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第一部 河東一乱
09 天秤
しおりを挟む戦いにおいて確実なのは、将帥自身の意志と実行力だけである。
カール・フォン・クラウゼヴィッツ
今川義元は憤っていた。
北条新九郎氏康は長久保に籠城した。
今こそ、城を囲って、さんざんに攻め落とすとき。
そう思って武田へ号令をかけたところ、
「当家、当主晴信不在にて、号令に従えず。従えたくば、わが主に伝え候え」
と、かえってきたことである。
常は鷹揚な義元も、この時はかんかんになって怒り、罪のない輿を叩いたりしたが、そのうち、いくら使者を送っても埒が明かないため、自ら武田の陣へ向かうことにした。
「今川|治部大輔である。武田どのはおられるか……いや、いないことはわかっておる。されば、この陣にて一番位の高いもの、あるいは軍を任されているものは、誰か」
輿の上でしばらく待っていると、そのうち、一人の男が、いかにもいやいやといった感じでやってきた。
「その方が今の武田の軍を任されし者か。単刀直入に言うぞ。兵を動かせ。長久保の城、共に攻め……」
「おことわりいたしまする」
義元の発言が終わるのを待たずの拒絶である。義元は目を剥いて輿から下りた。
「その方、名はなんと」
「名乗るほどの者ではござらん」
「謙遜している場合かッ。名を名乗れと申すのじゃ! 予は名乗ったぞ!」
義元が名を名乗ったのは事実なので、男は渋々と名乗った。
「山本勘助」
「ほう……貴公が、あの機略縦横の……いや、では勘助どの、改めて申すが、城攻めの与力を頼み申す」
「治部大輔どののお頼み、承知したいのはやまやまでござるが……」
少しもそうは見えない勘助の表情に、義元は苛々する自分を止められない。
「やまやま、と申すなら、早う晴信どのに連絡を取って、呼ぶなりしてはどうか。大体、同盟相手に対して、不義理であろう」
「まあ、武田はすでに、同盟相手だった北条に対して不義理をしてますしな」
いやなことを云う奴だ。義元の勘助に対する印象は、悪化するばかりである。
「……ふん、なら言葉を飾るまい。お父上、信虎どのに頼むとしようかの。どうじゃ、これでも何もせぬか」
武田信虎。晴信の父であるこの男は今も健在で、駿河追放後に、さらに子をもうけているぐらいである。
「それでござる」
突然、勘助は手を打って、義元を驚かせる。
「な、なんじゃ」
「いや、主が帰国した理由。今のお言葉でわかり申した。主は、お父上に舞い戻られては困るゆえ、甲斐に戻り、地固めをしたいとこぼしておりました。つまり、お父上お父上と、今川どのがしつこかったからでござる」
「…………」
痛烈な皮肉に、さすがの義元も押し黙るほかなかった。
天秤
「……ああ、釣りがしたいのう」
今川義元が武田の陣に赴いた頃。
包囲軍とにらみ合いとなり、籠城しかやることのない長久保城内にて、北条新九郎氏康は、潮風を嗅ぎながら、鼻をひくひくとさせて、そんなことを放言していた。
「新九郎さま、兵に聞こえますよ」
小姓の弁千代が苦言を呈す。
「かまわん、かまわん。どうせ皆、戦いたくなかろう。おれが釣りをしたいと言っても言わなくても、変わらん」
あろうことか、氏康は耳をほじり出した。よし、あとちょっとだ、と熱中し出したので、弁千代は諫言すべきと立ち上がった、そのとき。
「おい新九郎、小太郎どのが来たぞ」
「お、小太郎か。そうか小太郎どのが来たか。」
清水小太郎吉政が無遠慮に、どたどたと城主の間に入ってきて、笑劇のようなやり取りをする。弁千代はよく分からない、といった表情をしているので、清水小太郎が教えた。
「風魔の方の小太郎どのが来た、と言ったのだ」
「風魔衆の頭目がですか?」
北条家に仕える草の者(忍者)の集団、風魔衆。弁千代は詳しくは知らないが、北条家の初代、宗瑞(北条早雲)との約定により、北条家の目となり耳となり、諜報を司り、時には戦闘もおこなうことを任務としている。その頭目は歴代「風魔小太郎」を名乗り、北条家当主へいつでも目通りすることが許されている。
「……よし、通せ」
いつの間にか威儀を正した氏康が、弁千代に声をかけた。弁千代も慌てて服や髪が乱れていないか確認し、「通られよ」と、外へ声をかけた。
「御免」
すう、という、かそけき音が聞こえた、と思ったら、氏康の前に、白髪の総髪の、初老の男が平伏していた。
「……面を上げよ」
「では」
初老の男――風魔小太郎は、顔を上げた。苦み走った表情をしていて、不思議に涼やかな顔だった。
「前置きなく、申し上げます」
風魔小太郎は、ずい、と膝を前へ進めた。
「聞こう」
「河越に、鬼美濃が現れました」
「ほう」
「…………」
武田家の重臣・原美濃守虎胤、通称・鬼美濃。北条綱成と弁千代の父親を討った男である。
実は、北条と武田は、正式に同盟を手切れにしていない。ことと次第によっては、今川を挟撃する可能性もあるか、と思って、氏康は特に何もしていないでおいた。晴信の方からも何もしてこないので、形式上、甲相同盟は存続しているのである。
「……いえ、関東管領の陣中にある、太原雪斎禅師へ、今川義元公の書状を届けるという体で現れたようです」
氏康がふと弁千代を見ると、沈痛な面持ちで下を向いている。父の仇が、兄の綱成の居る河越に現れたのだ。虚心ではいられまい。
そこで氏康は、わざとらしく清水小太郎に声をかける。
「……あれ? おい小太郎」
「は」
「ああいや、風魔小太郎どの、貴殿ではない。おい小太郎、お前だよ、清水小太郎」
「小太郎小太郎うるさいな! こういうときは吉政とか、清水とか呼べよ!」
氏康のとぼけた言動に、清水小太郎がいきり立つ。弁千代は思わず笑ってしまい、何と、風魔小太郎も破顔し、そして清水小太郎に頭を下げた。
「これは拙者がまぎらわしい名乗りをしているせい……お許しくだされ、吉政どの」
「ああ、あ……いや、すまぬ」
清水小太郎が緊張している。彼はむかし、まぎらわしい名前だ、と言って、風魔小太郎に勝負を申し込んだことがあった。しかし、結果は惨敗であり、以来、風魔衆はちと苦手であった。
「ああそれで小太郎な」
「もうお前は黙ってろよ新九郎! ……で、何だ?」
「中島隼人正から何も無いか? 無理矢理突破されたとか、こっそり通られた形跡があるとか?」
中島隼人正は、武蔵・小澤原の地侍で、今川義元と太原雪斎の連絡を――特に甲斐の武田から武蔵野を通るルートを、警戒してもらっていた。
「何もないぞ」
「そうか……とすると、信濃、上野から武蔵河越へ出たのか……でも、どうやって?」
思案顔の氏康に、風魔小太郎が声をかける。
「申し訳ありません、新九郎さま」
「おお小太郎どの。どうされた?」
「実はその後、河越の城に、六連銭の紋所の男が入っていきました」
清水どのとのやり取りが面白うて黙っておりました、と風魔小太郎は正直に言った。笑顔で。
清水小太郎はむくれたが、特に何も言わなかった。ただ、風魔小太郎とは目を合わそうとしなかった。
「六連銭? 弔いの手向けを紋所とするとは……変わった男だのう」
氏康は顎に手をやって、不思議そうな表情をする。
「あの……」
「ん? 何だ、弁千代」
「その……六連銭のお方が、信濃、上野から河越へと鬼美濃を導いた、ということでございましょうか」
「然り」
風魔小太郎がうなずく。
「……では、その六連銭のお方は、武田の臣ということですか?」
「弁千代どの」
風魔小太郎は、弁千代の方を向いて微笑む。
「拙者が殿に目通りを願ったのは、まさにそれを調べたからでござる」
口には出さないが、風魔小太郎は弁千代の読みを褒めていた。そして改めて氏康に向き直る。
「殿。六連銭のお方については、拙者、武田家に伝手がありまして、そこで確かめました」
「……弁千代の読みどおり、武田の手の者か?」
「半分正解でござる」
「半分? 何言ってんだ?」
これは清水小太郎の無遠慮な発言である。風魔小太郎は、清水小太郎をじろりとにらんだ。清水小太郎は、おっと口が滑ったとばかりに口を片手で隠す。
「……六連銭のお方は、真田というお方。信州の国人でありましたが、所領を失い、つい最近まで、山内上杉憲政に陣借りしていた模様」
「山内上杉? それが何で武田に……?」
いつの間にか口から手を離した清水小太郎が、また口を出す。
「……おそらく、あの気位の高い山内上杉憲政とその家臣のことだ、国人の、しかも所領なき流浪の者など、歯牙にもかけず、かさにかかって手ひどい扱いをしたんだろうよ」
氏康が苦み走った表情をして言う。彼自身、さんざん「伊勢の鼠賊」呼ばわりされてきた身である。
「それで、山内上杉から武田へ走った……と」
弁千代が氏康の発言を引き取る。
風魔小太郎はうなずき、「その際、家紋を六連銭にした様子」と付け加えた。
「つまり……己への手向けを家紋とする。これは容易ならざる男だな」
「はい。しかも手下の草の者、かなりの手練れとお見受けいたす。拙者の手の者とは闘いはしませんでしたが、河越からここへ来るまで、かなり手こずったようです」
「そうか」
氏康は両手で髪の毛をうしろへ撫でつけ、少し考える。
「……鬼美濃と真田。武田としては、かなりの駒を打ってきたというところか……でも何故、そこまでするのか。下手な駒を打てば、かえって今川に睨まれる……」
氏康は河越周辺の地図を見る。
「関東管領に扇谷上杉……関東諸侯……関東……もしや」
河越から目線を北上させる。目線の先は――
「古河、か……成る程。今川の秘策は――古河公方を、足利晴氏を、引きずり出す気か」
清水小太郎が地図に平手を叩きつける。
「新九郎、そんなこと、できるのか? だってお前、義弟でもあり、それに書状を――」
「書状なんかじゃない。おそらく太原雪斎が自身で赴くのだ。たとえ義理の兄弟とはいえども――これは、勝てない」
氏康は、清水小太郎の平手をゆっくりと地図からどける。
「……小太郎どの」
「は」
「河越に行け、と言ったら、行けるか」
「八万の軍勢は骨ですが……相手が上杉ということなら、まあ、やれます」
風魔小太郎は目を半眼にして氏康を見た。剣呑な雰囲気に、弁千代は氏康と風魔小太郎の間に入ろうとしたが、清水小太郎に制止される。
「風魔にとって、上杉は特別なんだ。それだけだ。気にするな」
氏康は両手を前に付き、風魔小太郎に首を下げる。
「では頼みたい。是非、河越に赴き、わが義弟・孫九郎綱成に会うて、伝えてくれ」
氏康の常ならぬ雰囲気に、風魔小太郎も頭を下げる。
「承りましょう」
「河東の状況、芳しくなく。河越も然り。考えておいて欲しい……河越を捨てることを、と」
*
一方の河越の包囲陣の陣営だが、気位の高い関東管領・山内上杉憲政と、北条への復讐に燃える扇谷上杉朝定が、いがみ合いを繰り広げており、双方の家臣も躍起になって、互いを口汚く罵っていた。心ある家臣、山内上杉の本間近江守や本庄実忠、扇谷上杉の難波田善銀や太田全鑑はあきれ顔で主君を抑え、僚将を叱り、事態を収拾しようとしたが、はかばかしくなく、ついに全鑑は匙を投げ、黙り込んでしまった。
ちなみに、武田家名代の原虎胤は「遠慮する」の一言のみ言い置いて、さっさと愛馬に乗って、物見と称して出て行ってしまった。
「……禅師がいなくなった途端、これだ。先が思いやられる」
難波田善銀は頭を抱えた。彼は十二歳で父の死により扇谷上杉家当主となった朝定を不憫に思い、ずっと支えてきた。朝定が当主になった直後に居城・河越城を奪われた時も、善銀自身の居城である松山城を供し、以後、朝定を陰に日向に支え、どんなに辛くとも、扇谷上杉の当主である誇りを忘れないようにと説いてきたが、それが今、裏目に出てきた形であった。
「そも、関東管領関東管領と言われるが、当扇谷上杉とて、関東管領を継ぐ家格である。山内上杉がそうまで逃げ腰でおられるのなら、扇谷上杉の方で関東管領を任されても良いが」
この発言に、さすがに鈍重な山内上杉憲政も激怒した。彼もまた、三歳にして父の死に遭い、当主を継ぐことになるかと思いきや、当時の古河公方・足利高基からの養子・足利晴直に当主の座を奪われていた。その後、関東諸侯の力を借りて、当主の座に返り咲いている、苦労人でもある。ただ、その苦労を糧に得た関東管領という位に執着を持っており、それが気位の高さとなって表れていた。
しかも、朝定と憲政は、ともに二十代前半という若さで、ともに譲ることができない年齢である。
「扇谷上杉ごときがいちいち関東管領と口にするな。おこがましい。伊勢の鼠賊に江戸も河越も奪われた体たらくが山内上杉に指図するとは、図々しいにもほどがあるわ……たわけッ」
「たわけ? たわけと申したか山内上杉、ならば貴様はうつけだ! うつけ山内!」
「何い? たわけ扇谷が!」
次第に子供の喧嘩のような口喧嘩が始まり、さすがに主戦派である山内上杉の倉賀野三河守と扇谷上杉の曽我神四郎も、これは止めた方が良いのではないかと思ったときに、その伝令が入って来た。
「伝令!」
「な、なんじゃ? 何でもいい、許す、報告せよ」
渡りに船と、山内上杉の本庄実忠は伝令の手を取りかねないほど近寄る。
「は、はあ……あの、河越城より、白旗をかかげた武者が出てきて、扇谷上杉の陣へ向かっているようです」
「白旗?」
「おそらく……軍使のようですが、いかがいたしますか?」
「いますぐ、たたき切……」
扇谷上杉朝定の不穏な発言をさえぎり、難波田善銀が声を上げた。
「あ……会おうっ。各々がた、軍議はとりあえず、取りやめにして、軍使に会い、伝えてきた内容を吟味した上、ということでよろしいか」
「いや、いまこそ扇谷上杉に身の程を……」
本間近江守も同じく、主君・山内上杉憲政の発言をさえぎった。
「承知! では、難波田どの、軍使への引見はお任せいたす! ささ、殿、軍議はおわりましたぞ! わが陣に帰りましょうぞ!」
「三河守! 何をしている、帰るぞ!」
なおもその場にとどまろうとする倉賀野三河守を、本庄実忠がその剛力で引っ張る。本庄藤三郎ほどではないが、彼もまた、剛力を誇る武士である。
「曽我どの、戻るぞ」
太田全鑑は曽我神四郎をひとにらみする。神四郎は舌打ちしたが、全鑑に従って、扇谷上杉の陣へ戻っていった。
*
「これなるは山中主膳。なにとぞ、難波田善銀どのに、目通り願いたい」
北条軍の宿将・山中主膳は、難波田善銀とは松山城風流合戦という和歌のやり取りをした間柄で、扇谷上杉軍にもその顔が知られていた。扇谷上杉軍の宿将である善銀は主膳を手厚く迎え、血気に逸る朝定を全鑑に頼み、自身の居所へと案内した。
「主膳どの。こたびはいかなる所以があって、わが陣に?」
「そのことでござる」
主膳は直垂姿、つまり甲冑をつけずに武装していない姿で来ていた。さすがの扇谷上杉軍も、非武装で白旗を持つ主膳に、無下に矢を放つわけにもいかなかったらしい。
「善銀どの、単刀直入に申す。河越の城、明け渡す故、城の者の命は助けて下さらんか」
「な、なんと申される?」
「そのままでござる。八万の兵相手に、籠城など愚策。兵糧とて限りがある。なら、さっさと明け渡してしまった方が……と」
「い、いや、左様でござるか……」
善銀は、これこそ軍議が必要な事柄だと思ったが、さきほどの軍議の様子をかんがみるに、どう考えても検討が検討にならないうちに終わりそうな気がした。さりとて、主膳ほどの者を遣わしての申し出である。生半可な返事をしては、扇谷上杉、いや、山内上杉を含めて関東諸侯のこけんにかかわる。
「し、しばらく、しばらくお待ちあれ」
「あい分かった」
主膳は善銀の悩みなど、どこ吹く風で、扇子を取り出して「一首詠もうかの」と太平楽である。善銀は「ご随意に」とのみ言い置いて、そそくさと場を抜け出した。そこへ、主君を何とか寝所へ帰らせた太田全鑑と出くわす。
「……返事は後日、ということにするほかありませんな」
「……やはりか」
全鑑も軍議の再開には反対である。せめて一日おいて、さきほどの怒りを覚ましてからでないと、危ない。
「山内上杉には、本間江州あたりにでも耳打ちしておけば、扇谷上杉の独断ではないとしてくれるでしょう」
「そうだのう……」
本間江州、つまり本間近江守は現状、山内上杉の家臣を束ねる存在であり、常識的な良将でもある。善銀が山内上杉との同盟を模索した時も、取次をしてくれた縁もある。
しかし、善銀の悩みは尽きない。
「その後日とした返事もどうするかと考えると、頭が痛い……」
「…………」
全鑑は皮肉屋ではあるが、薄情ではなく、むしろ善銀のこれまで尽忠を評価しており、だからこそ今回の出陣にも同意したという経緯がある。
「……では、禅師が戻られてから、ということにされては」
「おお。そうだの。それしかない。さすがは太田どの。名案じゃ」
名案というほどの案でもない。単なる先延ばしである。皮肉屋らしい全鑑の感想だが、少なくとも善銀の頭痛は癒えたようで、彼は満足した。したが、朝定への報告と山内上杉への使者を頼まれたので、今度は全鑑が頭痛に悩むことになった。
天秤 了
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