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03 征夷大将軍は足利家の家職
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「光秀は隠居させる」
信忠は目を瞠る。
林秀貞や佐久間信盛は譜代の臣だ。
だから信長が「出ていけ」といえばそれを拒まずに受け入れる。
だが明智光秀はちがう。
信長自身が述べているように元幕臣であり、己の才覚ひとつでのし上がった男である。
そんな男がやめろと言われたところで、素直にやめるのか。
「まあ聞け」
信長としては、単に光秀にやめろと言うわけではない。
それは、信忠――織田家の今後にうまくからませるつもりである。
「お前には征夷大将軍になってもらう」
「将軍」
来るべきものが、ついに来たかと思う信忠。
将軍位。
それは、信長自身が朝廷から打診されていた。
つい先日も朝廷から使者が来て、将軍だけでなく、あるいは太政大臣、はたまた関白のどれかににならないかと言われている。
「四年前に右府を辞して以来、官に就いておらぬ。そこを朝廷は気にしておるようだが、その四年前に、おれは信忠に官位なり官職なりを与えてやってくれと言ってあるのだが」
その時、信長は信忠に織田家の家督を譲っていた。
むろん、朝廷としては事実上の織田家当主である信長を重んじて、信長に将軍位を勧めたわけだが。
「しかしお父」
「何だ」
「将軍というのは足利家の家職ではないか。少なくとも、世上ではそう言われている」
そういう認識があればこそ、流浪の覚慶すなわち足利義昭は織田信長に推戴されて上洛し、征夷大将軍に成れた。
ただの武家ではない足利家の者だからこそ、覚慶は朝廷から将軍位を宣下され、世上からも将軍と認められたのだ。
「承知している」
信長はそこで、くぐもった笑いを洩らした。
「だからこそおれは将軍位を避けて来た。だからこそ信忠に家督を譲った。どうも朝廷は、そこを分かっていない」
信長は苦笑しながら、己の杯に酒を注いだ。
信忠が慌てて注ごうとするが、信長は断った。
「それより」
崩された相好の中から、目だけが鋭い。
これが桶狭間の勝者の目か、と信忠は怖気を震った。
「おれの言いたいこと、分かったか」
信長の問い。
父の目顔。
それを受けて今、信忠の頭脳は忙しく回り始める。
織田家による幕府。
父、信長はそれを目指している。
今までの話で、それは何となく分かった。
そしてそれを信忠の下で実現しようとしている。
一の将であり、権臣である光秀を隠居させようとする試みがその証左だ。
だが、何故、信忠なのか。
何故、信長自身ではないのか。
征夷大将軍は足利家の家職。
それが何故、信長ではなく信忠なら成ることが可能なのか。
「あ」
足利家。
それは。
「気づいたようだな、奇妙、いやさ武衛どの」
「武衛」
武衛とは、兵衛府の唐風の呼び名。
この国のある家は、代々、兵衛府の督や佐に任じられてきた。
それゆえに、そう呼ばれてきた。
その家は、足利家の分家──足利尾張家とも呼ばれていたが、やがてはその所領の名から、こう称された。
「斯波……」
「そう、斯波家。お前はその家督を継いでいたな」
他ならぬ足利義昭の手によって。
足利本家の義昭が、足利の分家である斯波家の家督であると、信忠を認めていたのだ。
「………」
信忠の沈黙に驚きを見て、信長は満足そうに頷く。
「しかもご丁寧に、足利二つ引の家紋までな」
将軍を家職とする足利家の分家であり、家紋まで持つ。
これほどまでに、征夷大将軍に適した者がいるだろうか。
「おれ自身が将軍になるよりは世上には受け入れやすいと思うて、これで進めて来たが、朝廷には分からなかったようだ」
「待ってくれ、お父」
「何だ」
「お父はこれあるを期して、おれに斯波の家督を?」
今度は信長が沈黙した。
だが信忠は満足しない。
というのも、信長が不得要領な表情をしていたからだ。
「お父?」
「正直、そこまで考えていなかった」
信長としては、当時、自身が斯波家の家督を貰うことをうまくないと感じたという。
「戦場では、そういう感じを大事にする。おれもまた、政といういくさを戦う中、その感じに従った」
信長は懐かしそうな目つきをして、酒杯をあおった。
それは、信長の傅役・平手政秀の教えによるものであるからだ。
「ま、変に斯波の人間にしゃしゃり出てもらっても困るし、家督は押さえておくことしたわけだ」
ちなみに斯波家前当主・斯波義銀は生存しているが、義銀は一度、今川義元と手を組んで信長への「謀叛」を企んだことがあって、追放されている。
信忠は目を瞠る。
林秀貞や佐久間信盛は譜代の臣だ。
だから信長が「出ていけ」といえばそれを拒まずに受け入れる。
だが明智光秀はちがう。
信長自身が述べているように元幕臣であり、己の才覚ひとつでのし上がった男である。
そんな男がやめろと言われたところで、素直にやめるのか。
「まあ聞け」
信長としては、単に光秀にやめろと言うわけではない。
それは、信忠――織田家の今後にうまくからませるつもりである。
「お前には征夷大将軍になってもらう」
「将軍」
来るべきものが、ついに来たかと思う信忠。
将軍位。
それは、信長自身が朝廷から打診されていた。
つい先日も朝廷から使者が来て、将軍だけでなく、あるいは太政大臣、はたまた関白のどれかににならないかと言われている。
「四年前に右府を辞して以来、官に就いておらぬ。そこを朝廷は気にしておるようだが、その四年前に、おれは信忠に官位なり官職なりを与えてやってくれと言ってあるのだが」
その時、信長は信忠に織田家の家督を譲っていた。
むろん、朝廷としては事実上の織田家当主である信長を重んじて、信長に将軍位を勧めたわけだが。
「しかしお父」
「何だ」
「将軍というのは足利家の家職ではないか。少なくとも、世上ではそう言われている」
そういう認識があればこそ、流浪の覚慶すなわち足利義昭は織田信長に推戴されて上洛し、征夷大将軍に成れた。
ただの武家ではない足利家の者だからこそ、覚慶は朝廷から将軍位を宣下され、世上からも将軍と認められたのだ。
「承知している」
信長はそこで、くぐもった笑いを洩らした。
「だからこそおれは将軍位を避けて来た。だからこそ信忠に家督を譲った。どうも朝廷は、そこを分かっていない」
信長は苦笑しながら、己の杯に酒を注いだ。
信忠が慌てて注ごうとするが、信長は断った。
「それより」
崩された相好の中から、目だけが鋭い。
これが桶狭間の勝者の目か、と信忠は怖気を震った。
「おれの言いたいこと、分かったか」
信長の問い。
父の目顔。
それを受けて今、信忠の頭脳は忙しく回り始める。
織田家による幕府。
父、信長はそれを目指している。
今までの話で、それは何となく分かった。
そしてそれを信忠の下で実現しようとしている。
一の将であり、権臣である光秀を隠居させようとする試みがその証左だ。
だが、何故、信忠なのか。
何故、信長自身ではないのか。
征夷大将軍は足利家の家職。
それが何故、信長ではなく信忠なら成ることが可能なのか。
「あ」
足利家。
それは。
「気づいたようだな、奇妙、いやさ武衛どの」
「武衛」
武衛とは、兵衛府の唐風の呼び名。
この国のある家は、代々、兵衛府の督や佐に任じられてきた。
それゆえに、そう呼ばれてきた。
その家は、足利家の分家──足利尾張家とも呼ばれていたが、やがてはその所領の名から、こう称された。
「斯波……」
「そう、斯波家。お前はその家督を継いでいたな」
他ならぬ足利義昭の手によって。
足利本家の義昭が、足利の分家である斯波家の家督であると、信忠を認めていたのだ。
「………」
信忠の沈黙に驚きを見て、信長は満足そうに頷く。
「しかもご丁寧に、足利二つ引の家紋までな」
将軍を家職とする足利家の分家であり、家紋まで持つ。
これほどまでに、征夷大将軍に適した者がいるだろうか。
「おれ自身が将軍になるよりは世上には受け入れやすいと思うて、これで進めて来たが、朝廷には分からなかったようだ」
「待ってくれ、お父」
「何だ」
「お父はこれあるを期して、おれに斯波の家督を?」
今度は信長が沈黙した。
だが信忠は満足しない。
というのも、信長が不得要領な表情をしていたからだ。
「お父?」
「正直、そこまで考えていなかった」
信長としては、当時、自身が斯波家の家督を貰うことをうまくないと感じたという。
「戦場では、そういう感じを大事にする。おれもまた、政といういくさを戦う中、その感じに従った」
信長は懐かしそうな目つきをして、酒杯をあおった。
それは、信長の傅役・平手政秀の教えによるものであるからだ。
「ま、変に斯波の人間にしゃしゃり出てもらっても困るし、家督は押さえておくことしたわけだ」
ちなみに斯波家前当主・斯波義銀は生存しているが、義銀は一度、今川義元と手を組んで信長への「謀叛」を企んだことがあって、追放されている。
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