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第三部 河越夜戦
28 弁千代決死行 上
しおりを挟む人間の偉大さは恐怖に耐える誇り高き姿にある
プルタルコス
「弁千代に……死ね、だあ?」
北条綱高は、北条新九郎氏康の襟をつかんで、凄む。
当の弁千代は訳が分からないという表情をして、固まっている。
「待て綱高」
多目元忠はその綱高の手をつかむ。
「殿の発言は終わってないぞ」
綱高は元忠を見て、そして氏康の襟から手を離した。
「……失礼つかまつった」
「……いや」
氏康は襟を正し、改めて説明する。
「話を飛躍し過ぎた。おれが悪い。順を追って話そう」
古河公方、関東管領、扇谷上杉は、今、北条をだまし討ちにしたことにより、北条に対する警戒心をほぼ無くすだろうということ。元々、八万の大軍を繰り出していて、それで城兵三千の河越城を囲んでいるのだ。士気はがた落ちであり、ゆるみ切っている。
「……おそらく、諏訪左馬助の狙いは、この油断が最高潮になった今こそ、逆襲の時ではないか、ということだ」
「左様ですか……」
実際に左馬助の最期の言葉を聞いた風魔小太郎は、顎に片手をつけて、そのときのことに思いをはせていた。
一方で、綱高はまだ納得がいかなかった。
「いや、それは分かったが、なんでそれが弁千代に死ねと言う流れになるんだよ?」
「……油断しているとはいえ、相手の軍勢は八万。これを、今、おれたちが率いる北条勢八千でやるんだぞ」
氏康は目を閉じる。
左馬助が殺された今、和睦への道は途絶えた。
少なくとも、和睦して、相手を四分五裂させて各個撃破するという手は、使えなくなった。
……なら今、戦うしかない。
そして、戦うとなった以上、使える手は使いたい。
「……そのため、河越城兵三千にも出撃してもらう。むろん、こちらの八千に呼応して、同時にだ。そして、それまでは自滅覚悟の突撃は控えてもらう」
「理にかなっておりますが……河越の、綱成さまへはどう連絡を……」
元忠はそこまで言って、氏康の言わんとするところを理解した。
それは綱高も同様だった。
「おい、その連絡をまさか弁千代に」
「そのまさかだ」
氏康は重々しくうなずく。
弁千代は驚愕したまま硬直している。
「いえ……」
ここで風魔小太郎が発言を求めた。
「ここは私、あるいは風魔衆が連絡をすればよいのでは?」
「駄目だ」
氏康はにべもなくこたえる。
「この河越への決死行はな、『表』の人間がやってこそ、意味がある。『裏』の人間では駄目だ」
河越の城兵は今、大きな不安の下、籠城している。そこへ、城外の援軍と呼応して攻めろ、という作戦を伝える人間が裏の人間なら、どうなるか。
「北条孫九郎綱成や大道寺盛昌、山中主膳なら、たしかに風魔小太郎あるいは風魔衆が来れば、納得しよう。しかし、他の将兵はどうか?」
「…………」
風魔小太郎は、その職務ゆえ、裏で動くことになっている人間である。北条家では、幹部級の人間なら認識されているが、それ以外の将兵には、あまり認知されていない。
「ことは、その将兵の命を賭ける戦いだ。そこまで知られている人間が行って伝えねば、納得するまい」
綱高は氏康の話を理解したが、それでも弁千代を河越に行かせることには反対だった。
「だったら、おれが行く」
「駄目だ」
これは元忠の発言である。
「おい元忠、何を忠臣面してるんだ、ふざけるなよ」
「ふざけてなど、おらん。今、赤備えの将がいなくなったらどうなる? お前こそ、ふざけるな」
元忠の発言は正鵠を射ていた。
今、北条綱高と多目元忠は、逆襲のための準備をしなくてはならない。
風魔小太郎は今回の連絡には不向きだ。
清水小太郎吉政と北条宗哲は、駿河にいて、ここにはいない。
青備えの富永直勝、重臣の遠山綱景は、江戸から離れられない。
消去法で……というか、北条孫九郎綱成の実弟である弁千代こそ、連絡役にふさわしい。
「……そうか」
綱高も、元忠と同じく、氏康の話を理解した。
氏康は綱高と元忠につづいて、小太郎の目にも理解の色が浮かんだのを見て、言った。
「弁千代」
「……はい」
伝承によると、少女のように美しかったと称えられる弁千代が、伏し目がちにうなずく。
「分かったか?」
「はい……」
「河越を囲む、古河公方や関東管領の兵は気が緩んでいると聞くが、油断はできん。その中をくぐり抜けて、河越の城に、あの初雁の城に行くのは、死の危険が伴う。だから、死んでくれと言った」
「…………」
「左馬助にも、ちゃんと『死んでくれ』と言うべきだったんだ、おれは。それをつい……うまくいくものだと思ってしまって」
「おやめください、新九郎さま」
弁千代は決然として面を上げた。
「もとより、河越に誰か行くか、という話で、私が行くと申し上げました。今でも、その決意に変わりはありません」
「弁千代……」
氏康はつい、弁千代の肩を抱く。
「すまない、それと、まだ言ってないことがあるんだ、弁千代。お前なら、死んでも北条軍に大きな影響はないからだ。すまない……」
綱高に元忠、そして風魔小太郎は今度は抗議しなかった。
氏康が、泣いていたからである。
「じい様や父上に比べれば、おれはへぼ大名よ。左馬助を犠牲にしたばかりなのに、こうして今、弁千代を犠牲にする策しか思いつかないとは……」
「おやめください、と申し上げました。新九郎さま」
弁千代もまた泣いて、氏康の肩を抱いた。
「私とて、亡き友、左馬助の最期の策、成し遂げたいと思います。そしてそれが、私が尽力することでかなうのであるというのなら、これほど嬉しいことはございません」
「弁千代……」
……こうして、福島弁千代は、兄・綱成が籠る河越城への伝令役に決まった。
弁千代決死行
武蔵。
江戸城。
北条新九郎氏康率いる八千の本隊が、夜襲により府中まで撤退したという報が入り、江戸城中は騒然とした。
「もはや……あの八万の軍と戦わざるを得ないのか」
城将・遠山綱景は頭をかかえた。彼としては、和睦か、あるいは和睦後の各個撃破に大いに期待を寄せていたのだが、それが裏切られることになったからである。
綱景の悩みをよそに、江戸城常駐の青備え、富永直勝は鎧兜を身につけていた。
「おい、直勝。何をやっている」
「見てのとおりだ、綱景。出陣のしたくだ」
「……何を言っている! もしや、河越にでも行くつもりか!」
「……だったら悪いか」
「阿呆。里見が来たら、どうなる。下総の千葉と武蔵の千葉では防げんぞ」
綱景は、直立する直勝の巨躯を、その胴を拳でたたいた。
「くだらん。新九郎さまか、あるいは小田原の氏尭さまの指示を待て。軽挙妄動は、このおれが許さん」
「何を……いくら綱景といえど……」
直勝が色めき立つ。
綱景も負けじと睨む。
「あの……」
直勝と綱景のけんかの最中に、口をはさむ者がいた。
「何だ!」
「今忙しい!」
二人がともに、声のした方を向く。
「お久しゅうござる」
真田幸綱が立っていた。
さすがに同盟国・甲斐の武田からの寄騎である幸綱を前にしては、二人は矛を収めるほかなく、互いにそっぽを向きながら座った。
「……いかが致したので?」
「…………」
「…………」
同盟国相手と言えど、主の敗北を伝えてよいものかどうか、綱景と直勝は考えあぐねた。
そうこうしているうちに、原虎胤があらわれた。
「おい、幸綱。お前が出たあとに、お屋形様から使いの忍びが来てな」
「え、そうなんですか」
「お前が先に行っちまうから、わしが相手したんだ」
まったく、賢いんだか抜けてるんだか……と虎胤が愚痴りながら、何気なく、言った。
「新九郎氏康さまが、敗けて、府中まで退いたそうだ」
「それは一大事ですな。あ、だから直勝さまは甲冑をつけていたのですな」
「あ、いや……」
「いやでも、こういう時に青備えここにありと知らしめるために、武備を示すのは有効ですしなぁ」
割とあっさりと敗報が知られて、綱景と直勝は何も言えなくなってしまった。
*
「……左様でござるか、千葉利胤どのが、もうそこまで矢止め(不戦)の密約を取り付けたのでござるか」
平服に着替えた直勝は、幸綱が持参した書状を眺める。
「滝山の大石、忍の成田、天神山の藤田、秩父の上田……」
横から見ていた綱景が指折り数える。
「結構な数になる。これだけ揃えるのに、たいへんな量の文を書いたのであろう」
「利胤どののご尽力でござる」
幸綱は頭を下げ、虎胤は黙ってうなずく。
「しかし……肝心の扇谷上杉が和睦の話をたたき壊して、攻めてきたということだから、これらの書状も……」
直勝が歎息する。当初の計画では、矢止め(不戦)する大名小名を増やし、それを和睦への圧力とすることになっていた。ところが、扇谷上杉家が先手を打って、北条軍に襲いかかり、すべてご破算にしてしまった。
「それでは、千葉介どのの努力は、無駄ということか?」
虎胤は凄んだ。
なお、千葉利胤の父・昌胤はついこの間亡くなり、利胤は千葉家の当主となった。
「あいや、お待ちを」
幸綱はとなりの虎胤をおさえる。
「おそらく、新九郎どのの次なる一手は、河越」
幸綱は語る。
和睦が成らなかった以上、河越を包囲する八万を打倒するほか、道はない。むしろ、勝ちに驕る今こそ、勝機を見出すことができる。
「その戦いにおいて、これらの矢止めがものを言います」
「そうか」
虎胤は膝を打った。
「仮に、北条があの八万に挑んだとき、矢止めした大名小名は戦うふりなどしてくれる、ということか」
「左様」
幸綱は両の手をこすり合わせてうなずく。
「ふっふ……」
「おや直勝さま、どうなされた」
直勝は笑いがこみ上げてきた。
「いやおぬしらがこの江戸に来てくれて、本当に良かったわ。おかげで、あわてて河越に行って、恥をかかずに済んだわい」
「恥で済めば良い……殿の戦いを邪魔するところだったぞ」
綱景は冷然と言った。しかし、今度は直勝は怒らず、黙って頭を下げた。
……そうこうしているうちに、若党が氏康からの火急の使いが来たことを告げた。
(つづく)
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