工夫たちは皆、その場に雑魚寝している。
空を見上げるとと、星が。
夜っぴて飲み食いしていたらしい。
足下に目を落とすと、鍬焼きを作った時の焚火が、そのまま埋火となっている。
仄かな赤い光が、夜陰にはうつくしい。
「…………」
忠次の胸中を去来するのは、あの時――秀吉に対して抗弁したことよりも、今のこの、水路が通らない方が困難だな、という思いだった。
「はは……」
苦笑する。
誰も聞いていないものの、己のみが聞いている苦笑だった。
「…………」
相手のいない笑声など、すぐに止む。
忠次は夜の闇の中の武蔵野に立つ。
何も見えやしない。
朝方には見えた、甲武信岳や雲取山のような山々など、なおのこと。
ただ見えるのは、焚火の残骸、埋火だ。
さすがにこんな時間では、あの「枕草子」の始まりの一節のように……。
「あ」
口をあんぐりと開けた忠次は、そのまま固まってしまう。
火。
山ぎは。
平坦な武蔵野。
読みづらい高低差。
しかし。
「火……火だ。何か、同じ高さの松明で」
煌々と照らしてやれば。
その火の高さを見てやれば。
「通る……通るぞ! 水の通り路が! 高きから低きへの流れる路が!」
*
数日後。
夜。
工夫たちが、手に松明を持って、水路開削の予定の『線』に、ずらりとならぶ。
「……よし!」
頭が、自身も持った松明を高く掲げ、合図とする。
すると、工夫たちは一斉に、松明を、もう一方の手に持つ棒の上に持って来る。
その棒は、それぞれ、同じ高さになるように、切りそろえられている。
「いいぞ」
その松明の線を離れたところから見ていた忠次は、満足そうにうなずいた。
そして矢立から筆を取り出し、さらさらと、松明の『火』の『高低の差』を書き留めた。
「やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこし明かりて……か」
忠次は独り言つ。
始まりをいくつ数えた頃に。
こういう思いつきがあったのだろうか。
今となってはわからない。
だが、これだけはいえる。
「始まりをいくつも数えたからこそ、思いつけた」
何度も始まりを数え。
終わりを重ね。
それでも。
「あきらめないからこそ、先へ進めた」
これで、この土地の水路は通るだろう。
また、他の土地へ行って、同じことをせねば。
そうして、この武蔵野を開拓し、人々の暮らしを安定させる。
それが、伊奈忠次の使命であり、望みだ。
そして。
「この忠次で終わらなくとも、またつづく誰かがいてくれれば――その誰かが始まりをいくつ数えた頃に、終わってくれれば」
言うことはない。
伊奈忠次。
江戸幕府成立時の関東代官頭として、武蔵野開拓の先鞭をつける。
忠次の次男の伊奈忠治や、玉川兄弟、小泉次大夫、井沢弥惣兵衛などが、それにつづいた。
【了】
また、今日という一日の、始まりを迎える。
伊奈忠次は愛用の鍬を手に取り、屋敷を出た。
「…………」
いったん、鍬を地に置き、輝き出でた太陽に向かって、手を合わせた。
「お天道さま、今日こそ、水の路を拓かせたまえ」
祈りが終わり、鍬を手に取って歩き始めると、武蔵野の西の山々、おそらくは甲武信岳や雲取山が照らされて、その稜線をくっきりとさせる。
「春は、あけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこし明かりて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる……か」
清少納言の「枕草子」の始まりの有名な一節を口ずさみながら、忠次は元気よく鍬を担いで闊歩する。
ここは、武蔵野。
時代は、徳川家康が豊臣秀吉から関八州を譲り受けたあたり。
そして忠次は家康から「関八州を己の物のごとく大切に致すべし」と言われ、関東代官頭として尽くしている。
伊奈忠次。
江戸幕府の関東における地方行政、すなわち民政において力を発揮し、検地、寺社の対策など、幕府の財政の基となる働きを為した、としてのちに知られる。
中でも有名なのが――治水である。
*
「伊奈さま」
忠次が現場に到着すると、工夫の頭が、すぐに忠次を迎えに現れた。
「頭」
忠次は鍬を置いて、頭の肩をぽんぽんと叩き、朝の挨拶を告げた。
「今日、あの水の路に、水を通すんだっけな」
空とぼけた口調は、実は忠次の期待のあらわれである。
それは今朝の太陽への祈りの台詞でわかる。
頭もそれを察していた。
今、忠次らが取りかかっている水路の開削は、その『通り』が思わしくなく、おそらくは土地の高低がうまくつかめていないせいで、水の流れは最初こそ良いものの、だんだんと、その勢いが弱まり、ついには止まってしまうと言う有り様だった。
何しろ、ここは武蔵野。
土地は基本的に平坦で、その高低の差を読むことは、困難を極めた。
「また、始めよう」
忠次はあきらめることなく、あたりをつけては、自ら鍬を振るって、土を掘り出した。
けれども。
「伊奈さま……もう、これで何度目になりますか」
頭は実際に何度目だという答えを聞いているわけではない。
もう潮時だ、と言いたいのだ。
「このあたりでは、やはり無理でございます。土地の傾きが、高い低いが読めませぬ。木々も多いし……ちがうところで、水の路を」
「いかぬ」
忠次は手を振った。そして周囲を見回す。
「このあたりは水が来ない。少なくとも、田んぼに要る水が。ここで水の路を通してやらねば」
「それは……」
「それならば頭、賭けをしようではないか」
「賭け」
頭はぽかんとした顔で、忠次の言葉を反復した。
「そうよ、賭け、賭けよ……頭、この水の路に水が通らねば、ワシが皆にメシを奢ろうではないか」
「それは」
忠次は、両の手のひらを開いて、頭にそれ以上言ってくれるなと示した。
「頭の言うとおり、たしかにもう何度目だ、始まりをいくつ数えた頃に終わるのだ、とささやかれておるのは、わかっておる」
ならば、せめてものねぎらいだ、と忠次は笑った。
「むろん、賭けに負けにつもりはないがの」
と、付け加えながら。
*
鍬の上に、獲った野鳥を捌いて置いて、鍬の下に火をつける。
味噌で作った『たれ』を適宜つけ、徐々に……次第に……鳥の肉が焼き上がっていくのを待つ。
ぷうんと、こんがりとしたにおいがしてくれば、もう完成は間近だ。
「おい、あとは皆、適当に焼き加減を見て、食せよ」
鍬焼きである。
今日では、フライパンなどに鶏肉や野菜を置いて、みりん、酒、砂糖や醤油を『たれ』にしてかけて、焼く料理として知られる。
農作業の合い間に、そして肉食禁止の世の中なので、こっそりと鍬で鳥を焼くこの料理は、農民たちの密かな楽しみだった。
忠次はこの鍬焼きを得意としていた。
そう、忠次は「賭け」に負け、工夫たちの食事を用意していた。
「やれやれ、それにしても、してやられたわい」
忠次は頭を掻きながら、頭に出来上がった鍬焼きを差し出した。
頭は恐れ入ってそれを受け取り、一目散に食べた。
「うまいッ」
この忠次の鍬焼きが目当てで工夫たちは工事に従事していると、もっぱら噂になるぐらいの、美味である。
しかし、あまりにも熱々だったらしく、頭は目を剥いた。
「アチッ」
「おいおい、落ち着け」
忠次が竹筒を頭の口に傾ける。
頭は胸をとんとんと叩きながら、ふうと息をつく。
「すまねぇこってす」
「何の、何の」
水路に水が通らなくて、すまないのはこっちの方だと忠次は頭を下げた。
それを見た工夫たちもまた、頭を下げた。
「オラたちは、伊奈さまとまた仕事ができるから、幸せだぁよ」
「給金もはずんでくれるしな」
「それを言ったら、台無しじゃろが」
皆はどっと笑い、忠次も笑った。
ひとしきり笑ったところで、忠次は、今日はもうこのまま宴としよう、たまには休もうと言って、また皆を沸かせるのだった。
*
……夢を見ていた。
かつて、主・徳川家康が豊臣秀吉に臣従を決め、その後、その秀吉が小田原を攻めんと、四十万の大軍を率いて、東海道を突き進んでいる時の夢だ。
その時、秀吉は増水した大井川を目の前にして「渡河せよ」と声高に叫んだ。
疾風の如き進軍を見せ、小田原を威圧せんとしていた秀吉にとって、このような遅滞はあるまじき「失態」であると判じたのだ。
「お待ち下され」
並みいる諸将、特に徳川軍の中から、兵站輸送を司る忠次が、敢然と声を上げた。
「こたびの小田原攻め、かの中国大返しのような速さよりも、むしろ堂々たる威容を知らしめることが肝要かと」
そんなことはわかってる、と秀吉は怒鳴るように返した。
彼としては、せっかく言うことを聞いてくれるようになった家康の手前、文字通り後れを取るような真似はできなかった。
ここまでの大軍を集結し、進めていく。
それができるのは、この秀吉であるということを、家康に知らしめる。
それこそが、この小田原攻めの秀吉の狙いであり、立ち往生など、もってのほかであった。
「かような増水した川、折からの風雨。きっと兵が損なわれます。その『損ない』が小田原に聞こえたら、なんとします」
「なんだと」
秀吉が食いついた。
彼とて、無謬ではない。
いわんや、秀吉の軍兵においておや。
強行渡河などすれば、それはいくらなんでも、少なくとも十騎ぐらいは脱落しよう。
「敵は小田原ですぞ。北条ですぞ。かの家の忍び、風魔が必ずや十を百に、百を千に、吹聴しましょう」
「…………」
秀吉の目が静けさを帯びた。
さすがに、天下盗りの男。
ここまで来れば、もう忠次の言うとおりにした方がよい、というのが肌感覚でわかっているようである。
「どうか、あと三日ほどお待ちを。さすればこの伊奈忠次、大井川に舟橋を架けて、以て小田原への『道』をつなぎましょうぞ」
忠次がそこで平伏すると、秀吉はその背を掻き抱いて、そなたの言うとおりだと激賞した。
「駿府左大将(家康のこと)にはかような有為の人がある。うらやましいことじゃの」
どうじゃ、この秀吉に仕えぬかと例の人たらしを発揮するが、そこで家康が割って入って、忠次はことなきを得た。
*
「……いつの間にか、眠っていたのか」
春眠暁を覚えず、という奴かなと忠次はひとつ伸びをして、起き上がった。
見渡すと、頭も含めて、工夫たちは皆、その場に雑魚寝している。
空を見上げるとと、星が。
夜っぴて飲み食いしていたらしい。
足下に目を落とすと、鍬焼きを作った時の焚火が、そのまま埋火となっている。
仄かな赤い光が、夜陰にはうつくしい。
「…………」
忠次の胸中を去来するのは、あの時――秀吉に対して抗弁したことよりも、今のこの、水路が通らない方が困難だな、という思いだった。
「はは……」
苦笑する。
誰も聞いていないものの、己のみが聞いている苦笑だった。
「…………」
相手のいない笑声など、すぐに止む。
忠次は夜の闇の中の武蔵野に立つ。
何も見えやしない。
朝方には見えた、甲武信岳や雲取山のような山々など、なおのこと。
ただ見えるのは、焚火の残骸、埋火だ。
さすがにこんな時間では、あの「枕草子」の始まりの一節のように……。
「あ」
口をあんぐりと開けた忠次は、そのまま固まってしまう。
火。
山ぎは。
平坦な武蔵野。
読みづらい高低差。
しかし。
「火……火だ。何か、同じ高さの松明で」
煌々と照らしてやれば。
その火の高さを見てやれば。
「通る……通るぞ! 水の通り路が! 高きから低きへの流れる路が!」
*
数日後。
夜。
工夫たちが、手に松明を持って、水路開削の予定の『線』に、ずらりとならぶ。
「……よし!」
頭が、自身も持った松明を高く掲げ、合図とする。
すると、工夫たちは一斉に、松明を、もう一方の手に持つ棒の上に持って来る。
その棒は、それぞれ、同じ高さになるように、切りそろえられている。
「いいぞ」
その松明の線を離れたところから見ていた忠次は、満足そうにうなずいた。
そして矢立から筆を取り出し、さらさらと、松明の『火』の『高低の差』を書き留めた。
「やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこし明かりて……か」
忠次は独り言つ。
始まりをいくつ数えた頃に。
こういう思いつきがあったのだろうか。
今となってはわからない。
だが、これだけはいえる。
「始まりをいくつも数えたからこそ、思いつけた」
何度も始まりを数え。
終わりを重ね。
それでも。
「あきらめないからこそ、先へ進めた」
これで、この土地の水路は通るだろう。
また、他の土地へ行って、同じことをせねば。
そうして、この武蔵野を開拓し、人々の暮らしを安定させる。
それが、伊奈忠次の使命であり、望みだ。
そして。
「この忠次で終わらなくとも、またつづく誰かがいてくれれば――その誰かが始まりをいくつ数えた頃に、終わってくれれば」
言うことはない。
伊奈忠次。
江戸幕府成立時の関東代官頭として、武蔵野開拓の先鞭をつける。
忠次の次男の伊奈忠治や、玉川兄弟、小泉次大夫、井沢弥惣兵衛などが、それにつづいた。
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