河越夜戦 〜相模の獅子・北条新九郎氏康は、今川・武田連合軍と関東諸侯同盟軍八万に、いかに立ち向かったのか〜

四谷軒

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第二部 関東争乱

24 火蓋

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 競争相手を誤らせるためには、欺きは許される。

 リシュリュー





 小田政治から、人払いをと言われてしまったため、太原雪斎は足利晴氏の陣中から出ざるを得なかった。

 陣外で待っていた本庄藤三郎は、彼の任務である雪斎の護衛につくべく、雪斎の方へと近づく。
「どうした、禅師。浮かない顔して」
「……藤三郎か」
「藤三郎か、は無いだろう。最近、おかしいぞ。何かぼうっとしてやがって」
「いや……すまぬ」

 雪斎は自身のはかりごとが、古河公方出陣により完成し、いよいよこれから河越城を包囲殲滅、最低でも包囲をつづけて開城させ、そのまま南下して武蔵野を席巻し、主である今川義元の河東侵略との二正面作戦を完遂しようとしていた。

 ところが、古河公方出陣からすぐに、鷹のサブロウが義元の作戦中止及び召還命令を携えて飛んできた。
 得意の絶頂から、失意のどん底へ。
 雪斎としては、義元が所定の目的である河東占領を成し遂げ、それをもって作戦終了とするのは理にかなっていると思ったが、それがあまりにも早すぎると唖然とした。
 まさか北条新九郎氏康が、これほどまでに早く見切りをつけて、河越へ傾注するとは、思いもよらなかった。

 そうこうするうちに、武田晴信の策動に気がついた。鬼美濃こと原美濃守虎胤が河越から出奔したときからおかしいと思っていた。そこから、武田家の妨害活動が活発になった。

 義元と氏康の間を取り持ち、河東割譲を仲立ちしたこと。
 真田幸綱なる者の暗躍により、武蔵千葉氏の石浜城を調略されたこと。
 里見家の侵略に脅かされた下総千葉家の佐倉を、鬼美濃の奮闘により守り切ったこと。

「……やりよるわ」
「え? どうしたんだい、禅師」
「いや……」
 皆朱の槍を肩にかけ、藤三郎はどこまでも陽気だった。
 そんな彼をまぶしく思い、つい雪斎は口にする。
「なあ、藤三郎」
「なんだい」
「拙僧と一緒に、駿河に来ぬか?」
「はっ!?」





 火蓋ひぶた





 素っ頓狂な声を出す藤三郎に、雪斎は久々に笑顔になった。そして周りをうかがい、誰も見当たらない田舎道であること確認して、言った。
「実は拙僧はな、天下を盗ろうと思っている」
「な……何を言い出すんだ、この坊さんは……何だよ突然」
「拙僧はな、むかし、栴岳承芳せんがくしょうほうみやこに上って、その惨状を見た」

 応仁の乱からつづく戦乱。
 東西に割れる幕府。
 そのような状況下、雪斎と弟子の栴岳承芳すなわち今川義元は、修行のために上洛した。

「ひどい有り様じゃった……これは、何とかせねば、この国はほろびると思うた」
 雪斎は手に持っていた青竹を一振りする。
「足利はもう駄目だ。そう思うたのじゃ」
「お、おい禅師。誰かに聞かれたら、『こと』だぞ」
 藤三郎は武の達人である。誰かが潜んでいたら分かるつもりではあるが、それでも、周囲に目配せして、用心したくなる、雪斎の発言であった。

「聞け。そう思うておる折、栴岳承芳に今川家を継ぐ好機が到来した。拙僧と承芳は天啓と思うたわい……今川を盗り、そして天下を盗るのだ、と」
「…………」
 藤三郎はもう止めても無駄だ、と諦めて、おとなしく聞くことにした。
「そのための関東諸侯同盟軍だった……応仁の乱の山名宗全と細川勝元の失敗は、大名たちを統御できなかったことにある。そのために、拙僧は試したのだ……諸侯を束ねる軍とは、いかにあるべきか」
 応仁の乱になる前は、山名宗全と細川勝元の二人自体の関係は、実はそれほど悪くなかった。政略結婚までしている仲である。それが、率いる守護大名、守護代の思惑に流され、空前絶後の大乱となった。
 少なくとも雪斎はそう見ており、今川義元にはそうなって欲しくないと思い、この関東諸侯同盟軍を画策したのだ。

「……だが、わがこと成らず、だ。こうなった以上、駿河へ戻るべきだろうが、そう簡単にはいくまい。特に山内上杉の長野業正なりまさ、これが出てきた以上、おいそれとは返してくれそうにない。責任を取れ、と」
「長野さまはなぁ……たしかに、油断のならないお方と聞くな」
 藤三郎自体は会ったことが無い。ただ、彼が剣を習った上泉信綱から、その武名は聞き及んでいた。

「話を戻そうかの……いずれにしろ、拙僧は駿河へ帰る。で、藤三郎、一緒に来てくれんかの」
「いや……何で一緒に? 厭ってわけじゃないが、一人で帰ればいいだろ? おれがここに残って、うまく口裏を合わせるから、帰ればいいだろ?」
「……今川はこれから、天下を目指す。目指すにあたって、多くの難敵にあたるだろう。夜襲奇襲、闇討ちは当たり前になるだろう。そのとき、義元を守れる者はいるのか? 駿河にはいない。だから、その者を探すのも、今回のねらいのひとつだった……」
「それが……おれか?」
 藤三郎が自分を指さす。
 雪斎は微笑む。
「拙僧が推挙する。本庄藤三郎、今川義元の近侍となってくれ。そして、守ってくれぬか、承芳を」
「……気持ちは嬉しい」
 藤三郎は槍を振るった。迷いを断ち切るような、そんな動きだった。
「だが、本庄の、実忠さねただの親爺おやじを捨ててはいけねえ。おれは『本庄』藤三郎だ」
 藤三郎は、本庄一族でも末端の方に位置する。しかし、そこを敢えて見出してくれた実忠に恩義を感じていた。

「……そうか」
「ありがとよ、禅師。だから、せめてもの礼だ……駿河に帰りたくなったら、いつでも行きな。相手が長野さまだとしても、おれが行かせてやる」
 藤三郎が笑顔でうなずく。
 雪斎は、彼らしくもなく、涙を浮かべていたが……やはり、笑顔でうなずいた。



「その諏訪左馬助さまのすけとやらが、北条新九郎氏康の名代として、河越城開城と引き換えに、北条孫九郎綱成と城兵の助命を申し出た、と」
 足利晴氏の不機嫌は頂点に達した。しかし、相手が現・征夷大将軍の叔父である小田政治とあっては、うかつに怒りをあらわにするわけにもいかない。今はまだ、将軍家とことを構えたくない。
 そうとも知らず、小田家の家臣・菅谷貞次は、左馬助をこの場に連れてきて良いか、と問う。
「仮にも敵軍の将の名代、会わずに済ますというのは、いかがなものかと」
「……少し考えたい」
 晴氏は対面の場から外し、足利の陣から少し外に出る。
 政治と貞次から距離を置き、叫んでも聞こえないくらい離れたと確認して、晴氏は土を蹴った。
「……慮外者りょがいものどもが!」

 くだらん。
 攻め落としてこそ、足利の武の再興となるのに、何が和平交渉だ。
 そして開城後、同盟軍は解散にすると言う。

「……今こそ、関東を手中にする好機だというのに」
「それは、まことにござりまするか」
 晴氏は、はっとして振り向くと、そこには扇谷おうぎがやつ上杉朝定ともさだが立っていた。
「家臣ども、話にならぬ。それゆえ、公方さまの御教書なりなんなりいただき、従わぬ者にも従わせようと思った次第」
 朝定は片膝をついて、そう語った。
 晴氏は理解者を得たとばかりに、つい、先ほどの政治と貞次と話したことを、語ってしまった。

「……と、申して、に和睦せよと申すのじゃ」
「ほう」
 朝定は決して凡将ではない。扇谷上杉再興を賭けて、これまで戦ってきて、今は八万もの大軍で河越城を包囲するに至っている。家宰の難波田なばた善銀の尽力と太原雪斎の裏工作はあったが。
 その朝定が晴氏の話を聞いて、ふと思い出したのは、北条軍の動向だった。

 青備えは江戸にいる。それは分かっている。
 だが……それ以外の軍勢は、どこだ?
 それが不明だった。
 今、北条の使者が来ている。
 これを帰せば。
 そう……それも、待ち望んでいる和睦をちらつかせれば。
 帰るのではないか。
 奴らの本陣へ。

 朝定は凄絶な笑みを浮かべた。
 そして、言った。

「お耳を拝借」



 諏訪左馬助は自らの「戦果」に打ち震えていた。
 菅谷貞次に招じ入れられ、小田政治が見守る中、北条家の使者として、古河公方・足利晴氏相手に熱弁をふるった。

 北条家はもはや古河公方、関東管領に逆らう意思はないこと。
 両上杉とともに、古河公方にお仕えする家として、今後も働きたいこと。
 ……河越は開城するので、北条綱成及び諸将と城兵の命は助けて欲しいこと。

 全部が全部、北条家としての本意ではないが、北条氏康からは「任せる」と言われている。左馬助としては、綱成たち河越城内の者の命を助ければ勝ちと言えるので、そこは遠慮しなかった。

「……あい分かった」

 晴氏は重々しく、そう、言った。
 勝った、と左馬助は万感の思いで、こうべを垂れた。
 だから、気づかなかった。
 晴氏の座る床几のうしろ、幕の陰。
 酷薄な笑みを浮かべる、扇谷上杉朝定がいたことを。

 今後の和平交渉は、当主・氏康かそれに準じる者を出してもらいたい、と言われ、左馬助としても否やは無かった。相手は仮にも古河公方であり、口利きをしてくれたのは、現将軍の叔父である。北条家としても、それぐらいはしないと礼を失するというのは当然の考えだ。
 左馬助は急ぎ、氏康のいる場所へ馬を向けた。そして道中、さすがに氏康本人を出すわけにはいかないので、誰を出すべきかと思案していた。

 氏康の叔父・宗哲か。
 いや、今、駿河から手を離せない。
 氏康の義兄弟・綱成。
 まさか河越城内から出て来られはしない。
 となると……。
「そうか、氏尭うじたかに、じゃない氏尭さまにやってもらおう」
 氏康の実弟・氏尭なら、物怖じすることなく、大任を果たしてくれそうだ。
 それに、気心も知れている。

 左馬助は開城という譲歩をする交渉にも関わらず、これからの構想を考えると、少し楽しくなってきた。彼は、大任であっても片付けていくことに喜びを感じるたぐいの人間だった。

 ……そして、その左馬助の背後を、一定の距離を置いて尾行してくる一団があった。



 武蔵。
 足立郡。
 調つきのみや神社。

 後世、さいたま市浦和区岸町といわれる住所にあるこの神社の境内に、氏康率いる北条軍は待機していた。
 季節は春を迎え、草草も生い茂り、紅や黄色の花もちらほらと咲き始めている。
 弁千代はその光景を楽しみたいところだったが、残念なことに、日が暮れ始めていた。
 彼は主君・北条新九郎氏康の夕餉の皿を下げながら、その主君に言った。
「……なんで、ここを選んだのですか?」
「ん? 風魔小太郎がここがいいと言ってな」
 北条氏康は、小姓の弁千代の問いに、答えになっていない答えをした。
「いえ、だから、なんで風魔小太郎どのがここがいいとおっしゃったのかを……」
「……やぶ蚊や蠅が出ないそうだ」
「え? そうなんですか?」
「あと、いろいろと不思議があるそうだが……それより、左馬助はどうなったかのう」
「いくら何でも、早すぎるのでは? 相手が相手ですし……今少し、話をつづけられるのでは?」
「そうかのう……」

 ここ、調神社は、河越からほど近く、しかし、扇谷家の太田全鑑の居城・岩付の勢力圏から、ぎりぎり外にあった。
 暮れなずむ武蔵野。
 見えなくなっていく山のを目に、氏康は現在の状況を整理していた。
 赤備え、黒備え、白備えを率いてここまで来たこと。
 青備えは江戸で待機しており、里見家の動向は油断できないこと。。
 清水小太郎、北条宗哲は駿河におり、いつ帰るかは不明であること。
「そして、左馬助がうまくやってくれれば……」



 そのとき、左馬助は、夕暮れどきに馬を疾走させながらも、頭の中はこれからのことでいっぱいだった。

 ひゅう。

 そういう風切り音が聞こえ、戦場でもないのに変だなと思った瞬間、左馬助の背中に激痛が走った。
「……何ッ」
 しかし痛みをこらえ、左馬助はかろうじて落馬を逃れた。

 ひゅう。
 ひゅう。

 逃れたものの、風切り音が次から次へと響く。
 それは、左馬助の肩、足と刺さっていく。
「……しぶとい奴。致し方ない、行くぞ!」
 しびれを切らした謎の敵が、左馬助の背後から手下を連れて襲ってきた。
「……くっ」
 左馬助とて戦国に生きる男。ここで、戦おうと思えば戦えた。
 だが今は、主君・北条氏康に伝えなくてはならない。
 古河公方が河越開城と城兵助命を認めたことを。
 今、この正体不明の敵にかかずらわっている暇はない。

 だが、この左馬助の必死の想いは、次の瞬間、裏切られることになる。
「やれ!」

 どこかで聞いた、この声。
 そうだ、あれは。
 根来金石斎に従って、河越城の守備にあたっていた時。

「扇谷の馬廻り、曽我神四郎!」
「おや? ばれたか?」
 露見したわりには、愉悦を感じさせる台詞だった。
 神四郎は、扇谷上杉朝定の命を受け、一隊を率い、左馬助を尾行していた。
 そして、もうここらでいいだろうと判断し、矢を射かけた。
「夜道だというのに馬を走らせていることと、ちょうど太田全鑑の岩付の城から、これだけ離れたこと……伊勢の鼠賊はこのあたりにいると見た」
 伊勢とは、北条家の旧姓である。しかし、北条家と敵対するものは、かつての執権である北条の姓を名乗るのを認めず、伊勢と言って馬鹿にしていた。

「……ぐっ」
「そうだ貴様、もし伊勢の鼠賊の本陣まで案内《あない》するのなら、一命を助けてやっても……良いぞ」
 得意満面の神四郎は、「良いぞ」のあたりで残酷に笑った。
 神四郎はかつて、高縄原の戦いという、北条の先代・氏綱と扇谷上杉の先代・朝興ともおきの戦いにおいて、氏綱にしてやられるという苦い経験をしている。
 今こそ、積年の恨みを晴らす時とばかりに、神四郎は左馬助をいたぶる。
「…………」
「どうしたどうした! 黙っておっても分からんぞ!」
「……古河、公方さまは……和睦をと云った! 扇谷上杉のお前が何を勝手な……」
「馬鹿め、その公方さまも織り込み済みよ」
「何!?」
「でなければ、こんなに都合よくやれるか? それっ、もっと射ろ!」
「うっ」
 左馬助はさらなる矢傷を負いながらも、必死に考えていた。
 神四郎が北条本陣の場所に目星をつけるのは時間の問題。
 そして、扇谷上杉の本隊を呼ぶにちがいない。
 だが、今なら。
 今なら、物見の一隊のみ。
 これを振り切って、北条本陣にたどり着けば、勝機はある。

「…………」
 左馬助は必死に馬をせる。
 しかし、多勢に無勢。
 草深い道の、曲がり角で。
 何度も射られ、ついに左馬助は落馬した。

「がっ」
 左馬助はもんどりうって、道脇の藪の中へと転がっていく。
 神四郎の部下は、左馬助のとどめを刺すべきか問うた。
「神四郎さま、彼奴きゃつの首を取りますか?」
「捨て置けい」
 神四郎は、つまらんとばかりに唾を吐いた。
「……それより、朝定さまの本隊へ伝えよ。伊勢の鼠賊の本陣、もう間もなく見つかると。今こそ小澤原の雪辱を果たすとき、と」
「はっ」
 小澤原とは、北条氏康がその初陣で扇谷上杉朝興に敗れたその夜、逆に扇谷上杉朝興を夜襲して撃破した場所である。

 春の武蔵野は、もう夜を迎えていた。
 月が、扇谷上杉の兵たちを照らしていた。

 ……その淡い光は、藪の中の左馬助にも届いていた。

「氏尭……弁千代……」

 左馬助の命は今、まさに尽きようとしていた。





火蓋 了
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