河越夜戦 〜相模の獅子・北条新九郎氏康は、今川・武田連合軍と関東諸侯同盟軍八万に、いかに立ち向かったのか〜

四谷軒

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第二部 関東争乱

26 運命 上

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 不幸からよきものを生み出そうとし、又生み出しえる者は賢い人である。与えられたる運命をもっともよく生かすということは、人間にとって大事である。

 武者小路実篤





 調つきのみや神社、北条家本陣。
 夜半。
 篝火かがりびが、ぱちぱちという音を立て、夜の静けさに、ささやかなにぎやかさを添えている。
 陣中、黒備えの控えの場所に、この夜の宿直とのい、多目元忠がいた。
 ほのかな燈明を頼りに、元忠は、待機している間も精力的に働き、兵糧の状況や兵の調練の状況の確認や、馬の調達が必要どうか、およそ軍勢を率いるにあたっての、運用面での調整に熱を入れていた。
「邪魔するぜ」
 そんな中、竹馬の友である赤備え・北条綱高が、ふらりと入ってきた。
「なんだ、酒なら付き合わんぞ。宿直の最中だ」
「つれないねぇ……ま、そんなつもりはないが」
 綱高は手ぶらで来ていた。元忠は手に持つふみから目を離さず、その辺にでも座れと言う。

「ありがとよ……いや、そろそろ左馬助さまのすけの奴が帰ってくる頃だろうと思ってね」
「出迎えするつもりか」
「あいつなら宿直の最中なんていう野暮は言わないだろうしな」
 今度は手で杯をあおるまねをする綱高である。
 元忠はため息をついた。
「殿が、朝酒にしろと言うているだろう。明日にさわるぞ」
「そんなにはやらないさ……ただ、足利や上杉がどんなものかは知りたくてね」
 猛禽のような目をして、綱高はつぶやいた。元忠でなければ、その凄みで腰を抜かしてしまうくらいの迫力である。
「……ふだんから、そんな目をしてれば、赤備えもぼやきが減ると思うぞ」
「いんや、そんな剣呑な雰囲気は厭だね」
 ぼやきがある方が、群れとして良いと付け加えた綱高だったが、何かに気がついて立ち上がった。

「どうした」
「何か来る」
 綱高は刀の柄に手をかけ、宿直の場から出た。
 陣の外、ぬばたまの闇の中から、何者かが走ってくる様子が、見て取れた。
 そして、風魔衆の早駆けの達人、二曲輪ふたくるわ猪助が飛び込んできた。
「注進つかまつる!」
「あ、お前、猪助か! 風魔の」
 猪助は全力で早駆けをしてきたためか、綱高の顔を見た瞬間、その場に倒れた。
 綱高は刀を納め、猪助を抱き起こした。
「どうした猪助、注進て何だ」
 猪助は息も絶え絶えといった様子で、口を開閉させた。
「……そうか、元忠、水だ! 水、持ってきてくれ」
「心得た」
 元忠は自分の竹筒を差し出し、綱高がそれを猪助の口にあて、水を飲ませた。
 猪助はふた口ほどのんで、竹筒を口から離した。
「……いち大事でござる! う、上杉が、扇谷おうぎがやつ上杉が、攻めてまいりました!」
「何!?」
 だが綱高と元忠の反応は素早かった。
 綱高は即座に猪助を背負って、氏康の寝所へと走る。
 元忠は合図のかねを鳴らして、敵襲を知らせる。
「敵襲だ! 夜襲ぞ! 皆の者、起きよ!」





 運命





 猪助の話を聞いた北条新九郎氏康の反応も速かった。
「全軍、身に付けられるものだけでいい、身に付けよ! 退却! 行き先はかねてから打ち合わせのとおり、府中!」
「新九郎、いやさ殿、殿軍しんがりはお任せを」
「頼む」
 小姓の弁千代に猪助を託し、綱高は氏康の通達を全軍に伝えるため、そして赤備えと殿軍を務めるため、飛び出していった。

 ……このとき、猪助は、早駆けに渾身の力を使い果たしたため、昏倒してしまった。

 氏康にとって幸運だったことは、猪助がいち早く夜襲について知らせてくれたことと、猪助が昏倒してしまったことである。
 もし、猪助が昏倒せずに、諏訪左馬助のことを伝えたら、どうなるか。
 ひょっとしたら、氏康は、扇谷上杉軍を迎え撃ったかもしれない。
 そして、河越への進撃を開始したかもしれない。
 だが、この時点で氏康は左馬助の運命を知ることなく、常の彼らしく、理と利に従った判断を下し、北条軍は逃げに徹することになった。
 ……このことが、のちに、北条新九郎氏康の、いや、北条家の、そして関東の命運を決することとなった。



「かかれ! 高縄原の、小澤原の恨みを晴らす時は、今ぞ!」
 扇谷上杉朝定ともさだは、ついに調つきのみや神社の北条本陣に至り、夜討ちをかけた。
「われこそは扇谷上杉馬廻り、曽我神四郎! 伊勢の鼠賊ども! 覚悟せい!」
 神四郎が槍を振るって、北条本陣内へ突入する。
 北条軍は、中途半端に甲冑を身につけた兵たちが、わっとばかりに逃げ出した。
「見よ! あの無様さを! 伊勢も三代目になって、たわけたものよ」
 神四郎は近くの篝火かがりびを槍で倒し、火の粉を散らす。
 つづく扇谷上杉の兵も、次から次へと篝火を倒し、幕を切り裂き、北条の兵を威嚇し、追い立てる。
「どうしたどうした! 夜討ちがお家芸の伊勢の鼠賊ども、自分がやられては、手も足も出ぬか?」
 神四郎は本陣を破壊しながら突き進み、ついに大将の居場所と思しき場所にたどり着いた。
「……ここか。鼠賊、出てこい!」
 幔幕を下から手でつかみ、一気にめくる。

 めくった先には、緋縅ひおどしの甲冑を身につけた男が立っていた。
「……おい、夜に男の寝所に忍んできていいのは、い女だけだ。お前のような無粋な男じゃないぜ」
「……貴様、赤備え、北条綱高か!」
「名乗る手間が省けたぜ、そらよ!」
 綱高は突進し、抜刀するかどうか迷っていた神四郎の顔面に、肘打ちをくれてやった。
「がっ」
 神四郎はたまらず、後方へとよろめく。
「今のは、てめえらの無礼に対する礼だ、ありがたく受け取りな!」
「おのれぇ……」
 北条軍の今の狙いは撤退にある。敵将を討ち取ることではない。いかに敵兵を手間取らせ、そして、いかに多くの仲間を退かせるかが命題である。
 綱高はその命題を正確に理解し、ここで神四郎とひと悶着を起こし、敵軍の耳目を集め、その隙に氏康をはじめとする北条の将兵を逃がそうとしていた。

 ……だが、そのねらいも、神四郎の次の一言で、瓦解する。
「ふん、鼠賊めが……貴様も、あの使いの者と同様に、始末してくれるわ」
「……何? 今、何と言った?」
 それまで不敵な笑みを浮かべていた綱高が、動揺を隠せない感じとなり、神四郎はつい得意となる。
「何だ? 知らぬのか? そりゃ知らぬわなぁ……」
「……おい、もったいぶってんじゃねぇ」
こわこわや……言葉のとおりよ、あの諏訪左馬助とかいう輩、古河公方さまに和睦とだまされて、ご注進とばかりに、この本陣へとひた走り、案内あないしてくれたわ」
「…………」
 沈黙する綱高を前に、神四郎はあたりを見回してから、片方の眉を上げ、嫌味たっぷりに言った。
案内あないの礼に、矢を何本かくれてやったわ。ぶっすりとな」
「……お前」
「ん? 何だ?」
 神四郎は、わざとらしく耳に手を当てて、綱高の次の発言を待つふりをする。

 かかった。
 扇谷上杉の兵は、もう、周りにたくさん集まってきている。
 このまま、囲んで始末してくれよう。

 ……ほくそ笑む神四郎の顔面に、驚きの速さで、今度は拳が飛んできた。
「おごっ」
「よくも左様な真似を……武士の風上にも置けぬ奴! 成敗してくれる!」
 北条綱高。
 幼少の時は、伊勢宗瑞(北条早雲)の薫陶を受け、その後、多目元忠の父に師事した。その折は、折り目正しい武士としての教育を受けた。そして、長じて砕けた態度を取るようになったが、感情が高ぶった時には、幼少時に戻って逆に礼儀正しい言動を取った。
「そこへ直れ! 刀を抜け!」
 綱高は抜刀し、猛禽のように目をぎらつかせ、まっしぐらに神四郎に斬りつける。
「……ふっ、ぐ……ふざけるな!」
 神四郎もまた、鼻血を垂らしながら怒り高ぶり、抜刀して、綱高の斬撃を受けとめる。
 扇谷上杉の兵たちは、うかつに手出しできず、囲むにとどまっていた。それでも、判断のつく者はいるらしく、
「早く殿を呼べ! 早く!」
 と急かす。
 怒り狂った神四郎を止められる者は、難波田なばた善銀か太田全鑑ぐらいしかいない。しかし両名ともこの北条本陣襲撃に難色を示し、やむなく留守居として河越に残されている。そのため、必然的に主君である扇谷上杉朝定しかいないという寸法であった。





(つづく)
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